おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その4。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-19 18:50:51 | 奥州街道
 (12:58) 「鍋掛十文字」交差点を渡ると、「鍋掛宿」の中心になります。その前に、角のコンビニで小休止。

「鍋掛交差点」を渡った所に清川地蔵尊があります。

       「清川地蔵」は子育て地蔵として地元民の信仰が厚く、毎年4月24日の祭礼には集落の女性全員が集まり、念仏を唱える行事が行われているそうです。

宿場らしい雰囲気はほとんどなく、ひっそりとした街並み。  

 左手が小さな広場になっていて、解説板や芭蕉の句碑があります。奥は、八坂神社の祠。
    
 写真右の解説版には、「白澤宿」で見た「奥州街道白澤宿の会」と「奥州街道膝栗毛の会」による奥州街道の旅程表が掲載されています。

 奥州街道 鍋掛宿より各宿の里程
 江戸   江 四拾壱里八町参拾四間
 宇都宮宿 江 拾壱里五町拾四間
 ・・・
 鍋掛宿与利

 越堀宿  江    八町四拾八間
 芦野宿  江 弐里弐拾町参拾間半
 白坂宿  江 五里弐拾五町五間半
 白河宿  江 七里弐拾弐間五間半

 奥州道中・白河宿より宇都宮宿迄、弐拾壱里(八拾六キロ)余りを膝栗毛によって踏破した記念に、この高札を掲げる。
    平成参年(一九九一)拾壱月参日

 句碑の説明板には「鍋掛宿」の解説と奥州道分間延絵図(鍋掛宿部分)も併せて記載されています。
    

芭蕉の句碑
 芭蕉が元禄2年(1689)3月(旧暦)「奥の細道」行に旅立ち、黒羽より高久に向う道すがら4月16日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。

   野を横に 馬牽(ひ)きむけよ ほとゝぎす

 この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。
 その昔行われていた那須野の狩りを想い起こし「私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか」という心境で詠んだものである。
 句碑の建立は、文化5年(1808)10月に、当時鍋掛宿の俳人菊池某外数名によるものと思われる。
 平成5年(1993)3月、街道景観形成事業により、ここに建て替えられた。
                                                黒磯市教育委員会(注:黒磯市は現在、那須塩原市となっている)

鍋掛宿
 鍋掛宿は、江戸時代の五街道の一つ奥州街道の宿場として栄えた集落であり、最盛期には、戸数も百余戸を数え、旅籠、茶屋、その他多くの商家などで賑わったという。
 江戸時代初期の正保3年(1646年)以後は幕府直轄地天領として明治まで治められた。

 本陣1、脇本陣1、旅籠23、総戸数100余戸。鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つと言われた那珂川の手前にあり、川留めの時など、大いに賑わったという。
 鍋掛宿は那珂川対岸の堀越と2宿で1宿の機能を果たしていました。
 鍋掛の名の由来は、那珂川の川留めにより旅人が溢れ、宿住民が総出で鍋を出し、炊き出しを行なったことから、らしい。
 那珂川は、幕府にとって天然の防御ラインで、鍋掛は天領でした。

「初市神」。

 八坂神社の隣にある正観寺の山門脇に樹齢250年とされる、大きなシダレザクラがあります。門前には蔵造りを模した「鍋掛消防小屋」があります。この建物が宿場をイメージした唯一のもののようです。

                             

かなり古そうな道標で、判読不能。

ここで「鍋掛宿」もおしまい。

(13:08)右に入る道が旧道ですが、左折してすぐ県道に戻ることに。

県道側から旧道を望む。

 そのまま県道を突っ切ると、右手に大きな馬頭観音石碑や道祖神が並んでいます。この道が旧道らしく、川べりに下りて向こう側に渡ったようですが、現在は通行不能。


 (13:13)「那珂川」に架けられた「昭明橋」を渡ります。
    

眼下は切り立ったようすで、天然の要塞という印象。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする