今回は、岡崎・矢作橋から七里の渡しまでの1泊2日の旅。少しゆとりのある行程。
6月16日(火)、17日(水)の2日間。矢作橋たもとの「出合之像」からスタート。「太閤伝説・豊臣秀吉(日吉丸)と蜂須賀小六」にちなんだもの。
実際には、矢作橋が架けられた1601年には豊臣秀吉は既に亡くなっているため、この話は作り話。が、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に「出合之像」という像が建てられた。
橋の付け替え工事・整備によりこの付近も変わってきた。土手を下り、左手の道に入ると、「旧東海道」。かつての家並みがところどころに残っている。
まもなく国道1号線と合流、「(日本橋から)330㎞」ポスト。
「安城市」に入ってまもなく、国道から離れてY字路を右に進むと、松並木になる。
松並木を過ぎると、右手の「熊野神社」には、「予科練の碑」「第一岡崎海軍航空隊由来」などの記念碑が並んでいる。かつての広大な跡地は、戦後の食糧危機に再開拓され、その後の経済成長に伴い大きく変貌している。
現在のようす。
「予科練」は、「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称。14歳半から17歳までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習課程を経て戦地へ。
対外戦争への積極的な法制化が仕組まれている今日こそ、こうした「戦跡」をどのように平和教育に生かしていくかが問われてもいる。
日本橋から83里目「尾一里塚」。
そこから10分ほどで、右手に「永安寺の雲竜の松」。
そこからしばらく進むと、「県道76号線」との交差点には、「明治用水」にちなんだ大きな石碑。
「明治用水」
愛知県豊田市にて矢作川から取水し、安城市、豊田市、岡崎市、西尾市、碧南市、高浜市、刈谷市、知立市に水を供給している。本流、西井筋、中井筋、東井筋の幹線と支線から成り、幹線は88km、支線は342kmある。灌漑面積は約7000ヘクタール。1880(明治13)年に完成した。
現在は、暗渠化の工事が進み、自転車専用道路などに。
交差点にある「明治川神社」には都築、伊豫田、岡本ら明治用水建設の功労者が祀られている。
交差点を越えると、松並木が断続的に続く。
「猿渡川」を越えて、知立市へ。
橋を渡ると、左は「来迎寺公園」。すぐ先の交差点には、「元禄の道標」。
従是四丁半北 八橋 業平作観音有 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白。
元禄9年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。
分岐点を望む。左右に通じる通りが東海道。
片道10分くらいの道のり。ぜひとも「かきつばた」の地に行こうと、ここで右折して「八橋・無量寿寺」へ向かう。ほとんど人通りのない、新しい住宅が建ち並ぶ道を北へ。すでに時季外れではあるが。
案の定、誰もいない境内。庭園の方に回ったところ、このような有様。ガッカリ!
八橋のかきつばたは、平安の歌人“在原業平”が、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と、句の頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだように伊勢物語の昔から知られるかきつばたの名勝地。
庭園の面積約13,000平方メートル、16の池(5,000平方メートル)に約3万本の「かきつばた」が植えられている。特に花が咲きそろう5月の10日前後が1番の見頃、という。
庭園の奥にモニュメント。
「業平像」。
想像していたよりも手狭な「無量寿寺」境内。また「かきつばた」はほとんど刈り取られていたが、芭蕉句碑などもあって、静かな散策を楽しめるところだった。
「芭蕉連句碑」。
かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉
麦穂なみよる 潤ひの里 知足
こうして一通り見学したあと、再び「東海道」へ。途中、「明治用水」遊歩道に四阿風の休憩施設が見えたので、そこに立ち寄って、昼食休憩。なんと目の前に「芭蕉句碑」があった。
杜若 語るも 旅のひとつかな
今回の旅の心境にピッタリ。再び「東海道」を西へ。まもなく「来迎寺一里塚」。両塚とも完全に遺されているのは、大へん珍しい。
南側。 北側。日本橋から84里目。
しばらく道なりに進む。
「元禄12年の道標」。
まもなく、「知立」(池鯉鮒)の「松並木」に到着。
歩道橋から望む。
知立の松並木は、近年まで牛田町から山町まで約1キロ続いていたが、住宅が次々と建てられて今では450メートル程になってしまった。戦前までは、昼なお暗いほど老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年の伊勢湾台風により60~70%の松が折られたり、根ごと吹き倒されてしまった。昭和45年、幼松158本を補植し、以後毎年松食虫の防除に努め、昔の姿を今にとどめている。
また、この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝2年(701)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾(引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに)長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。
途中には馬の像。
池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく・旧仮名遣いでは「ちりふ」)は、東海道五十三次の39番目の宿場。日本橋から約330kmで、当時でおよそ10日間かかったといわれている(当方は、その倍ほどかかっている)。
馬市が立ったことで知られており、 毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていた。 また三河地方の特産品であった木綿市も開かれていた。街道沿いの松並木は、馬をつなぐためにも使われていた。
東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市 / 歌川 広重
池鯉鮒は珍しい地名である。鯉と鮒が沢山いた池があったという。毎年4月25日から5月5日に馬市が開かれる。400から500頭の馬が集まり、馬喰や馬主が来た。大きな松は談合松と呼ばれていた。この時期には遊女や役者まで集まってきて賑わったそうである。初夏の爽やかな風景である。
(「知足美術館」HPより)
※「首夏」=初夏の頃。旧暦で4月の異名。
「万葉歌碑」。 「馬市之址」碑。
【万葉の歌】
引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほほせ たびのしるしに
左の通りは「国道一号線」。
《39 池鯉鮒》(2015.07.05~掲載)
「国道1号線」で地下道を上がると、「池鯉鮒宿」。
しばらくして名鉄三河線の線路を越える。
街道沿いの古い家並み。
中町の六叉路。正面の細い路に入る。
右手にある「食品館・美松」の駐車場に「池鯉鮒宿問屋場之跡」。
「国道419号線」を渡り、右手の案内図をもとに本陣跡へ。東海道から少し南に入ったところにある。
裏手の石碑は「明治天皇行在所聖蹟」記念碑。
東海道に戻ってしばらく進むと、左手に山車を収納する大きな蔵。
「本町山車蔵」。
「了運寺」のところを左に。角には「知立大明神」の「常夜燈」。
「国道155号線」の横断は、地下道を利用。しばらく進み、右折して行くと、左手に「知立公園」。「知立花しょうぶ祭」を開催中。
「かきつばた」を見ることができなかったので、ここでしばし休憩。休憩所で地元・知立名物の「大あんまき」を。
薄く細長いホットケーキ生地で餡を巻いたもの。
園内には芭蕉の句碑。
不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市 芭蕉翁
この句、「ふだんたつ ちりふのしゅくの もめんいち」と読ませていますが、『芭蕉俳句全集』には掲載されていない。
誰の作?
逢妻川の土手に突き当たったら左へ折れ、「逢妻橋」を渡る。
「国道1号線」に合流。「名古屋25㎞」の標示。
「刈谷市」に入って、「一里山歩道橋」歩道橋の下に「一里塚跡」。
日本橋から85里目。
「夢」と刻まれた石碑の先で「国道1号線」から右の道に入り、倉庫・工場が並ぶ道をしばらく進み、再び「国道1号線」に合流し、「歩道橋」を渡り、反対側へ。
これから進む道を望む。
洞隣寺には「めったいくやしいの墓」と「中津藩士の墓」があり、墓にまつわる伝承が残されている。
今度は右手に「いもかわうどん」の説明板。
江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。
きしめんのルーツとされるいもかわうどんは「芋川」の名物であるが、芋川は今岡村の一部だったとする説、芋川=今岡村とする説、芋川=今川村とする説など諸説ある。
古い家並み。
名鉄「富士松」駅先の県道を「歩道橋」で越えてしばらく進み、「今川町」交差点で「国道1号線」を横断、反対側に進み、「境橋」に向かう。
「境橋」。
この橋が国境で、いよいよ三河国から尾張国へ入る。そのまま進み、「伊勢湾岸自動車道」のガードをくぐり「国道1号線」に合流。
「案内」表示に従って、国道1号線から左の道に入り、県道57号線の高架をくぐると、国指定史跡の「阿野一里塚」がある。
道の両側にきちんと残っている。
愛知県内には18の一里塚があったが、現存するのは4ヶ所。そのうち、道の左右とも残っているのはこの塚と知立市のみである。この一里塚は、「日本橋」から86里目。
ここから緩やかな上り坂。
急に道が広くなり、周囲も畑などがあって開けた場所に。その先で「国道1号線」と合流。
「中京競馬場」入口には馬の像。
「旧東海道」は左に折れ、名鉄のガードをくぐると、 左手にある大きな病院が「桶狭間病院」。そこを左に折れると、「桶狭間古戦場伝説地」。
「史蹟・桶狭間古戦場」碑。
永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国・桶狭間で行われた合戦。
2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本の歴史上有名な戦い。
今川治部大輔義元の墓
「桶狭間病院」の前を通る道が旧東海道。
再び「国道1号線」に合流し、しばらく進み、「大将ヶ根」交差点で向かいの道に進むと、有松の町並みに。ここは、名古屋市緑区。
《40 鳴海》(2015.7.22~掲載)
いよいよ有松の町並みに。
広重も鳴海の宿はこの町並みを描いた。
東海道五十三次之内 鳴海 名物有松絞 / 歌川 広重 (「知足美術館」HPより)
大正期の鳴海(「同」より)。竹田家。 現在のようす。ほとんど変わっていない。
有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)
愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域を中心に生産される絞り染めの名称。江戸時代以降日本国内における絞り製品の大半を生産しており、国の伝統工芸品にも指定されている。「有松絞り」、「鳴海絞り」と個別に呼ばれる場合もある。
木綿布を藍で染めたものが代表的で、模様については他の生産地に類を見ない多数の技法を有する。
有松絞りで染め抜かれた文様。
乳児に話しかけるご主人「すてきな浴衣だね、お婆ちゃんが染めてくれたのかな」にこっり笑いながら答える母親「ええ、そうなんです」。ちらっと横目で見るとあざやかな藍色の浴衣。
【服部幸平家住宅】 【服部家住宅】
【小塚家住宅】 【岡家住宅】
他にもほれぼれするような立派なおうちが東海道の両側に建ち並んでいる。
これまでの道中では、一番宿場町らしい町並みに出会った。
名古屋市有松町並み保存地区。東から西まで約800㍍、徒歩で約10分の範囲。北は名鉄線、南は国道1号線に挟まれた区域。現代と江戸が微妙に交差しつつ、江戸時代の雰囲気をそのまま残している。
道路上のマンホールの文様はミズスマシ? 有松絞りでこのような文様があるのだろう。
まだまだ見所が多いところだが、そろそろ西のはずれにさしかかる。
町並みの奥に見えるのは、「名古屋第二環状自動車道」。
突然、現代に戻る。頭上には、「名古屋第二環状自動車道」の高架道路。その橋脚の下には、「有松一里塚跡」碑。
「スーパー」先の交差点のところに大きな「常夜燈」。
鳴海宿の東の入口平部町に建てられたものである。表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜燈」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。
文化3年(1806)に設置されたもので、大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時をしのぶことができる。
ここが鳴海宿の入口。
東海道をイメージした石碑。
相原町と本町との境目付近に「曲尺手」。
現在の鳴海宿には、当時のものは寺院以外は残っていないようだが、2009(平成21)年、高札場が復元された。本町交差点を右折したところにある。
通りを挟んで高札場の反対側には、最古の芭蕉供養塔がある「誓願寺」がある。
東海道に戻った左側に「本陣跡」碑。
「作町」交差点を右折し、しばらく進むと、右手に「丹下町常夜燈」。ここまでが「鳴海宿」。
「山王山」交差点を横断して、「天白橋」を渡ると、「緑区」から「南区」へ。
その先に「大きく細長い古地図(絵図)」。
昔のままの道筋。
前方にこんもりと茂った大木。「笠寺一里塚」。
日本橋から88里目。名古屋市内を通る旧東海道唯一の一里塚で、現在、東側だけが現存している。
「笠寺一里塚」の先には、「笠覆寺(りゅうふくじ)・笠寺観音」。
「名鉄本笠寺」駅横の先の交差点を右に曲がる。分岐点には「東海道 是より北よびつぎ」という「道標。
宿駅制度制定四百年記念碑
今に残る東海道は、徳川家康による宿駅制度制定以来、わが国の代表的な幹線道路として産業・経済・文化の発展に大きく寄与してきた。江戸時代東海道の西側には、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には、松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。
・・・
「万葉の里 年魚市潟あゆちがた」。
この「年魚市潟」(あゆちがた)という名称が、「愛知」の地名の由来とされている。
「万葉集」には、高市連黒人(たけちのむらじくろひと) の歌がある。
桜田(さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しおひ)にけらし鶴鳴き渡る (巻3 271)
〈訳〉 桜田の方へ鶴が鳴いて飛んでいく。年魚市潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴いて飛んでいく。
古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。
その先「山崎橋」手前にある道標。
「北あつた 南よびつぎ」。
広い道路になり、「名四国道事務所」を左手に見ながら進む。
この先で「松田橋」交差点・「歩道橋」を渡り、「国道1号線」をしばらく進み、左の側道に入って、JR東海の踏切を渡る。
「東海道」の名が。
熱田橋を越えると、「熱田区」。
《41 宮》
名鉄常滑線のガードをくぐると、右手に「伝馬街園」。
公園の中央には木が植えられ、一里塚のような雰囲気だが、説明は見当たらない。
しかし、ここまで、一つ前の「笠寺一里塚」からほぼ4㎞の道のりがある。これが日本橋から89里目となる「伝馬町一里塚」とではないかと。これ以降、「海上七里」のため、「一里塚」は桑名宿と四日市宿の間にあるものまで、しばらくない。
しばらく進むと、左手に説明碑や記念碑、石柱のある一角に出会う。。
「裁断橋址」碑。 解説板。
旧裁断橋桁石。
奥には「都々逸発祥の地」碑。
都々逸作品例
・恋にこがれて 鳴くせみよりも 鳴かぬほたるが 身をこがす
・ついておいでよ この提灯に けして(消して)苦労(暗う)はさせぬから
・あとがつくほど つねっておくれ あとでのろけの 種にする
・あとがつくほど つねってみたが 色が黒くて わかりゃせぬ
・はげ頭 抱いて寝てみりゃ 可愛いものよ どこが尻やら アタマやら
「伝馬町」との表示がある通りを進むと、大きな通りに分断されるので近くの「伝馬町」交差点を渡り、正面を左折。
「里程標」。東海道と美濃路/佐屋街道の分岐点。
「国道247号線」を歩道橋で渡る。正面が進む道。
「宝勝院」。
熱田湊常夜灯は承応3年(1654)から明治24年(1891)まで当寺が管理をしてきた。
いよいよ到着! 宮の渡し公園。
ひときわ目立つ「時の鐘」。
そして、「熱田湊常夜燈」。
かつてのようすとは異なって、はるかかなたに名古屋湾。
「隷書版東海道五十三次・歌川広重」
HPより
「七里の渡し舟着場跡」解説板には、この浮世絵が掲載されている。
丹羽家住宅。
丹羽家は幕末の頃、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各藩の名のある提灯箱などが遺されている。正面の破風付玄関は、かっての格式の高さを残している。創建は不明であるが、天保12年(1841)森高雅画の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。昭和59年、市の有形文化財に指定された。
6月16日(火)、17日(水)の2日間。矢作橋たもとの「出合之像」からスタート。「太閤伝説・豊臣秀吉(日吉丸)と蜂須賀小六」にちなんだもの。
実際には、矢作橋が架けられた1601年には豊臣秀吉は既に亡くなっているため、この話は作り話。が、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に「出合之像」という像が建てられた。
橋の付け替え工事・整備によりこの付近も変わってきた。土手を下り、左手の道に入ると、「旧東海道」。かつての家並みがところどころに残っている。
まもなく国道1号線と合流、「(日本橋から)330㎞」ポスト。
「安城市」に入ってまもなく、国道から離れてY字路を右に進むと、松並木になる。
松並木を過ぎると、右手の「熊野神社」には、「予科練の碑」「第一岡崎海軍航空隊由来」などの記念碑が並んでいる。かつての広大な跡地は、戦後の食糧危機に再開拓され、その後の経済成長に伴い大きく変貌している。
現在のようす。
「予科練」は、「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称。14歳半から17歳までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習課程を経て戦地へ。
対外戦争への積極的な法制化が仕組まれている今日こそ、こうした「戦跡」をどのように平和教育に生かしていくかが問われてもいる。
日本橋から83里目「尾一里塚」。
そこから10分ほどで、右手に「永安寺の雲竜の松」。
そこからしばらく進むと、「県道76号線」との交差点には、「明治用水」にちなんだ大きな石碑。
「明治用水」
愛知県豊田市にて矢作川から取水し、安城市、豊田市、岡崎市、西尾市、碧南市、高浜市、刈谷市、知立市に水を供給している。本流、西井筋、中井筋、東井筋の幹線と支線から成り、幹線は88km、支線は342kmある。灌漑面積は約7000ヘクタール。1880(明治13)年に完成した。
現在は、暗渠化の工事が進み、自転車専用道路などに。
交差点にある「明治川神社」には都築、伊豫田、岡本ら明治用水建設の功労者が祀られている。
交差点を越えると、松並木が断続的に続く。
「猿渡川」を越えて、知立市へ。
橋を渡ると、左は「来迎寺公園」。すぐ先の交差点には、「元禄の道標」。
従是四丁半北 八橋 業平作観音有 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白。
元禄9年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。
分岐点を望む。左右に通じる通りが東海道。
片道10分くらいの道のり。ぜひとも「かきつばた」の地に行こうと、ここで右折して「八橋・無量寿寺」へ向かう。ほとんど人通りのない、新しい住宅が建ち並ぶ道を北へ。すでに時季外れではあるが。
案の定、誰もいない境内。庭園の方に回ったところ、このような有様。ガッカリ!
八橋のかきつばたは、平安の歌人“在原業平”が、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と、句の頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだように伊勢物語の昔から知られるかきつばたの名勝地。
庭園の面積約13,000平方メートル、16の池(5,000平方メートル)に約3万本の「かきつばた」が植えられている。特に花が咲きそろう5月の10日前後が1番の見頃、という。
庭園の奥にモニュメント。
「業平像」。
想像していたよりも手狭な「無量寿寺」境内。また「かきつばた」はほとんど刈り取られていたが、芭蕉句碑などもあって、静かな散策を楽しめるところだった。
「芭蕉連句碑」。
かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉
麦穂なみよる 潤ひの里 知足
こうして一通り見学したあと、再び「東海道」へ。途中、「明治用水」遊歩道に四阿風の休憩施設が見えたので、そこに立ち寄って、昼食休憩。なんと目の前に「芭蕉句碑」があった。
杜若 語るも 旅のひとつかな
今回の旅の心境にピッタリ。再び「東海道」を西へ。まもなく「来迎寺一里塚」。両塚とも完全に遺されているのは、大へん珍しい。
南側。 北側。日本橋から84里目。
しばらく道なりに進む。
「元禄12年の道標」。
まもなく、「知立」(池鯉鮒)の「松並木」に到着。
歩道橋から望む。
知立の松並木は、近年まで牛田町から山町まで約1キロ続いていたが、住宅が次々と建てられて今では450メートル程になってしまった。戦前までは、昼なお暗いほど老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年の伊勢湾台風により60~70%の松が折られたり、根ごと吹き倒されてしまった。昭和45年、幼松158本を補植し、以後毎年松食虫の防除に努め、昔の姿を今にとどめている。
また、この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝2年(701)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾(引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに)長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。
途中には馬の像。
池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく・旧仮名遣いでは「ちりふ」)は、東海道五十三次の39番目の宿場。日本橋から約330kmで、当時でおよそ10日間かかったといわれている(当方は、その倍ほどかかっている)。
馬市が立ったことで知られており、 毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていた。 また三河地方の特産品であった木綿市も開かれていた。街道沿いの松並木は、馬をつなぐためにも使われていた。
東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市 / 歌川 広重
池鯉鮒は珍しい地名である。鯉と鮒が沢山いた池があったという。毎年4月25日から5月5日に馬市が開かれる。400から500頭の馬が集まり、馬喰や馬主が来た。大きな松は談合松と呼ばれていた。この時期には遊女や役者まで集まってきて賑わったそうである。初夏の爽やかな風景である。
(「知足美術館」HPより)
※「首夏」=初夏の頃。旧暦で4月の異名。
「万葉歌碑」。 「馬市之址」碑。
【万葉の歌】
引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほほせ たびのしるしに
左の通りは「国道一号線」。
《39 池鯉鮒》(2015.07.05~掲載)
「国道1号線」で地下道を上がると、「池鯉鮒宿」。
しばらくして名鉄三河線の線路を越える。
街道沿いの古い家並み。
中町の六叉路。正面の細い路に入る。
右手にある「食品館・美松」の駐車場に「池鯉鮒宿問屋場之跡」。
「国道419号線」を渡り、右手の案内図をもとに本陣跡へ。東海道から少し南に入ったところにある。
裏手の石碑は「明治天皇行在所聖蹟」記念碑。
東海道に戻ってしばらく進むと、左手に山車を収納する大きな蔵。
「本町山車蔵」。
「了運寺」のところを左に。角には「知立大明神」の「常夜燈」。
「国道155号線」の横断は、地下道を利用。しばらく進み、右折して行くと、左手に「知立公園」。「知立花しょうぶ祭」を開催中。
「かきつばた」を見ることができなかったので、ここでしばし休憩。休憩所で地元・知立名物の「大あんまき」を。
薄く細長いホットケーキ生地で餡を巻いたもの。
園内には芭蕉の句碑。
不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市 芭蕉翁
この句、「ふだんたつ ちりふのしゅくの もめんいち」と読ませていますが、『芭蕉俳句全集』には掲載されていない。
誰の作?
逢妻川の土手に突き当たったら左へ折れ、「逢妻橋」を渡る。
「国道1号線」に合流。「名古屋25㎞」の標示。
「刈谷市」に入って、「一里山歩道橋」歩道橋の下に「一里塚跡」。
日本橋から85里目。
「夢」と刻まれた石碑の先で「国道1号線」から右の道に入り、倉庫・工場が並ぶ道をしばらく進み、再び「国道1号線」に合流し、「歩道橋」を渡り、反対側へ。
これから進む道を望む。
洞隣寺には「めったいくやしいの墓」と「中津藩士の墓」があり、墓にまつわる伝承が残されている。
今度は右手に「いもかわうどん」の説明板。
江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。
きしめんのルーツとされるいもかわうどんは「芋川」の名物であるが、芋川は今岡村の一部だったとする説、芋川=今岡村とする説、芋川=今川村とする説など諸説ある。
古い家並み。
名鉄「富士松」駅先の県道を「歩道橋」で越えてしばらく進み、「今川町」交差点で「国道1号線」を横断、反対側に進み、「境橋」に向かう。
「境橋」。
この橋が国境で、いよいよ三河国から尾張国へ入る。そのまま進み、「伊勢湾岸自動車道」のガードをくぐり「国道1号線」に合流。
「案内」表示に従って、国道1号線から左の道に入り、県道57号線の高架をくぐると、国指定史跡の「阿野一里塚」がある。
道の両側にきちんと残っている。
愛知県内には18の一里塚があったが、現存するのは4ヶ所。そのうち、道の左右とも残っているのはこの塚と知立市のみである。この一里塚は、「日本橋」から86里目。
ここから緩やかな上り坂。
急に道が広くなり、周囲も畑などがあって開けた場所に。その先で「国道1号線」と合流。
「中京競馬場」入口には馬の像。
「旧東海道」は左に折れ、名鉄のガードをくぐると、 左手にある大きな病院が「桶狭間病院」。そこを左に折れると、「桶狭間古戦場伝説地」。
「史蹟・桶狭間古戦場」碑。
永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国・桶狭間で行われた合戦。
2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本の歴史上有名な戦い。
今川治部大輔義元の墓
「桶狭間病院」の前を通る道が旧東海道。
再び「国道1号線」に合流し、しばらく進み、「大将ヶ根」交差点で向かいの道に進むと、有松の町並みに。ここは、名古屋市緑区。
《40 鳴海》(2015.7.22~掲載)
いよいよ有松の町並みに。
広重も鳴海の宿はこの町並みを描いた。
東海道五十三次之内 鳴海 名物有松絞 / 歌川 広重 (「知足美術館」HPより)
大正期の鳴海(「同」より)。竹田家。 現在のようす。ほとんど変わっていない。
有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)
愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域を中心に生産される絞り染めの名称。江戸時代以降日本国内における絞り製品の大半を生産しており、国の伝統工芸品にも指定されている。「有松絞り」、「鳴海絞り」と個別に呼ばれる場合もある。
木綿布を藍で染めたものが代表的で、模様については他の生産地に類を見ない多数の技法を有する。
有松絞りで染め抜かれた文様。
乳児に話しかけるご主人「すてきな浴衣だね、お婆ちゃんが染めてくれたのかな」にこっり笑いながら答える母親「ええ、そうなんです」。ちらっと横目で見るとあざやかな藍色の浴衣。
【服部幸平家住宅】 【服部家住宅】
【小塚家住宅】 【岡家住宅】
他にもほれぼれするような立派なおうちが東海道の両側に建ち並んでいる。
これまでの道中では、一番宿場町らしい町並みに出会った。
名古屋市有松町並み保存地区。東から西まで約800㍍、徒歩で約10分の範囲。北は名鉄線、南は国道1号線に挟まれた区域。現代と江戸が微妙に交差しつつ、江戸時代の雰囲気をそのまま残している。
道路上のマンホールの文様はミズスマシ? 有松絞りでこのような文様があるのだろう。
まだまだ見所が多いところだが、そろそろ西のはずれにさしかかる。
町並みの奥に見えるのは、「名古屋第二環状自動車道」。
突然、現代に戻る。頭上には、「名古屋第二環状自動車道」の高架道路。その橋脚の下には、「有松一里塚跡」碑。
「スーパー」先の交差点のところに大きな「常夜燈」。
鳴海宿の東の入口平部町に建てられたものである。表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜燈」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。
文化3年(1806)に設置されたもので、大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時をしのぶことができる。
ここが鳴海宿の入口。
東海道をイメージした石碑。
相原町と本町との境目付近に「曲尺手」。
現在の鳴海宿には、当時のものは寺院以外は残っていないようだが、2009(平成21)年、高札場が復元された。本町交差点を右折したところにある。
通りを挟んで高札場の反対側には、最古の芭蕉供養塔がある「誓願寺」がある。
東海道に戻った左側に「本陣跡」碑。
「作町」交差点を右折し、しばらく進むと、右手に「丹下町常夜燈」。ここまでが「鳴海宿」。
「山王山」交差点を横断して、「天白橋」を渡ると、「緑区」から「南区」へ。
その先に「大きく細長い古地図(絵図)」。
昔のままの道筋。
前方にこんもりと茂った大木。「笠寺一里塚」。
日本橋から88里目。名古屋市内を通る旧東海道唯一の一里塚で、現在、東側だけが現存している。
「笠寺一里塚」の先には、「笠覆寺(りゅうふくじ)・笠寺観音」。
「名鉄本笠寺」駅横の先の交差点を右に曲がる。分岐点には「東海道 是より北よびつぎ」という「道標。
宿駅制度制定四百年記念碑
今に残る東海道は、徳川家康による宿駅制度制定以来、わが国の代表的な幹線道路として産業・経済・文化の発展に大きく寄与してきた。江戸時代東海道の西側には、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には、松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。
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「万葉の里 年魚市潟あゆちがた」。
この「年魚市潟」(あゆちがた)という名称が、「愛知」の地名の由来とされている。
「万葉集」には、高市連黒人(たけちのむらじくろひと) の歌がある。
桜田(さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しおひ)にけらし鶴鳴き渡る (巻3 271)
〈訳〉 桜田の方へ鶴が鳴いて飛んでいく。年魚市潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴いて飛んでいく。
古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。
その先「山崎橋」手前にある道標。
「北あつた 南よびつぎ」。
広い道路になり、「名四国道事務所」を左手に見ながら進む。
この先で「松田橋」交差点・「歩道橋」を渡り、「国道1号線」をしばらく進み、左の側道に入って、JR東海の踏切を渡る。
「東海道」の名が。
熱田橋を越えると、「熱田区」。
《41 宮》
名鉄常滑線のガードをくぐると、右手に「伝馬街園」。
公園の中央には木が植えられ、一里塚のような雰囲気だが、説明は見当たらない。
しかし、ここまで、一つ前の「笠寺一里塚」からほぼ4㎞の道のりがある。これが日本橋から89里目となる「伝馬町一里塚」とではないかと。これ以降、「海上七里」のため、「一里塚」は桑名宿と四日市宿の間にあるものまで、しばらくない。
しばらく進むと、左手に説明碑や記念碑、石柱のある一角に出会う。。
「裁断橋址」碑。 解説板。
旧裁断橋桁石。
奥には「都々逸発祥の地」碑。
都々逸作品例
・恋にこがれて 鳴くせみよりも 鳴かぬほたるが 身をこがす
・ついておいでよ この提灯に けして(消して)苦労(暗う)はさせぬから
・あとがつくほど つねっておくれ あとでのろけの 種にする
・あとがつくほど つねってみたが 色が黒くて わかりゃせぬ
・はげ頭 抱いて寝てみりゃ 可愛いものよ どこが尻やら アタマやら
「伝馬町」との表示がある通りを進むと、大きな通りに分断されるので近くの「伝馬町」交差点を渡り、正面を左折。
「里程標」。東海道と美濃路/佐屋街道の分岐点。
「国道247号線」を歩道橋で渡る。正面が進む道。
「宝勝院」。
熱田湊常夜灯は承応3年(1654)から明治24年(1891)まで当寺が管理をしてきた。
いよいよ到着! 宮の渡し公園。
ひときわ目立つ「時の鐘」。
そして、「熱田湊常夜燈」。
かつてのようすとは異なって、はるかかなたに名古屋湾。
「隷書版東海道五十三次・歌川広重」
HPより
「七里の渡し舟着場跡」解説板には、この浮世絵が掲載されている。
丹羽家住宅。
丹羽家は幕末の頃、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各藩の名のある提灯箱などが遺されている。正面の破風付玄関は、かっての格式の高さを残している。創建は不明であるが、天保12年(1841)森高雅画の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。昭和59年、市の有形文化財に指定された。