午後からの旅。
JR巣鴨駅前の広い「17号線」を渡り、「巣鴨地蔵通り」へ。この道が旧中山道だったとは今の今まで知りませんでした。賑やかな商店街。けっこう思ったよりも長く続いて、どのお店も人だかり。さすがジジババの原宿通り。圧倒されそうな雰囲気です。
とあるレコード店の店先では演歌歌手が歌を披露、立ち止まり聞く人、たくさん。記念写真を撮ったり、握手をしたり、・・・。終わったとたん、ぱたぱたと片付け。その手際の良さに、またまた感心!
先を見ても後ろを振り返っても、人、人、人。撮影もままなりません。
右手が「とげ抜き地蔵」。
ジジババばかりでなく、若いカップルや子連れの夫婦など、若いサラリーマンなどけっこう多種多様。たしかにすこぶる「元気」な商店街、という趣。お茶屋さん、佃煮屋さん、衣料品などお店も古くからのものや今どきはやりのお店など、これまた多種多様。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/a6/fd911a5c3c6ac6a498165e0493b431c5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/02/d85005b8158ce588e6af77079c87ec7d.jpg)
左上から続く(
HPより)。
入口の「眞性寺」(江戸六地蔵の一つ)から「高岩寺」(とげ抜き地蔵)そして「庚申塚」(猿田彦)までの「商店街」でした。
「庚申塚」。
通りを渡ったところから振り返る。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/e9/75c42cd33069098dec3ee7170da7b491.jpg)
都電・荒川線を越えます。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/dc/ade9d90c59b5b69f0574bd502f286beb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/d6/f02873844a710e99cf07f3b065dc7f9c.jpg)
「庚申塚商店街」。 街道筋らしい家屋。
「大正大学」を横目で見て進み、「明治通り」との交差点を渡ったところにある「千川上水分配堰碑」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/1d/443a3b16d9a54b812ca81128e9ab4c27.jpg)
千川上水分配堰碑
正面に「千川上水分配堰」(せんかわじょうすいぶんぱいぜき)とあるこの碑は明治15年(1882)7月に設置されました。右側面には上水の水源地、樋口(ひぐち)の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治42年3月として、樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれています。これにより取水量 が定められていたことがわかります。
千川上水は、元禄9年(1696)に玉川上水から分水された上水で、左(南)側の道路が今は暗渠(あんきょ)となってしまった水路です。堰はこの付近にあり、そこから西巣鴨交差点の方向に分水路が通されていました。この分水路は、慶応元年(1865)11月、飛鳥山 の西側(滝野川2-6付近)にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開鑿(かいさく)されたものです。
明治時代になると分水路は、石神井川とともに現在の北区・荒川区・台東区内の二十三ヶ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙(しょうし) 会社・大蔵省紙幣寮抄紙局(おおくらしょうしへいりょうしょうしきょく)の工業用水として利用されました。また、千川上水本流も東京市内への給水が再開され、多方面に利用されることになりました。そのため千川上水の利用者は水利権を明確化し、互いに取水量を遵守(じゅんしゅ)するために、碑をここに設置しました。
平成6年3月 東京都北区教育委員会
「千川上水」は、玉川上水の流路上、東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近にある境橋(旧武蔵国多摩郡上保谷村地先)に分水口があり、ここから豊島区西巣鴨まで、武蔵野台地上をほぼ東西に流れていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/bc/2301aa4bf61c171d429e993945fa9658.jpg)
武蔵境・境橋。ここから始まります。(「千川上水」については2011/7/09に掲載。)
交差点名「堀割」(↓)。
ここから文京区から北区となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/c1/b5e734f3f0948a0ad44d7015fb44d899.jpg)
右手には、この前、TV番組で石原良純さんが紹介していた「亀の子束子(たわし) 西尾商店」。
ごあいさつ
我々は束子の元祖です
弊社は明治40年に、初代社長西尾正左衛門のアイデアから生まれた「たわし」の販売を始め、以来この亀の子束子を中心に多くの洗浄用品、日用雑貨をを全国の家庭にお届けし「より快適な生活を提供する」ことを目的に品質の安定向上、新製品の開発に努めてきました。
The originator of tawashi
From 1907, the first president, Nishio Shozaemon, create and bring out the "tawashi" to the market. From then, we have offered many cleaning products to the Japanese household. Having the wish of offering the more comfortable lifestyle, we are keep going on with making better products with the best qualities.
亀の子束子が日本のたわし
亀の子束子は愚直に品質を守り続けてきました。そしてこれからも守り続けます。それは、この品質こそが100年以上の長きに渡り我々の製品をご愛顧頂き続けている理由だと信じているからです。亀の子束子が「たわし」の基準(スタンダード)であるべく、これからも長くご愛顧頂ける製品作りを続けてまいります。
Kamenoko tawashi = Tawashi of Japan
Kamenoko-tawashi has been kept the quality to the best, and we will continue to do so. We believe that this is the reason why the customers keep choosing our products more than 100 years. We will do our best and to keep Kamenoko tawashi as a "standard" of tawashi.
株式会社亀の子束子西尾商店
代表取締役 西尾 智浩
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/f3/b02be201e944fc5aa9d63644875a6e68.jpg)
(「西尾商店」HPより)
「旧中山道 ふれあいの街 滝野川銀座商店街」。
JR埼京線の踏切を越えると「板橋宿」へ。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/6e/604b1aa693464f6fba79973b12002772.jpg)
北区から板橋区。
この手前に「平尾一里塚」(日本橋から2里目)があったはずですが、未確認。
JR巣鴨駅前の広い「17号線」を渡り、「巣鴨地蔵通り」へ。この道が旧中山道だったとは今の今まで知りませんでした。賑やかな商店街。けっこう思ったよりも長く続いて、どのお店も人だかり。さすがジジババの原宿通り。圧倒されそうな雰囲気です。
とあるレコード店の店先では演歌歌手が歌を披露、立ち止まり聞く人、たくさん。記念写真を撮ったり、握手をしたり、・・・。終わったとたん、ぱたぱたと片付け。その手際の良さに、またまた感心!
先を見ても後ろを振り返っても、人、人、人。撮影もままなりません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/94/d932cbe2dade261284f0ec98d9adb3e2.jpg)
ジジババばかりでなく、若いカップルや子連れの夫婦など、若いサラリーマンなどけっこう多種多様。たしかにすこぶる「元気」な商店街、という趣。お茶屋さん、佃煮屋さん、衣料品などお店も古くからのものや今どきはやりのお店など、これまた多種多様。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/a6/fd911a5c3c6ac6a498165e0493b431c5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/02/d85005b8158ce588e6af77079c87ec7d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/b3/9ab19538c2138c60b37d80516fc3d2ab.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/d3/b63ab4540c758d3002e423942399914a.png)
入口の「眞性寺」(江戸六地蔵の一つ)から「高岩寺」(とげ抜き地蔵)そして「庚申塚」(猿田彦)までの「商店街」でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/96/f55fa8c565cf1430aca9d511d9ad9374.jpg)
通りを渡ったところから振り返る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/e9/75c42cd33069098dec3ee7170da7b491.jpg)
都電・荒川線を越えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/dc/ade9d90c59b5b69f0574bd502f286beb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/2e/0ca6a3ecbf998ac330598285f1ef1b70.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/d6/f02873844a710e99cf07f3b065dc7f9c.jpg)
「庚申塚商店街」。 街道筋らしい家屋。
「大正大学」を横目で見て進み、「明治通り」との交差点を渡ったところにある「千川上水分配堰碑」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/90/68d85ecd3cd8f86b126ee0e1c9dd7235.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/1d/443a3b16d9a54b812ca81128e9ab4c27.jpg)
千川上水分配堰碑
正面に「千川上水分配堰」(せんかわじょうすいぶんぱいぜき)とあるこの碑は明治15年(1882)7月に設置されました。右側面には上水の水源地、樋口(ひぐち)の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治42年3月として、樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれています。これにより取水量 が定められていたことがわかります。
千川上水は、元禄9年(1696)に玉川上水から分水された上水で、左(南)側の道路が今は暗渠(あんきょ)となってしまった水路です。堰はこの付近にあり、そこから西巣鴨交差点の方向に分水路が通されていました。この分水路は、慶応元年(1865)11月、飛鳥山 の西側(滝野川2-6付近)にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開鑿(かいさく)されたものです。
明治時代になると分水路は、石神井川とともに現在の北区・荒川区・台東区内の二十三ヶ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙(しょうし) 会社・大蔵省紙幣寮抄紙局(おおくらしょうしへいりょうしょうしきょく)の工業用水として利用されました。また、千川上水本流も東京市内への給水が再開され、多方面に利用されることになりました。そのため千川上水の利用者は水利権を明確化し、互いに取水量を遵守(じゅんしゅ)するために、碑をここに設置しました。
平成6年3月 東京都北区教育委員会
「千川上水」は、玉川上水の流路上、東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近にある境橋(旧武蔵国多摩郡上保谷村地先)に分水口があり、ここから豊島区西巣鴨まで、武蔵野台地上をほぼ東西に流れていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/77/b58654c7fbdbe1ae3600f21dd1ff4476.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/bc/2301aa4bf61c171d429e993945fa9658.jpg)
武蔵境・境橋。ここから始まります。(「千川上水」については2011/7/09に掲載。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/a8/65b83209e84c55e7954965c4c5d32609.jpg)
ここから文京区から北区となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/14/c3705ba8aa2217e69d0393e717bce562.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/c1/b5e734f3f0948a0ad44d7015fb44d899.jpg)
右手には、この前、TV番組で石原良純さんが紹介していた「亀の子束子(たわし) 西尾商店」。
ごあいさつ
我々は束子の元祖です
弊社は明治40年に、初代社長西尾正左衛門のアイデアから生まれた「たわし」の販売を始め、以来この亀の子束子を中心に多くの洗浄用品、日用雑貨をを全国の家庭にお届けし「より快適な生活を提供する」ことを目的に品質の安定向上、新製品の開発に努めてきました。
The originator of tawashi
From 1907, the first president, Nishio Shozaemon, create and bring out the "tawashi" to the market. From then, we have offered many cleaning products to the Japanese household. Having the wish of offering the more comfortable lifestyle, we are keep going on with making better products with the best qualities.
亀の子束子が日本のたわし
亀の子束子は愚直に品質を守り続けてきました。そしてこれからも守り続けます。それは、この品質こそが100年以上の長きに渡り我々の製品をご愛顧頂き続けている理由だと信じているからです。亀の子束子が「たわし」の基準(スタンダード)であるべく、これからも長くご愛顧頂ける製品作りを続けてまいります。
Kamenoko tawashi = Tawashi of Japan
Kamenoko-tawashi has been kept the quality to the best, and we will continue to do so. We believe that this is the reason why the customers keep choosing our products more than 100 years. We will do our best and to keep Kamenoko tawashi as a "standard" of tawashi.
株式会社亀の子束子西尾商店
代表取締役 西尾 智浩
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/f3/b02be201e944fc5aa9d63644875a6e68.jpg)
(「西尾商店」HPより)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/03/cbfdb20869eb0df3665d5642f14b42c1.jpg)
JR埼京線の踏切を越えると「板橋宿」へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/6e/604b1aa693464f6fba79973b12002772.jpg)
北区から板橋区。
この手前に「平尾一里塚」(日本橋から2里目)があったはずですが、未確認。