おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その6。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-21 18:52:04 | 奥州街道
 元々の奥州街道は「余笹川」を渡った先に残っているようです。そこで、「高柳梨園」の向かい側から旧道に入ります(14:20)。

左手が「余笹川」側。右に続いています。

平成10年の集中豪雨の時の浸水水位。目の高さ以上。

のどかな道筋。蔵造りの建物も。

 (14:24)まもなく県道に合流します。その地点に、蓄魂碑という牛の像が乗っているものや、馬頭観音、二十三夜塔、庚申塔などが集められている。蓄魂碑は昭和60年に地元の畜産関係者が建立したもの。全国各地にあるようです。

    

右の解説板は奥にある「馬頭観音」碑にまつわるものです。

弁慶の足踏み石(馬頭観世音碑)
 馬頭観世音碑の横に、草鞋のような形の大きさのくぼみがある。地元の言い伝えでは、源義経が平家との戦いの後に、兄の源頼朝と対立し、家来の武蔵坊弁慶らとともに奥州街道を通り、奥州平泉へ落ち延びる途中、石田城にて一休みし、さて出発しようと、弁慶が道端の石を足台にして馬に乗ろうとしたところ、弁慶の重みで石の表面が佩いていた草鞋の形に沈んでしまったとされている。
 後にその石を三つに切り分け、その一つに馬頭観世音の文字を刻み、街道を往来する荷駄馬
の守り神とするため、ここ石田坂に設置したという。
 馬頭観世音碑は、以前はこの付近の別の場所に建っていたが、平成10年の那須水害の後に、現在の場所に移設された。

                    平成26年3月          鍋掛地域車座談義運営委員会

どこなのかはっきりしませんが。

 (14:28)先に進むと。右手の方からオートバイの爆音が聞こえてきます。我が家の近所でおなじみの「レッドバロン」の絵柄が。



   
 基本のライディングをもう少し練習したいというリターンライダーやビギナーの方のための安全運転講習会、バイクを通じてたくさんのライダーたちとふれあえる、雑誌社・スポンサー主催の走行会や各種イベント。
 そして、公道では体験できないマシン本来のポテンシャルを味わうことのできるスポーツ走行など、那須モータースポーツランドは幅広いライダーの方に、さまざまなかたちでバイクを楽しんでいただけるプログラムを展開してまいります。
                                               (HPより)

のどかな田園風景。

 (14:45)路傍にはかなり古びた「馬頭観音」「二十三夜塔」などが点在しています。
    

 「石田坂」を下ると、黒川地区に入ります。
    

 旧道は「黒川」の手前で、県道からまっすぐ細い道を進み、黒川を渡っていましたが、今は、橋は少し上流になり、道は土手にぶつかります。左折して現在の「黒川橋」を渡ることになります。

    

(15:00)橋のところに集中豪雨時の氾濫水位が示されています。橋桁を越える勢いだったようです。

かつて橋のあった付近を望む。黒川地区。

 「黒川」を渡った旧道はまっすぐ続いていたようですが、現在の改修された県道は大きくU字型になり、遠回りになっています。右手の道路脇に大きな岩があります。「夫婦石」。
    

 現在の県道は大きく迂回、拡幅・工事がされたようで、かつては旧道・田んぼの右手にこの「夫婦石」があったようですが、今は、すぐ目につく所にあります(15:08)。

民話◆夫婦石(みょうといし)

 ここは奥州街道のとおる、芦野からすこしはなれた、とても小さな村です。
 ここに、人間にばけるという、ヘビの夫婦がいました。
 ヘビ夫婦は、いろいろな人間にばけていました。いまは百姓夫婦にばけました。
 「ねえ、おまえさん、百姓にばけたのはいいけど、百姓の道具がぜんぜんないよ」
 「どっからか、かりてこよう」
 夫婦は、近くの家にかりにいきました。
 「すンませんが百姓道具を貸してくれませんか」
 「あぁ、いいよ」
 うまく、夫婦は百姓道具をかりてきて、それから毎日いっしょうけんめい、働きました。そばを通りかかる人はみんな、声をかけていきました。
 「やァ、ごせえが出るネ」
 「まったくだ。まったくだ。あんたらこの村じゃ、いちばんの働きもンだがな」
 「いやぁー」
 夫婦は村でとても人気者になりました。ところがあるばん、きょうあったことなどをはなしているうちに、なにがおもしろかったのか、ふたりで、ゲラゲラわらいだしました。
 「わっはっは」
 「おっほっほ」
 すると、夫婦とももとのヘビにもどってしまいました。あまりわらいすぎると、もとのすがたになってしまうのです。夫婦は、こっそり村をでて、1里(4キロメートル)ほどはなれた山の中のほらあなににげていきました。
 そのころ、村ではふたりがいなくなったので、心配していました。ヘビ夫婦は、また人間にばけようと話をしていました。
 「ねぇ、おまえさん、こんどはどんな人にばけるかねぇ」
 「そうだな、くすり売りにでもばけてやるか」
 こうして、くすり売りにばけ、村にいきました。そしてまた、村に住みついて、くすり売りをはじめました。
 夫婦は、またこの村の人気者になりました。というのは、貧しい人びとにはくすりをただであげていたのです。この村にすみついてからちょうど2週間たって、つい、あることからわらいがとまらなくなってしまいました。それでまたヘビのすがたにもどってしまいました。しかたないのでまた、山のほらあなににげていきました。
 ほらあなの中で、ヘビ夫婦はまた、なににばけようかとそうだんしました。いろいろはなしあい、かんがえた末、海から魚や海草を買い入れてきて売ることにしました。
 そこで夫婦は、魚や海草を買い入れて、また村にいきました。村では、魚や海草などめずらしいため、みんなよってきました。それに安かったので、よろこんで買ってくれました。
 こうして、村人にもすっかりなれたというときに、また、わらいがとまらなくなり、もとのヘビのすがたになってしまいました。ところが、ヘビのすがたにもどるところを、こんどはとおりかかった村人にみられてしまいました。村人は、
 「これはたいへんだ。みんなにおしえなければ」とびっくりして逃げていきました。そして村にいき、みんなにはなしました。するとひとりが、
 「土ンなかにうめたらどうだんべか」
 「うんだ、うんだ」
 と、はなしの結果、ヘビ夫婦を土の中にうめてしまいました。
 ところが、ヘビをうめたところに、いつのまにか2つに石ができていました。1つは大きく、1つはそれよりもやや小さいのでした。村人はみな、ふしぎがりました。
 うめられたヘビ夫婦がうらんで石になって出てきたのではないかと考えました。それからというもの、村人は石のそばをとおるのをさけ、きみわるがりました。
 こんな出来事があって1ケ月すぎたある夜、石のところから子どもの泣き声がきこえるのでした。毎晩、泣き声はきこえました。村人はきみわるくなりました。それでこうして村の人全部があつまって話し合いをしているのです。
 「どうすべか。このままじゃ、きみわるくて夜なんか、ねらんねべな」
 「うんだ、うんだ」
 「どうだべか、芦野から坊さまをよんで、お経でもあげてもらうべか」
 「うんだ、そうすべ」
 ということになって、芦野の宿へお坊さんをよびにいきました。そしてお坊さんにお経をよんでもらいました。
 それからは子どもの泣きごえもきこえなくなりました。しかしまた、小さな石ができたそうです。
 それでも村は平和になりました。

 現在、夫婦石という集落があり、ここに、その石がいまでも実在する。「みよといし」の方面へお越しの際はぜひご覧ください。
 大きな石と小さな方の石が、よるになるとくっついてしまうという話もある。

(「」HPより)

旧道らしき道。県道の左手。

(15:14)しばらく進むと、右手前方に「夫婦石の一里塚」。

    

夫婦石の一里塚
 一里塚は中国に例があり、日本では織田信長が天正元年(1572)に38町を一里(4㎞)として塚を築かせたといわれています。さらに江戸幕府は慶長9年(1604)2月大名たちに東海・甲州・中山の各街道の整備と共に一里塚を築かせました。同年5月には同じく将軍徳川家康の命令により奥州街道の整備が進められ、三代将軍家光の代にはほぼ完成したとのことです。その後、この街道の両側にも一里塚が築かれました。
 夫婦石の一里塚は、本町の最も南にあり、江戸日本橋より43里(172㎞)目の塚です。一里塚は、旅人にとって旅程の目標となり、時には憩いや休息の場としても利用されました。那須町には、この一里塚の次に、44里目の『板屋の一里塚』、45里目の『泉田の一里塚』があります。この奥州街道は、江戸時代の主要な街道=五街道のひとつとして参勤交代の大名とその家臣たちの通行をはじめ多くの旅人の往来、物資の輸送路として大きな役割を果たしました。

                                          那須町教育委員会
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