「那珂川」を渡って、すぐ左にまがると、「越堀宿」となります。「鍋掛宿」とは、約800㍍離れているだけです。
越堀宿(こえぼりじゅく)
宇都宮追分から14里5町2間(55.5㎞)、白河宿まで7里13町17間半(28.9㎞)
宿内人数 569人、宿内惣家数 113軒(本陣1、脇本陣1、旅籠11)。奥州道中ではかなり遅く出来た宿場で、正保3年(1646)開設。
閑散とした宿内のようす。
「越堀」バス停。この路線は予約制で事前に予約しないとダメ。
宿はすぐに終わってしまい、前方の道は枡形になっています。
振り返って望む。時たま車が通過。
右手に浄泉寺があり、境内には黒羽領境界石がありますが、省略。
「越堀宿」解説板。
慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開き、翌9年、奥州街道が整備された。
以後、幕府のご機嫌伺いのため、大名の出府が広く行われた。
伊達公出府の折、那珂川洪水で渡河出来ず、急遽、那珂川岸に仮屋を建て、減水を待って江戸に向かった。このとき仮屋を建てるのに協力したのが沼野村の藤田和泉重統である。
宿場の形成は彼がその仮屋を払い請け、堅牢に建て替えたことに始まる。
越堀の地名は、波が郷川という堀を越えてきた事に由来するとも言われている。参勤交代の制度確立と共に、大名行列、麹米その他の物資の輸送、商人、旅人の往来当で賑わい、近郷や他国から移り住む人が増えて宿場として栄えるようになった。
平成26年5月 鍋掛地域車座談義運営委員会
「此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地」
鍋掛村役場跡
黒磯町鍋掛支所跡
黒磯市老人憩の家鍋掛荘跡
越堀自治公民館建設記念
宿内を振り返って望む。
右手の民家の庭先に大きな石碑「征馬之碑」と「殉従軍馬之碑」が建っています。
(13:21)その先に越堀宿坂本屋の石碑と、新しい道標(石碑)が一段高い所に据えられている。
奥州街道
右 これより江戸四十里
左 これより白河宿七里
平成十七年ニ月吉日 鈴木金弥
「越堀宿」が終わると、街道は右にカーブして上り坂になります。この右カーブする所を左に分かれて行くのが『奥の細道』らしい。
しばらく進むとその途中の左側崖上に高久靄崖の墓があるとのことですが、その標柱を見逃しました。
山道を進みます。
振り返って望む。
(13:31)杉渡戸(すぎわたど)という集落に入っていきます。
「杉渡戸公民館」前に「伊勢大神宮遥拝碑」が建っています。
(13:38)こちらは、大きな「馬頭観音碑」。
これは現代の「一里塚」。単なる盛り土ですが。
また山道になります。車も通らず、人にも遭わず・・・。
やがて地図上では「富士見峠」に差し掛かりますが、どこかはっきりしないまま、峠を下っていくと、「寺子」という集落になります。
「寺子十文字」バス停。
この辺りでは「十字路」(交差点)を「・・十文字」というようです。ここまでにもいくつかこういう表示を見ました。
(13:58)「寺子十文字」手前右側の「寺子一里塚公園」があります。
寺子の一里塚(史跡) 管理者 寺子行政区
一里塚は、江戸時代全国の主要な街道に、日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれたものである。
ここ寺子の一里塚は、奥州街道42番目のもので、江戸より42里(約165キロメートル)の距離を示す塚である。
一里塚は、旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
鍋掛の一里塚が慶長9年甲辰(1604)に築かれたことから、寺子の一里塚もほぼ同年に築かれたと考えられる。
最初の一里塚は、現在地から約50メートル程白河寄りにあったが、小学校の建設と道路の拡張によってなくなってしまった。
現在の塚は、平成7年3月に復元されたものである。
平成7年3月吉日 那須塩原市教育委員会
富士見峠の馬頭観世音
馬頭観世音は、荷役として世話になった馬の供養と、旅人の交通の安全を祈り道標として建てられた石仏である。
安永4年(1775)12月寺子村を施主村として、寺子組25ヶ村のうち14ヶ村が協力して碑を建立したようである。
地元の古老の話では、かって奥州街道富士見峠には2~3軒の茶屋があり、行き交う旅人の休息地であったという。
この馬頭観世音も峠の頂上付近に建てられていたが、保存のため街道景観形成事業により現在地に移された。
平成8年丙子3月 那須塩原市
公園内の東屋で休んでいる自転車の方に会いました。地元(那須)の方で、今日はこの辺りを90㎞ほど走ったそうで、これから帰宅するとのことです。60代後半で実にお元気な方。今回、初めて人と会話しました。後1時間20分くらいで「芦野宿」には着きますよ、とスマフォで検索してくれました。
さて、もう少しです。御礼を言って出発します。
(14:19)「寺子交差点」を渡って少し下った右側に会三寺があります。すぐ先の「余笹川」に架かる「寺子橋」を渡っていきます。
その橋の手前右側には余笹川見晴らし公園があります。
平成10年8月、余笹川流域では、台風4号に刺激され活性化した前線の活動で、二日間で総雨量1,340mmという豪雨を記録し、大洪水が発生、この大雨による被害は、黒磯市や那須町などの栃木県北部を中心に広範囲に及び、県内の死者は5名、行方不明者2名、床上または床下まで水に浸かった家屋は2,846棟に上り、住民5,500名以上が避難しました。特に余笹川では、洪水流により数時間で流路幅が3倍から5倍に広がり、河岸の8割以上が決壊しました。
越堀宿(こえぼりじゅく)
宇都宮追分から14里5町2間(55.5㎞)、白河宿まで7里13町17間半(28.9㎞)
宿内人数 569人、宿内惣家数 113軒(本陣1、脇本陣1、旅籠11)。奥州道中ではかなり遅く出来た宿場で、正保3年(1646)開設。
閑散とした宿内のようす。
「越堀」バス停。この路線は予約制で事前に予約しないとダメ。
宿はすぐに終わってしまい、前方の道は枡形になっています。
振り返って望む。時たま車が通過。
右手に浄泉寺があり、境内には黒羽領境界石がありますが、省略。
「越堀宿」解説板。
慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開き、翌9年、奥州街道が整備された。
以後、幕府のご機嫌伺いのため、大名の出府が広く行われた。
伊達公出府の折、那珂川洪水で渡河出来ず、急遽、那珂川岸に仮屋を建て、減水を待って江戸に向かった。このとき仮屋を建てるのに協力したのが沼野村の藤田和泉重統である。
宿場の形成は彼がその仮屋を払い請け、堅牢に建て替えたことに始まる。
越堀の地名は、波が郷川という堀を越えてきた事に由来するとも言われている。参勤交代の制度確立と共に、大名行列、麹米その他の物資の輸送、商人、旅人の往来当で賑わい、近郷や他国から移り住む人が増えて宿場として栄えるようになった。
平成26年5月 鍋掛地域車座談義運営委員会
「此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地」
鍋掛村役場跡
黒磯町鍋掛支所跡
黒磯市老人憩の家鍋掛荘跡
越堀自治公民館建設記念
宿内を振り返って望む。
右手の民家の庭先に大きな石碑「征馬之碑」と「殉従軍馬之碑」が建っています。
(13:21)その先に越堀宿坂本屋の石碑と、新しい道標(石碑)が一段高い所に据えられている。
奥州街道
右 これより江戸四十里
左 これより白河宿七里
平成十七年ニ月吉日 鈴木金弥
「越堀宿」が終わると、街道は右にカーブして上り坂になります。この右カーブする所を左に分かれて行くのが『奥の細道』らしい。
しばらく進むとその途中の左側崖上に高久靄崖の墓があるとのことですが、その標柱を見逃しました。
山道を進みます。
振り返って望む。
(13:31)杉渡戸(すぎわたど)という集落に入っていきます。
「杉渡戸公民館」前に「伊勢大神宮遥拝碑」が建っています。
(13:38)こちらは、大きな「馬頭観音碑」。
これは現代の「一里塚」。単なる盛り土ですが。
また山道になります。車も通らず、人にも遭わず・・・。
やがて地図上では「富士見峠」に差し掛かりますが、どこかはっきりしないまま、峠を下っていくと、「寺子」という集落になります。
「寺子十文字」バス停。
この辺りでは「十字路」(交差点)を「・・十文字」というようです。ここまでにもいくつかこういう表示を見ました。
(13:58)「寺子十文字」手前右側の「寺子一里塚公園」があります。
寺子の一里塚(史跡) 管理者 寺子行政区
一里塚は、江戸時代全国の主要な街道に、日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれたものである。
ここ寺子の一里塚は、奥州街道42番目のもので、江戸より42里(約165キロメートル)の距離を示す塚である。
一里塚は、旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
鍋掛の一里塚が慶長9年甲辰(1604)に築かれたことから、寺子の一里塚もほぼ同年に築かれたと考えられる。
最初の一里塚は、現在地から約50メートル程白河寄りにあったが、小学校の建設と道路の拡張によってなくなってしまった。
現在の塚は、平成7年3月に復元されたものである。
平成7年3月吉日 那須塩原市教育委員会
富士見峠の馬頭観世音
馬頭観世音は、荷役として世話になった馬の供養と、旅人の交通の安全を祈り道標として建てられた石仏である。
安永4年(1775)12月寺子村を施主村として、寺子組25ヶ村のうち14ヶ村が協力して碑を建立したようである。
地元の古老の話では、かって奥州街道富士見峠には2~3軒の茶屋があり、行き交う旅人の休息地であったという。
この馬頭観世音も峠の頂上付近に建てられていたが、保存のため街道景観形成事業により現在地に移された。
平成8年丙子3月 那須塩原市
公園内の東屋で休んでいる自転車の方に会いました。地元(那須)の方で、今日はこの辺りを90㎞ほど走ったそうで、これから帰宅するとのことです。60代後半で実にお元気な方。今回、初めて人と会話しました。後1時間20分くらいで「芦野宿」には着きますよ、とスマフォで検索してくれました。
さて、もう少しです。御礼を言って出発します。
(14:19)「寺子交差点」を渡って少し下った右側に会三寺があります。すぐ先の「余笹川」に架かる「寺子橋」を渡っていきます。
その橋の手前右側には余笹川見晴らし公園があります。
平成10年8月、余笹川流域では、台風4号に刺激され活性化した前線の活動で、二日間で総雨量1,340mmという豪雨を記録し、大洪水が発生、この大雨による被害は、黒磯市や那須町などの栃木県北部を中心に広範囲に及び、県内の死者は5名、行方不明者2名、床上または床下まで水に浸かった家屋は2,846棟に上り、住民5,500名以上が避難しました。特に余笹川では、洪水流により数時間で流路幅が3倍から5倍に広がり、河岸の8割以上が決壊しました。