おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

志村一里塚からさいたま副都心駅まで。その3。(旧中山道をゆく。第2日目。)

2015-12-26 21:41:23 | 旧中山道

「蕨宿」には見所がまだまだあります。「鈴木薬局」。
                                  昭和初期の建物。看板は右から左に。「局藥木鈴」。

「地蔵の小径」碑の脇に老舗の「萬寿屋」お煎餅屋さん。

土蔵のある旧家。

足元も「草津宿」になって、「蕨宿」もそろそろ終わりに。

左手の「ふれあい広場」にはからくり時計と火消しの姿。

    

 白壁には詳しい解説板と絵が。ここで小休止。(12:20)。

    
中山道 蕨宿
1、中山道と蕨宿
 江戸時代、埼玉県内には五街道のうち、中山道と日光道中が通り、日光御成道や多くの脇街道が通っていました。
 中山道は、江戸日本橋から近江国(滋賀県)守山宿までの67宿の街道で近江国草津宿で東海道と合流し、京都三条大橋に向かい、江戸と京都・大阪を結ぶ幹線道路として創設されました。
 蕨宿は、この中山道にあり、江戸日本橋から数えると2つ目の宿場で、67宿のうちでも5指に入る大宿場として栄え、埼玉県では最初の宿場でした。

2、蕨宿の成り立ちと形態
 蕨宿の成立の時期には諸説がありますが、慶長17年(1612)成立という説が有力と考えられています。
 天保14年(1843)の蕨宿は家数430軒、人口は2223人でした。大名・公家など身分の高い人々の宿泊施設である本陣が2軒、脇本陣が1軒、一般の旅人の宿泊のための旅籠が23軒ありました。また、旅人と荷物を輸送する事務を行う問屋場と高札を掲げる高札場が一ヶ所ずつありました。
 蕨宿は宿役人がおかれ、交代で問屋場に勤務して、乗り継ぎをする馬や人夫の用意、物資の運輸、周辺の村々からの人馬の動員などを行っていました。

3、蕨宿のまちなみと人々の暮らし
 蕨宿は中心部のまちなみが南北10町(約1090m)で、宿の周囲を用水路で囲み、外部の攻撃から守れるようにしてあるのが特徴でした。この堀は防火用水の役割をも果たしていました。
・・・
  
 蕨宿の特徴として、堀に面した家には「はね橋」があり、早朝下ろされ、夕刻になると跳ね上げられ、宿場の出入り口である上下の木戸も閉さされ、堀は宿内の防備も兼ねていました。

 その「はね橋」が一つ残っていると案内図にありましたので、そこに行ってみました。が、暗渠になった用水路はあっても、それらしきものは見当たりません。ただ、立派な門前にしっかりした板が門をふさぐように立っています。門からの出入りをさせないためかな、それにしてもおかしい、おもしろい、と。写真は撮っておきましたが・・・。
 結局、いっこうにそれらしきものは見つかりません。しかたなく暗渠になった用水路を撮ってきました。

この暗渠に面してありました、「はね橋」が。

 さて、資料整理のために蕨宿のHPを見ていると、何とはね橋の絵があります。それが頑丈に立て掛けあった仕掛け(?)でした。

より)

これです。新品そのもので、「はね橋」とは思いも寄りませんでした。
 まして、門前の用水路はすでに暗渠になっていて、使う必要はなさそうです。でも、設置してあるということは、「蕨宿」に寄せる、徳丸家の心意気なのでしょう。

これで心置きなく「蕨宿」を後にしました。

 「錦3丁目」交差点で「国道17号線」を渡り、浦和宿へと進みます。左手に古い大きなおうち。


 街道筋らしい曲がりくねった道を進むと、右手に「一六橋」との解説板がありました。


 「解説板」(「一六会」)によると、この橋は「見沼用水」分流に架かる橋で、この付近で「一」と「六」の日に市が開かれたことによると伝えられているそうです。

その付近から行く先を望む。

その先、左手には「中山道蕨宿 一番地」の立て札と「境橋のいわれ」との解説板があります。
    

 この橋は、同じく「一六会」の解説板によると、「蕨宿」と「辻村」(現在は、「さいたま市」)との境を流れる「見沼用水」の分流に架かっているところから名付けられた橋だそうです。

 しばらく進むと、「外環」をくぐる手前、団地の公園内に「旧中山道 一里塚の跡」(辻一里塚)碑があります。日本橋から5里目。気がついたら12:45。食べ物屋さんに入り損ねたので、公園のベンチで朝買ったおにぎりとパンを。

    

 脇には弁財天。

「由来碑」によると、この付近が湿地が多く、村人は難儀をした この水難を守るために弁財天を安置し、地区を守り、中山道を旅する人々の安泰を願う由来伝記があったので、再建した、とあります。

 次第に賑やかな道筋になってくると、T字路になり、右折。T字路のところに「中山道」の標識。


 「六辻」の交差点で「国道17号線」を横断。しばらく行ったら変則三叉路の左斜め奥の道を進みます。「田辺医院」の看板が目印。


次第に上り坂になっていきます。 

                             「焼米坂」。
    

 蕨宿から浦和宿へ向かうちょうど道なかば辺りに「焼米坂(やきごめ-ざか)」と呼ばれる場所がある。江戸の昔にはここに「新名物やき米」との看板を掲げて焼き米を食べさせる立場茶屋数軒があって、いつしか地名が定着していったようである。  当時の焼き米というのは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたものである。これは保存食として古くからあった調理法で、そのまま、もしくは、煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食す。旅人の携帯食としても重宝がられたであろうことは想像に難くない。 また、江戸方から上方へ急勾配で大宮台地を上ること約160mというこの坂道は、当時の旅人にとって難所であったと伝えられている。
 浮世絵師・渓斎英泉が浦和宿を描くにあたって着目したのは、この焼き米売りの茶屋であり、焼米坂手前を視点として浦和宿と浅間山を望む構図であった。

      
          『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』 天保6年(1835年)、渓斎英泉。

 絵師が選んだのは蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋である。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいるが、進む先には焼き米売りの茶屋が待っている。旅の道すがら腹の足しになる携帯保存食は買っておいて損は無い。さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか。

(この項、「Wikipedia」による)

    
                     振り返って望む。けっこうな上り坂。

              旧街道筋らしい大きなおうちがちらほら。
    

               

コメント
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