JR板橋駅を左に商店街を進みます。振り返って望む。右に板橋駅。
板場宿は、江戸四宿(品川、内藤新宿、板橋、千住)の一つ。平岡宿、仲宿、本宿の3つから成り立っていました。江戸から中山道をゆく旅人はわざわざ日本橋からではなく、板橋宿から旅立ちました。そのため、大いに賑わっていたそうです。
ここは板橋平尾宿
中山道69宿の第1番宿 江戸日本橋より約2里9丁(約9キロ)駕籠や・馬借・荷駄・飛脚(問屋場)があった。
「旧中山道」という表示。
しばらく進むと「国道17号線」とぶつかる先に「板橋・平尾宿」。
賑やかな商店街に入ります。道幅は昔のままのよう。
来た道を振り返る。
しばらく進み、案内板に従って右の路地に入ります。「板橋宿平尾町脇本陣跡」碑。
板橋宿平尾脇本陣豊田家
豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。天正18年(1590)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていました。
文政4年(1821)、当時平尾に住んでいた俳諧師匠の加藤曳尾庵(えいびあん)は、日記風随筆『我衣』を記しました。その中に、中山道を経由して江戸での興行に向かっていたペルシャ産のラクダが、当家の奥庭に引き入れられている記事があります。曳尾庵はラクダのスケッチとともに、江戸周辺の多くの人々が、その姿を一目見ようと当家に押しかけた様子を記録しています。
幕末から明治にかけての当主である喜平次は、煎茶道に傾倒し、「鉄蕉」の号を持つ茶人でした。そのコレクションを中心とした「脇本陣豊田家資料一括」は平成8年度に区登録有形文化財となっており、文化サロンとなっていた宿場の姿を伝えています。
1868慶応4年(1868)4月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。
平成19年3月 板橋区教育委員会
右手にある「観明寺」付近を境にして、「平尾宿」から「仲宿」へと移ります。その先の左手には小公園。そこには中山道69宿の表示と解説板があります。
69のうち、やっと1番目。
けっこう南北に長い宿場です。「仲宿」。
ここで、「Wikipedia」を参照しつつ「板橋宿」の概要を。
板橋宿
中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて1番目の宿場。 同時に、川越街道(川越・児玉往還)の起点でもある。現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。
板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)、仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも。現在の板橋)があった。 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川で、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。
天保12- 15年(1841- 1844年)の『中山道宿村大概帳』によると、宿往還の長さは20町9間(約2.2km)、うち町並地は長さ15町49間(約1.7km)であり、南北に広がる。宿内人口は2,448人(うち、男1,053人、女1,395人)、宿内家数は573軒であった。 うち、本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつ計3軒が設けられ、旅籠(はたご)は総計54軒であった。 板橋宿の中心的存在であった仲宿には、問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、番屋(自身番の詰め所)があった。 また、上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿が建ち並んでいた。
江戸時代には日本橋が各主要街道の形式上の起点ではあったが、実際の旅の起点・終点としては、江戸四宿と呼ばれる品川宿、千住宿、内藤新宿、そして、板橋宿が機能していた。 これらの宿場には茶屋や酒楼はもちろん飯盛旅籠(いいもり-はたご)も多くあり、旅人のみならず見送り人や飯盛女(宿場女郎)目当ての客なども取り込んでたいそうな賑わいを見せた。
板橋宿は、その繁栄ぶりは中山道中有数であった。
なお、日本橋から2里(約7.9km)の平尾宿には道中2つ目の一里塚(平尾一里塚)があったが、今は何も残されていない。
『木曾街道 板橋之驛』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆。
画面の左端、道の中央に「是從板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭が建っている。中央より若干左手に見える姿のよい旅人は武家の夫婦で、1人の使用人が後に続く。その使用人は、乗っていくよう武家夫婦に声掛けすべく出茶屋から飛び出してきた駕籠かきを、巧みに遮っている。使用人の体の向きから察するに、おそらく3人は茶屋で一服していたのであろう。休憩後の出ばなの誘いを駕籠かきは振り切られてしまったように見える。しかし、武士の妻は声に応えてか頭の向きを変えている。駕籠かきが客をのがしたかどうかはまだ分からない。茶屋の中には客の町人2人がいて、榎(えのき)の陰に隠れて見えないが、飲み食いしているはずである。また、店先では馬子が馬のための草鞋を取り替えている。
商店街の一角に。
板橋宿本陣 飯田新左衛門家
本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より二里半 (約10キロ) の近距離にある板橋宿では、宿泊に用いられる事は少なく、主に休息所として利用されました。その際には、藩主と江戸の家臣との謁見、送迎の場としても機能していました。
板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門ら数家で務めていたようです。宝永元年 (1704) 、当家は飯田本家より別家していますが、その際、世襲名「新左衛門」と本陣、問屋役を引き継いでいます。また併せて、屋敷地359坪、田畑1.5町余(約1万6000平方㎡)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。なお、当家三代目新左衛門珎儀の遺言状から、別家後の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の「御本陣家」に指定されていたことが窺えます。
本陣は「中山道宿村大概帳」によると、建坪97坪、門構え玄関付きの建物でした。また、本陣指図からは、間口・桁口ともに12間半(22.5m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間のほか、御膳所や18畳の玄関などを備えていたことがわかります。他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供する事が少ない板橋宿の性格を示しています。
本陣の建物は明治23年 (1890) に火災に遇い焼失しましたが、昭和39年 (1964) 、明治期に建てられた母屋の解体時、床板として転用されていた関札が見つかっています。この関札や本陣図などの古文書は、区有形文化財に登録され、板橋宿本陣の姿を今に伝えています。
平成23年3月 板橋区教育委員会
しばらく進むと、「板橋」。
解説板と標柱。
板橋
この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市政町村制が施行されると町名になりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2㎞)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の二度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。
平成12年3月 板橋区教育委員会
現在は、二つの橋が連続して存在するように見えますが、これは南側に大きく回り込んでいた川を昭和47年(1972年)の河川改修で直線化して出来た橋のためです。北に約10m移動した石神井川の橋と、埋め立られて公園になった元の石神井川にかかる橋となっています。コンクリート製ですが、欄干に木目模様を施して木橋の雰囲気を出しています。
橋の傍らには「距日本橋二里二五町三三間」「日本橋から十粁六百四十三米」と記された標柱があります。
旧河川(公園になっている)。 現在の石神井川。
振り返って望む。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」)。「板橋」と石神井川。「水車」が二ヶ所。急流のようです。
板場宿は、江戸四宿(品川、内藤新宿、板橋、千住)の一つ。平岡宿、仲宿、本宿の3つから成り立っていました。江戸から中山道をゆく旅人はわざわざ日本橋からではなく、板橋宿から旅立ちました。そのため、大いに賑わっていたそうです。
ここは板橋平尾宿
中山道69宿の第1番宿 江戸日本橋より約2里9丁(約9キロ)駕籠や・馬借・荷駄・飛脚(問屋場)があった。
「旧中山道」という表示。
しばらく進むと「国道17号線」とぶつかる先に「板橋・平尾宿」。
賑やかな商店街に入ります。道幅は昔のままのよう。
来た道を振り返る。
しばらく進み、案内板に従って右の路地に入ります。「板橋宿平尾町脇本陣跡」碑。
板橋宿平尾脇本陣豊田家
豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。天正18年(1590)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていました。
文政4年(1821)、当時平尾に住んでいた俳諧師匠の加藤曳尾庵(えいびあん)は、日記風随筆『我衣』を記しました。その中に、中山道を経由して江戸での興行に向かっていたペルシャ産のラクダが、当家の奥庭に引き入れられている記事があります。曳尾庵はラクダのスケッチとともに、江戸周辺の多くの人々が、その姿を一目見ようと当家に押しかけた様子を記録しています。
幕末から明治にかけての当主である喜平次は、煎茶道に傾倒し、「鉄蕉」の号を持つ茶人でした。そのコレクションを中心とした「脇本陣豊田家資料一括」は平成8年度に区登録有形文化財となっており、文化サロンとなっていた宿場の姿を伝えています。
1868慶応4年(1868)4月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。
平成19年3月 板橋区教育委員会
右手にある「観明寺」付近を境にして、「平尾宿」から「仲宿」へと移ります。その先の左手には小公園。そこには中山道69宿の表示と解説板があります。
69のうち、やっと1番目。
けっこう南北に長い宿場です。「仲宿」。
ここで、「Wikipedia」を参照しつつ「板橋宿」の概要を。
板橋宿
中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて1番目の宿場。 同時に、川越街道(川越・児玉往還)の起点でもある。現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。
板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)、仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも。現在の板橋)があった。 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川で、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。
天保12- 15年(1841- 1844年)の『中山道宿村大概帳』によると、宿往還の長さは20町9間(約2.2km)、うち町並地は長さ15町49間(約1.7km)であり、南北に広がる。宿内人口は2,448人(うち、男1,053人、女1,395人)、宿内家数は573軒であった。 うち、本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつ計3軒が設けられ、旅籠(はたご)は総計54軒であった。 板橋宿の中心的存在であった仲宿には、問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、番屋(自身番の詰め所)があった。 また、上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿が建ち並んでいた。
江戸時代には日本橋が各主要街道の形式上の起点ではあったが、実際の旅の起点・終点としては、江戸四宿と呼ばれる品川宿、千住宿、内藤新宿、そして、板橋宿が機能していた。 これらの宿場には茶屋や酒楼はもちろん飯盛旅籠(いいもり-はたご)も多くあり、旅人のみならず見送り人や飯盛女(宿場女郎)目当ての客なども取り込んでたいそうな賑わいを見せた。
板橋宿は、その繁栄ぶりは中山道中有数であった。
なお、日本橋から2里(約7.9km)の平尾宿には道中2つ目の一里塚(平尾一里塚)があったが、今は何も残されていない。
『木曾街道 板橋之驛』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆。
画面の左端、道の中央に「是從板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭が建っている。中央より若干左手に見える姿のよい旅人は武家の夫婦で、1人の使用人が後に続く。その使用人は、乗っていくよう武家夫婦に声掛けすべく出茶屋から飛び出してきた駕籠かきを、巧みに遮っている。使用人の体の向きから察するに、おそらく3人は茶屋で一服していたのであろう。休憩後の出ばなの誘いを駕籠かきは振り切られてしまったように見える。しかし、武士の妻は声に応えてか頭の向きを変えている。駕籠かきが客をのがしたかどうかはまだ分からない。茶屋の中には客の町人2人がいて、榎(えのき)の陰に隠れて見えないが、飲み食いしているはずである。また、店先では馬子が馬のための草鞋を取り替えている。
商店街の一角に。
板橋宿本陣 飯田新左衛門家
本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より二里半 (約10キロ) の近距離にある板橋宿では、宿泊に用いられる事は少なく、主に休息所として利用されました。その際には、藩主と江戸の家臣との謁見、送迎の場としても機能していました。
板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門ら数家で務めていたようです。宝永元年 (1704) 、当家は飯田本家より別家していますが、その際、世襲名「新左衛門」と本陣、問屋役を引き継いでいます。また併せて、屋敷地359坪、田畑1.5町余(約1万6000平方㎡)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。なお、当家三代目新左衛門珎儀の遺言状から、別家後の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の「御本陣家」に指定されていたことが窺えます。
本陣は「中山道宿村大概帳」によると、建坪97坪、門構え玄関付きの建物でした。また、本陣指図からは、間口・桁口ともに12間半(22.5m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間のほか、御膳所や18畳の玄関などを備えていたことがわかります。他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供する事が少ない板橋宿の性格を示しています。
本陣の建物は明治23年 (1890) に火災に遇い焼失しましたが、昭和39年 (1964) 、明治期に建てられた母屋の解体時、床板として転用されていた関札が見つかっています。この関札や本陣図などの古文書は、区有形文化財に登録され、板橋宿本陣の姿を今に伝えています。
平成23年3月 板橋区教育委員会
しばらく進むと、「板橋」。
解説板と標柱。
板橋
この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市政町村制が施行されると町名になりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2㎞)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の二度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。
平成12年3月 板橋区教育委員会
現在は、二つの橋が連続して存在するように見えますが、これは南側に大きく回り込んでいた川を昭和47年(1972年)の河川改修で直線化して出来た橋のためです。北に約10m移動した石神井川の橋と、埋め立られて公園になった元の石神井川にかかる橋となっています。コンクリート製ですが、欄干に木目模様を施して木橋の雰囲気を出しています。
橋の傍らには「距日本橋二里二五町三三間」「日本橋から十粁六百四十三米」と記された標柱があります。
旧河川(公園になっている)。 現在の石神井川。
振り返って望む。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」)。「板橋」と石神井川。「水車」が二ヶ所。急流のようです。