おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その2。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-14 23:26:49 | 奥州街道

 「蛇」の「尾」と書いて「さび」とは読むことは難しい。いわれは何でしょうか?

蛇尾川
 栃木県那須塩原市の大佐飛山地に源を発する支流、大蛇尾川と小蛇尾川が山地を抜けた地点で合流して蛇尾川となり、那須塩原市を南東に流れ、扇状地で熊川を合わせる。大田原市片府田で白倉山を水源とし那須塩原市塩原温泉郷より流れてくる箒川に合流する。
 大蛇尾川と小蛇尾川の合流地点より下流側の中流域は、扇状地那須野が原中央を伏流水として流れる水無川となっている。川岸には土手が築かれ、一面の河原が広がり、橋もかかっているものの、その川底には水が流れていない、もしくは水量の少ない流れがまばらに出現するような枯れ川の光景が十数キロに渡って連続する。一方で大雨の際にはこの河原に大量の水が流れ、過去には洪水による被害を幾度も起こしたという河川が出現する。
 一説によれば、「さび」という川の名はアイヌ語の「サッ・ピ・ナイ」(渇いた小石河原の川)に由来するという。この流域は川沿いでありながら水利の便が悪く、かつては不毛の荒野であった時期が長く続いた。
 伏流した流れは扇状地の扇端にあたる大田原市郊外で再び地表に流れ出る。扇端の湧水地帯には、天然記念物のミヤコタナゴやイトヨが生息する。
                                                       (以上、「Wikipedia」参照)

 ここに記されているのは、「水無川」にちなんだアイヌ語語源説。東北地方ならともかく、関東エリアという地域的にはちょっと異なるような気がします。

雨天続きのせいか、水流はありました。

「大田原宿」方向を望む。左手が「大田原城址」、右手が「大田原神社」。

解説板。

 「サビ」とは栃木県の方言で、斎日のこと。祭日を決めて神様に身を清めてもらう行事を行った清流を流れる川の意味である。
 ただ、蛇尾川は「水無川」、「暴れ川」という相反するイメージが強い。これが「蛇尾」という文字の由来であるという説もある。

 ここでは、「斎日」という行事から来ている、としています。また、「蛇尾」という文字の由来を説明しています。水無だったり、増水するとたちまち氾濫するということから「蛇」の「尾」というイメージ。音よりも漢字書きが先行するとは思えませんが、「蛇尾」=「ジャビ」が音韻変化して「サビ」になったとも考えられます。はたして?

 「蛇尾橋」を渡り、左手に向かいます。緩い坂を上り、右にカーブすると、その先は約5㎞のほぼ直線の道になります。

    
                        沿道には、立派なおうちが並んでいます。

 (10:34)左手にある「瀬尾家」は平家の末裔らしく、居館(中田原城)跡という石柱などが2つ塀の前に立っています。
    

平家之豪族瀬尾家居館跡(中田原城)
 古来9世紀前半 當地より西に 200間の地に 瀬尾家居館跡 瀬尾家宮跡 居館跡の回りに十社の神々の鎮座の跡が見られる     
                              平成21年10月吉日  瀬尾家本家 41代當主 隆志書

東山道 旧奥州街道
 北 陸奥の国へ・出羽の国へ 南 奈良の国へ

 天喜5年(1057)源義家が勅令を蒙り父頼義とともに奥羽領国として下向の途次、 秋葉山瀬尾(せのお)神社(市杵島姫神)當家は平家であるため脇名、秋葉神社に滞陣して戦勝を祈り、東山道を通り當地に向  豊臣秀吉、天正18年8月(1590)奥州鎮定のとき、脇名秋葉神社で那須資晴の子藤王丸が会見し、この道を通り當地に向う

門前には句碑。「かさねとはやえなでしこのななるべし 曽良」。

門内には、芭蕉の句碑。
                        「野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす はせを」
 「奥の細道」」中の一句。

 是より殺生石に行く。 館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、 「短冊 得させよ」とこふ。 やさしき事を望侍るものかなと、

 野を横に 馬牽ひきむけよ ほとゝぎす

殺生石は温泉の出る山陰にあり。 石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。(『奥の細道』)

 ここに出てくる「殺生石(せっっしょうせき)」は、那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩。

 殺生石は那須岳の丘陵が湯本温泉街にせまる斜面の湯川にそったところにあります。大昔、中国やインドで悪行をつくした「九尾の狐」伝説にまつわる史跡です。狐が化身したといれる大きな岩の周辺では、今なお独特な硫黄の香りが漂っています。
 また、俳人松尾芭蕉もこの地を訪れ「奥の細道」には、「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。 石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ 真砂の色の見えぬほど重なり死す。」と書き、次の句を詠んでいます。

石の香や 夏草赤く 露あつし

※殺生石は「おくのほそ道の風景地」の一群をなすものとして、平成26年3月18日“国の名勝”に指定されました。(以上「那須町」公式HPより)
                    (写真は、「Wikipedia」より)

来た道を振り返って望む。

「与一みそ 岩上商店」。  

沿道には秋の草花が咲き誇っています。

 左手にある、大きな「富士電機大田原工場」を過ぎてしばらく進むと、「中田原の一里塚」があります(10:45)。
    

大田原市指定史跡 一里塚一基(昭和36年3月22日指定)
 中田原の一里塚は、奥州道中沿い、大田原宿と次の鍋掛宿との間にあります。
 江戸幕府は慶長6年(1601)、奥州道中をはじめとする主要街道の整備に着手し、さらに同9年(1604)には江戸日本橋を起点として街道の両側に一里(約4㎞)毎の印として、塚を全国に造らせました。これが一里塚で、5間(約9m)四方の方形に築かれ、塚の上には榎や松が植えられました。
 この一里塚も当初は道の両側にありましたが、南側の方は宅地建設の際に取り壊されました。北側は半分切り取られた形で残っていましたが、道路拡幅の際、平成12年(2000)に約1.5m後方に移築されました。
                                            大田原市教育委員会

現在の街道の茶屋、コンビニ・セブンイレブンの敷地脇にあります。 

まっすぐに伸びた道を歩きます。

 しばらく進んだ「市野沢小入口」交差点の角には「道標」と「聖徳太子顕彰碑」などの石柱が置かれています。
    

史跡 道標 (昭和60年5月15日指定)
 道標は、路の方向を示すもので木や石で作る。この道標は、江戸街道の一つである奥州道中(街道)から棚倉街道への小滝入口分岐点、追分に建てられたものである。棚倉地方では日光道または、江戸道と呼び奥州道中大田原宿を経由して江戸・日光方面に向う捷路として重要な街道であった。
 寛永6年(1629)8月「紫衣事件」によって江戸幕府の怒りをかい、僧沢庵宗彭と玉室宗珀が流人として流刑の地羽州上山と奥州棚倉への途中、この追分口まで一緒に護送されてきたが、沢庵は奥州路、玉室は棚倉路を北へ次のような決別の詩を作り袂を分かった歴史的な地点である。
     沢 庵
 天、南北に分かれ両鳧(ふ)(二羽のかも)飛ぶ、何れの日にか旧捿(旧巣)翼を双べて帰らん。常無く只此(かく)の如し、世上の禽(とり)も枢機(向を変える機)有り

     玉 室
 草鞋(そうあい)竹丈、雲と与(とも)に飛ぶ、旧院何れの時か手を把って帰らん 永遠く山長く猶信を絶つ(さらに音信も絶えた)。別離今日己に機を忘る(枢機も忘れた)と詩んだ。

 この道標は市内でも最も古いもので重要な文化財である。左面、之より左奥殊通(奥州道)  右面、之より右たなくら(棚倉道) 


 ここにある「紫衣(しえ)事件」とは?

紫衣事件(しえじけん)
 江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とされる。後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく退位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立であった。

 紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
 これに対し、慶長18年(1613年)、江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。

 一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

 このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
 幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
 寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。

 この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している。

 その後、寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許された。配流された僧のうち、沢庵は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍し、寺法旧復を訴えた。寛永18年、事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も戻されている。
                                                          (以上、「Wikipedia」参照。)

    

 「お気軽にお寄り下さい 黒羽刑務所」との看板が目につきます。「刑務所作業製品展示場」の看板です。
「キャピック」という小物から家具までの手作り製品を展示販売しているらしいです。

 (HPより)

「棚倉街道」。
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