山道を下って行くと、いよいよ今回の終点・「芦野宿」も間近になってきます。途中、県道から左に入って旧道を進みます。
右手が開けてきて、羊が何頭かこちらを見てけっこうな勢いで近づいてきます。一瞬、あれ! よかった! 鎖につながれています。
路傍には馬頭観音碑などが。 !?
右手が県道の橋。
その先で県道に合流し、さらに国道を越えていきます。途中に芦野氏の居館跡などの案内表示。
「国道」
「奈良川」を越えると、「芦野宿」。左手には「川原町地蔵尊」。
この先は、桝形になっていて、左折、右折、左折となって宿内に入って行きます。各戸には宿場時代の屋号を記した石灯籠が建っています。
宿内は静かで落ち着いた街並み。
桝形を振り返って望む。
右からの道と合流して宿内に入って行きます。ほぼ直線の道路沿いに建物が続いています。
芦野宿については、主にを参照。
奥州道中は幕府の命により整備され、これによって、従来の東山道、中世以来の関街道と呼ばれた伊王野谷を通る道は、脇街道となった。
関ヶ原合戦の後、慶長年間のことである。これにより、芦野は城下町として、また新街道の宿駅として、江戸時代の流通経済の発展に伴い交通の要衝(江戸方面からみれば 関東北端の宿駅であり、東北からすれば、関東の入り口に当たる)として発展した。
芭蕉の奥の細道をはじめとして、多数の文人墨客がこの地を訪れている。明治になるとこの道は、「陸羽街道」となり、新国道の開通まで国道の機能を果たしていた。
奥州街道25番目の宿場。人口350人、家数168軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
(旗本・芦野氏は鎌倉時代からの地頭で、那須七騎の一家としてこの地を治めていた)
「交通網の変遷」。
この地域は、「奥の細道」(芭蕉)にも大いに関係する土地柄です。また、奥州と言えば、源義経にも・・・。
「奥の細道 那須路」。
宿場の中心付近。
丁子屋(右の建物)。
丁子屋
旧奥州街道の芦野の旅籠として、江戸時代から300年もの歴史を持つうなぎ料理の老舗。奈良川から水を引いた堀の中にうなぎを放し、自然に限りなく近い形で育てている。20分~30分蒸した後、炭火でじっくりと焼く昔ながらの料理法。身がしまった、見た目よりもさっぱりした味わいが評判となっている。江戸時代から300年守り続けた秘伝の味が自慢のお店。
油屋。
今回の終点「芦野仲町」バス停には、15:40到着。宿内をじっくり探索するのは次回にして、
「芦野仲町」バス停。15:58発のバスでJR「黒田原」駅に。
「芦野」は鉄道網からは離れていて、最寄りの駅との間には1日4本(午前2本、午後2本)の東野バスが往復するだけです。16:10前に「黒田原」駅到着。16:24発の電車で「黒磯」まで。「黒磯」からは「上野」まで16:39 発、直通の「快速ラビット」で戻ることが出来ました。
バス停で待っているとき、老人が近づいてきて、話しかけてきます。「丁子屋」の隣にある「那須通信建設」の社長のWさん。
「時間があれば車で案内してやるよ、遊行柳とか他にもたくさんあるし。」「白河の関とか、車で回ればわけないから。」「こっちもぼけ防止で車の運転をするさ。」「年? 79だよ。」「また今度来るときには案内するから。」と、名刺をくれました。ずいぶんと親切な方です。「だんだん日が短くなるから、気をつけてな。」
今回、会話をした二人目の方でした。
すると、一人の青年がバス停に。何でも昨日は西那須野から大田原に行き、今日はここだったそうです。住まいは明石の方とか、彼とはバスの中、さらに駅のホーム、黒磯までの車内までおしゃべり。その後、お別れ。
車内を見回すと、近くにどうも見たことがある夫婦連れ。男性の方がかつて20年以上も前の職場の同僚らしき雰囲気。この地の地名と同じN氏。同僚時代、よく山に行っていた仲間。が、話しかけようも、ちょっと逡巡している内に、「黒磯」に。
当方と同じく、お二人も「上野」行きに乗り換え。計算されつくした素振りを見ていると、かつての雰囲気とよく似ている。「快速ラビット」でもたまたま近くに座って観察。向こうは、まったく当方に気づかぬようす。そのうち、大宮に着くと、隣のホームに停まっている電車に急いで乗り換えていきました。何だ、人違いだったか!
と、彼らが乗った電車のホームの行き先表示を見ると、「八王子行き」。たしか、かなり前に奥多摩の方に移り住んでいたはず。やはり、元同僚のN氏だった! とそのとき、確信。
結局、話すじまいでした。残念!
今回は、実におもしろい「一人」旅でした。次回は白坂、白河までどう行くか?