おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

日本橋から志村一里塚まで。その2。(旧中山道をゆく。第1日目。)

2015-12-21 21:22:24 | 旧中山道
 「甘酒茶屋」の脇の路地が「旧中山道」。表示があります。1880年代の地図を見ると、「湯島聖堂」の敷地をコの字型に迂回しています。

この道筋。突き当たりを左折し、「17号」に合流。

「17号」に出て右手にある「済生学舎と野口英世」。

 済生学舎は、医学者長谷川泰(1842~1919)が「済生」(広く民衆の病苦を済う)の理念のもと、医術開業試験の予備教育を目的として、明治9年(1876)4月9日に現本郷2丁目5の地に創設された。明治12年学舎は火災により焼失したが、仮校舎の時期を経た後、明治15年長谷川泰の自宅を含めたここ東京ガーデンパレスの地に済生学舎は再建された。
 『志を得ざれば、再び此の地をふまず』と野口英世が医学の志をたて故郷会津を後にしたのは明治29年(1896)9月、英世19歳の時であった。上京して現湯島1丁目10あたりに下宿し、早くも10月に内務省医術開業試験前期に合格した。
 その後、港区伊皿子にあった高山歯科医学院の学僕となった。明治29年11月医術開業試験後期準備のために済生学舎に入学。下宿先を旧本郷区にあった大成館に移した。明治30年秋の後期試験に打診法の実技が含まれていたため、英世は東京帝国大学の外科教授近藤次繁博士により左手の手術を受けている。晴れて医術開業試験後期に合格した英世は、11月湯島の順天堂医院に入り、同医院医事研究会主事を嘱託された。その後、北里柴三郎博士の伝染病研究所や横浜検疫所勤務を経てアメリカへと旅立った。
 文京は、野口英世が世界に雄飛する原点の地である。

 文京区教育委員会   平成17年3月

 ここで、「野口英世」関連の解説板にあうとは思いませんでした。「済生学舎」は後の日本医大などに引き継がれていったようです。通りの向かいは、「東京医科歯科大」のキャンパス。

イチョウ並木を行く。

「春日通り」との交差点角には、「かねやす」。
                 「本郷も かねやすまでは 江戸の内」とうたわれた「かねやす」も健在です。

渡ったところから振り返る。右手のビルが「かねやす」。

右手に「東大 赤門」。

 現在の東大本郷キャンパスの敷地は、「加賀百万石」と言われた大大名・前田利家を祖にする「加賀藩」前田家の上屋敷で、赤門は前田家上屋敷の正門でした。約10万4千坪の広さ。
 1827年(文政10年)加賀藩13代藩主前田斉泰は、11代将軍徳川家斉の娘溶姫(やすひめ)を正室に迎えるに当たり、慣例にしたがい、朱塗りの門を創建しました。当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、その人、居所を御守殿と称し、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの門を御守殿門と呼びました。国の重要文化財に指定されています。
 また、板橋区にある「加賀公園」。この公園は「加賀藩前田家下屋敷」があった場所の一角にあります。そこには、「金沢」とか「加賀」という地名や校名が残っています。
 駒場にも下屋敷があり、それが東大の駒場キャンパスとなった、らしいです。



1880年代の地図(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 赤門付近のようす。○が現在の「三四郎池」。→が一葉ゆかりの「法真寺」。

左手に「樋口一葉ゆかりの桜木の宿」。

 樋口一葉 (1872~1896 ) の作品「ゆく雲」の中に、次の一文がある。
「上杉の隣家 (となり) は何宗かの御梵刹 ( おんてら )さまにて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方 (こなた) の二階より見おろすに、雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」
 文中の御梵刹がこの浄土宗法真寺 (ほうしんじ) で、この濡れ仏は、現在、本堂横に安置されている観音様である。こなたの二階とは、境内すぐ東隣にあった一葉の家である。
 樋口家は明治9年 (1876) 4月、この地に移り住み、明治14年までの5年間 (一葉4歳~9歳 ) 住んだ。一葉家にとっても最も豊かで安定していた時代であった。
 一葉は明治29年11月23日、旧丸山福山町(現西片1-17-8) で短いが輝かしい生涯を閉じた。
その直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ。「桜木の宿」は法真寺に向かって左手にあった。

 文京区教育委員会  平成13年3月

「(日本橋から)4㎞」ポスト。

東大キャンパス方向を望む。

 交差点を渡って、その先を左折します。交通標識あり。

    

角に「高崎屋」さん(1751年創業)。

その脇に「追分一里塚跡」解説板。

追分一里塚跡 (区指定史跡)
 一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
 ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中頃まで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。

 文京区教育委員会  平成7年3月

 ちょうど碑の建っている場所が、喫煙コーナーになっていて、サラリーマン二人が御用聞きの途中でしょうか、談笑しながら一服吸っていました。現代の一里塚という機能?

そこから中山道(「「国道17号」)を望む。

向かいには、「旧森川町」解説板。

旧森川町
 江戸時代は森川宿と称した。明治5年に藩主本多氏の敷地と千手組屋敷と併せ、森川宿から森川町と名付けた。
 千手組頭は森川金右衛門で、中山道の警備にあたった。森川宿は、馬建場で人馬の休む所であった。
 町内には、徳田秋声などの文人が多く住んだ。

 文京区


○が「追分」。

 ここから「白山」に向かって進みます。古い家並みも所々に。

    

来た道を振り返る。

「白山上」交差点を突っ切り、東洋大学方向へ。

    
                                    地下鉄「千石駅」付近で広い「白山通り」に合流。

中山道(国道17号線)を振り返る。

 格段に広くなった「国道17号線」を巣鴨駅前から通りを渡って、有名な「巣鴨地蔵通り商店街」へ。その前に「昼食休憩」。
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