この場所は奥州街道歩きでは、ぜひ立ち寄りたかったところです。思ったよりも小ぶりながらよく整備され、西行法師の歌碑や芭蕉や蕪村の句碑などもあって、さすが「歌枕」の地だけのことはあります。今でも田んぼの中にあります。
『奥の細道』より。(芭蕉は「殺生石」についでここを訪ねたようです。
又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此(の)所の郡守戸部某の此(の)柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此(の)柳のかげにこそ立(ち)より侍つれ。
田一枚 植て立去る柳かな
注:芭蕉は、現在の「遊行柳」という言い方ではなく「清水流るゝの柳」と記しています。当時は、西行法師の歌から名付けられた呼称でした。
遊行柳の由来
遊行柳の伝説は、遊行巡化を宗旨の生命とする時宗の遊行上人と時衆が、昔この地で朽木の柳の精霊を済度したという、仏教史上の広義の史話と、その伝説地としての広義の史跡とを内容としている。
その大要は、昔々の遊行上人(宗祖上人ともいう)が巡化で芦野を通られた時、使用の杖が根づいて、年古りいつしか朽木の柳・枯木の柳とよばれる巨樹になった。星積り遊行十九代尊皓上人の文明3年(1471)当地方遊行あり、その時柳の精が老翁と化して出現、上人にも古来の道を教えて後、化益をうけて成仏し、その歓びに、草も木も洩れぬ御法の声きけは、朽ちはてぬへき後もたのもしの一首を献じた。上人返しに、
おもひきや我法の会にくる人は、柳の髪のあとたれむとは
とあり、柳の精は消えうせた。以来柳は遊行柳とよばれるようになり、傍らに寺が立ち揚柳寺となったという。
別説は遊行十四代太空上人巡化の時、柳の精の女性が出現、救いを求めた。上人は六時礼讃の日中法要を修して化慶し、精は成仏したという。
それ以来、遊行上人当地方巡化の際は、必ず柳に回向あり。本伝説の流布発展に大いに寄与した。
これらは草木国土のような非情物までが、念仏の功力によって皆悉く成仏するという、法華経に基を発する大乗仏教思想の所産であり、感激的な済度談であり、時宗の絶対的念仏思想の端的な表現である。
なお本柳には、道の辺の柳、清水流るるの柳などの別名がある。
これは西行の
道の辺に 清水流る 柳かけ しばしとてこそ立とまりつれ
の新古今集にのる一首によるものであり、この歌はこゝで詠んだものとの伝えあり、謡曲でもこれを取りいれている。これら別名は主に文芸の世界で用いられ、この世界でも多彩で見事な花を咲かせた。
代表的なものをあげると、道興の回國雑記(文明18年・1486)を初見として、蒲生氏郷紀行にも見え、江戸時代になると、玖也・宗因・三千風等の作品あり、次いで芭蕉奥の細道に「田一枚」の句あり、さらに桃隣・蓮阿・青房・北華・馬州等の作品が続き、蕪村に反古衾の「柳散り」の句がある。その後は暁台・白雄・風耳等が続き、現代に至るも宗教・歴史・芸能・文学関係の来訪絶えることなく、そのかみの芳躅(ほうたく=先人の行跡)が偲ばれている。
解説板。
遊行柳
諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るるの柳ともいう。伝説によると文明の頃(1471)時宗十九代尊皓上人が当地方順化の時、柳の精が老翁となって現われ上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。
いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲に作られ、又種々の紀行文に現われ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。老樹巨木の崇拝仏教史的発展、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。
那須町教育委員会
芭蕉句碑。
田一枚 植て立去る 柳かな 芭蕉
蕪村句碑。
柳散清水涸石処々 蕪村 (柳散り清水かれ石ところどころ)
西行歌碑。
道の辺に 清水流る 柳かげ 志ばしとてこそ 立とまりつれ
謡曲「遊行柳」と朽木柳
謡曲「遊行柳」は、その昔諸国巡歴の遊行上人が、奥州白河の関辺りで老翁に呼びとめられ、「道のべに清水流るる柳かげ」と西行法師が詠じた名木の柳の木の前に案内され、そのあまりに古びた様子に、上人が十念を授けると老翁は消え去った。
夜ふけ頃、更に念仏を唱えて回向する上人の前に烏帽子狩衣の老翁が現れて遊行上人の十念を得て非情の草木ながら極楽往生が出来たと喜び、幽玄の舞いを通して念仏の利益を見せる名曲である。
朽木柳については、宗祖遊行上人が芦野巡化の折、老翁姿の柳の精が出現して上人を案内したとのいわれからやがて「遊行柳」と呼ばれるようになったという。何代も植え継がれて来た。
謡曲史跡保存会
「那須の名木・遊行柳」平成6年11月3日指定 幹回り90cm 樹高10m
正面のあぜ道から振り返って望む。
大型バイクで乗り付けた二人の壮年が降りて行きました。
足元にはイヌタデ(赤まんま)が群生。
(14:43)再び「遊行庵」に戻ってきました。地元野菜の即売所が併設されています。
実はこんな大きさ。
前回訪れた「芦野宿」へ。
『奥の細道』より。(芭蕉は「殺生石」についでここを訪ねたようです。
又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此(の)所の郡守戸部某の此(の)柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此(の)柳のかげにこそ立(ち)より侍つれ。
田一枚 植て立去る柳かな
注:芭蕉は、現在の「遊行柳」という言い方ではなく「清水流るゝの柳」と記しています。当時は、西行法師の歌から名付けられた呼称でした。
遊行柳の由来
遊行柳の伝説は、遊行巡化を宗旨の生命とする時宗の遊行上人と時衆が、昔この地で朽木の柳の精霊を済度したという、仏教史上の広義の史話と、その伝説地としての広義の史跡とを内容としている。
その大要は、昔々の遊行上人(宗祖上人ともいう)が巡化で芦野を通られた時、使用の杖が根づいて、年古りいつしか朽木の柳・枯木の柳とよばれる巨樹になった。星積り遊行十九代尊皓上人の文明3年(1471)当地方遊行あり、その時柳の精が老翁と化して出現、上人にも古来の道を教えて後、化益をうけて成仏し、その歓びに、草も木も洩れぬ御法の声きけは、朽ちはてぬへき後もたのもしの一首を献じた。上人返しに、
おもひきや我法の会にくる人は、柳の髪のあとたれむとは
とあり、柳の精は消えうせた。以来柳は遊行柳とよばれるようになり、傍らに寺が立ち揚柳寺となったという。
別説は遊行十四代太空上人巡化の時、柳の精の女性が出現、救いを求めた。上人は六時礼讃の日中法要を修して化慶し、精は成仏したという。
それ以来、遊行上人当地方巡化の際は、必ず柳に回向あり。本伝説の流布発展に大いに寄与した。
これらは草木国土のような非情物までが、念仏の功力によって皆悉く成仏するという、法華経に基を発する大乗仏教思想の所産であり、感激的な済度談であり、時宗の絶対的念仏思想の端的な表現である。
なお本柳には、道の辺の柳、清水流るるの柳などの別名がある。
これは西行の
道の辺に 清水流る 柳かけ しばしとてこそ立とまりつれ
の新古今集にのる一首によるものであり、この歌はこゝで詠んだものとの伝えあり、謡曲でもこれを取りいれている。これら別名は主に文芸の世界で用いられ、この世界でも多彩で見事な花を咲かせた。
代表的なものをあげると、道興の回國雑記(文明18年・1486)を初見として、蒲生氏郷紀行にも見え、江戸時代になると、玖也・宗因・三千風等の作品あり、次いで芭蕉奥の細道に「田一枚」の句あり、さらに桃隣・蓮阿・青房・北華・馬州等の作品が続き、蕪村に反古衾の「柳散り」の句がある。その後は暁台・白雄・風耳等が続き、現代に至るも宗教・歴史・芸能・文学関係の来訪絶えることなく、そのかみの芳躅(ほうたく=先人の行跡)が偲ばれている。
解説板。
遊行柳
諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るるの柳ともいう。伝説によると文明の頃(1471)時宗十九代尊皓上人が当地方順化の時、柳の精が老翁となって現われ上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。
いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲に作られ、又種々の紀行文に現われ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。老樹巨木の崇拝仏教史的発展、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。
那須町教育委員会
芭蕉句碑。
田一枚 植て立去る 柳かな 芭蕉
蕪村句碑。
柳散清水涸石処々 蕪村 (柳散り清水かれ石ところどころ)
西行歌碑。
道の辺に 清水流る 柳かげ 志ばしとてこそ 立とまりつれ
謡曲「遊行柳」と朽木柳
謡曲「遊行柳」は、その昔諸国巡歴の遊行上人が、奥州白河の関辺りで老翁に呼びとめられ、「道のべに清水流るる柳かげ」と西行法師が詠じた名木の柳の木の前に案内され、そのあまりに古びた様子に、上人が十念を授けると老翁は消え去った。
夜ふけ頃、更に念仏を唱えて回向する上人の前に烏帽子狩衣の老翁が現れて遊行上人の十念を得て非情の草木ながら極楽往生が出来たと喜び、幽玄の舞いを通して念仏の利益を見せる名曲である。
朽木柳については、宗祖遊行上人が芦野巡化の折、老翁姿の柳の精が出現して上人を案内したとのいわれからやがて「遊行柳」と呼ばれるようになったという。何代も植え継がれて来た。
謡曲史跡保存会
「那須の名木・遊行柳」平成6年11月3日指定 幹回り90cm 樹高10m
正面のあぜ道から振り返って望む。
大型バイクで乗り付けた二人の壮年が降りて行きました。
足元にはイヌタデ(赤まんま)が群生。
(14:43)再び「遊行庵」に戻ってきました。地元野菜の即売所が併設されています。
実はこんな大きさ。
前回訪れた「芦野宿」へ。