今度は、国道から右手に入ります。すぐ右手には「瓢箪」の形をした「瓢石(ふくべいし)」と道標を兼ねた石碑があります。
「瓢石 勝五郎旧跡 初花清水従是二丁」。
(11:47)しばらく進むと、左手の田んぼの傍らに「初花清水」の石碑と解説板。
初花清水と瓢石 寄居
♪いざり勝五郎 車にのせて
引くよ初花 箱根山
これは那須町近在の田植え歌であり、盆唄であり、追分でもあり、誰もが知っていて、唄った歌である。また、酒宴の興にのって、中村歌右衛門もどきのこわ色をはりあげて、
「ここらあたりは山家故、紅葉のあるのに雪が降る」
という、いまでこそ知る人もすくないが、ラジオもテレビもない明治から大正の、なつかしくも忘れがたい「初花」のせりふである。
「いざり勝五郎」――歌舞伎名題「箱根霊験躄(いざり)仇討」という芝居は、寄居大久保にも深い関係があって、わが里には、ことさらに近しく親しく迎えられたのである。
奥州街道はこのあたりさびしい山道である。暮れかかる崖下の道辺に旅の男がしゃがみこみ、女がおろおろとしていた。
山仕事を終えて帰る人が、これを助けて寄居の里へ連れてきてやり、庄屋徳右衛門に事情を話してあずけた(『芦野小誌』には大島四朗平とある)。
飯沼勝五郎その妻初花といい、兄の仇を求めて旅をつづけ、棚倉から豆沢を経て来たのだ。箱根権現に願かけて、どうしても仇討をとげたいのだといったが、駆落者ではないかとも思われる――徳右衛門は、しかしせんさくはしなかった。
勝五郎は、足腰が立たなかった。これでは江戸を過ぎてもまだはるかな箱根にはとうてい行けないだろう。徳右衛門は、大久保の先のところに小屋を建てて二人を住まわせてやることにした。ここなら街道往来の旅人が見える。もしかしたらその仇が通るかもしれないと、二人ににも話した。二人は鍋かまを借りて、ここに住んだ。たべ物は少しずつだが、山働きの里人たちがとどけてくれた。
崖のすみから、きれいな清水がわいて流れていた。
初花は勝五郎の回復を日夜、神仏に祈った、が――思うようではなかった。
足腰が立たない勝五郎は、初花が、御礼かたがた徳右衛門方へ仕事の手伝いに行っている間、たまに通る旅人の中に仇を求めながら日を過ごした。手もち無沙汰になると、すわった岩に小柄で無心に瓢を刻んだ。大小さまざまの瓢が、道の面や崖の岩肌に紋様のように彫られた。
わき出る清水で洗う初花の顔はきれいで美しかった。
往来の旅人からは仇は見つからなかった。
勝五郎、初花は、ここを旅立つことにした。
徳右衛門も、それがよかろうと、勝五郎のために箱車を作ってくれ、小金もわずかだが初花にくれた。「わしは四朗兵衛の下司下郎。よなべに作ったこのわらじ。足が立ったらはかしゃんせ(義太夫の語り)」と、大島四朗兵衛は、わらじを勝五郎に贈った。
二人は深く礼を述べ、本懐成就を誓った。
勝五郎をのせて初花が引く車が、やがて一里塚のかげに消えた。
註○「箱根霊験躄仇討」については、『歌舞伎辞典』(434ページを参照されたい)。
○いざり勝五郎・初花についての点描的言い伝えは、寄居・山中・木戸でも聞いたが、話の中で一つしかないものが、どこにもあったりして混乱する(たとえばお礼においていった刀が、山中にも木戸にもあった)。
○初花清水の石標は昭和三年、芦野青年団が建てたが、私が見たときは倒れて田のあぜのところに頭を埋めていた。(現在は清水の傍に建っていた)
○瓢石は、現在拡幅された道路ぞいの崖に、だれが刻んだかただ一つある。詩心豊かな人の作であろう。この瓢石はおそらく三代目なのか。すっと前にはあたり一面、道路まで大小さまざまの瓢が彫られていたのだという。
そこから旧道を望む。右手は崖。
田んぼの向こうには国道294号線。
振り返って望む。中央に「初花清水」。
路傍の石塔群。
(11:51)右手の路地を行くと、石切場があります。
芦野石
那須町芦野地区の国道294号線に沿った約10キロの地域では「芦野石」という安山岩が産出されます。
準硬石なので加工しやすく、石塔、墓地外柵、倉庫、石垣、石塀、門柱など、様々な用途に用いられてきました。
現在では、建築、公園、広場等の公共物にも使われています。
■芦野石の成り立ち
今から130~90万年前「更新世」前期。現在の福島県天栄村の羽鳥湖の近くで大噴火が起こりました。この爆発に伴う火山灰や軽石が大量に降ったあと、大火砕流が現在の白河市やこの芦野地域を覆ったようです。その結果、こんにちの「芦野石」となる地層が出来上がった、と研究者たちは考えているようです。
この芦野火砕流は、降下火砕物の上に厚さ10m以上の「溶結凝灰岩」として重なっているのだそうです。
国道294号線(旧奥州街道)を那須町芦野から、福島県白河市方面に向かうと、国道沿いに何ヶ所か、この「芦野石」の採石場を目にすることが出来ます。
■赤目白目
芦野石には「赤目」と「白目」の2種類があります。普通那須で見かけるのは白目(灰白色)です。
同種の石でも福島県白河地方産を白河石。栃木県那須町産を芦野石と呼びます。白河産は赤目のものが多いそうです。
■芦野石細工
加工しやすい準硬石という性質を利用して、芦野石はさまざまな石加工品として利用されてきました。
その中でも「道祖神」や「地蔵さん」など含む民俗的な立体造形を「芦野石細工」と呼んでいます。
■栃木県伝統工芸品
芦野石細工は栃木県から「伝統工芸」としての指定を受けています。
■芦野石を使った美術館
那須町芦野には特産の芦野石をふんだんに使った美術館があります。「Stone Plaza」。建築家隈研吾氏が設計、2001年、国際石材建築大賞を受賞。
(以上、「道の駅 那須高原友愛の森工芸館 那須町工芸振興会」公設ページより。)
「山石神」。
再び国道に合流します。
左手に廃道のようになった道路があります。この道が旧道?
目の先に「泉田の一里塚」。
(12:03)駐車場の片隅にあり、左の塚(白河に向かって)が現存しています。
那須町史跡 泉田の一里塚
旧陸羽街道沿いの本町内に一里塚が三ヶ所あり(夫婦石、板屋、泉田)その最北端に当るのがこの一里塚である。
一里塚は、始め徳川家康が天下に命じて築かせたが完成したのは慶長9年(1604)徳川ニ代将軍秀忠の時で、36町を1里として道の両側に塚を築きその上に榎を植えさせ旅人に距離の目安とした。
那須町教育委員会
「泉田の一里塚」を振り返って望む。
(12:09)しばらく進むと、旧道は右に入って行きます。
右手に道標「関東ふれあいの道」。その脇に「白河の関」という案内板。ここにあったとは思えませんが。
「瓢石 勝五郎旧跡 初花清水従是二丁」。
(11:47)しばらく進むと、左手の田んぼの傍らに「初花清水」の石碑と解説板。
初花清水と瓢石 寄居
♪いざり勝五郎 車にのせて
引くよ初花 箱根山
これは那須町近在の田植え歌であり、盆唄であり、追分でもあり、誰もが知っていて、唄った歌である。また、酒宴の興にのって、中村歌右衛門もどきのこわ色をはりあげて、
「ここらあたりは山家故、紅葉のあるのに雪が降る」
という、いまでこそ知る人もすくないが、ラジオもテレビもない明治から大正の、なつかしくも忘れがたい「初花」のせりふである。
「いざり勝五郎」――歌舞伎名題「箱根霊験躄(いざり)仇討」という芝居は、寄居大久保にも深い関係があって、わが里には、ことさらに近しく親しく迎えられたのである。
奥州街道はこのあたりさびしい山道である。暮れかかる崖下の道辺に旅の男がしゃがみこみ、女がおろおろとしていた。
山仕事を終えて帰る人が、これを助けて寄居の里へ連れてきてやり、庄屋徳右衛門に事情を話してあずけた(『芦野小誌』には大島四朗平とある)。
飯沼勝五郎その妻初花といい、兄の仇を求めて旅をつづけ、棚倉から豆沢を経て来たのだ。箱根権現に願かけて、どうしても仇討をとげたいのだといったが、駆落者ではないかとも思われる――徳右衛門は、しかしせんさくはしなかった。
勝五郎は、足腰が立たなかった。これでは江戸を過ぎてもまだはるかな箱根にはとうてい行けないだろう。徳右衛門は、大久保の先のところに小屋を建てて二人を住まわせてやることにした。ここなら街道往来の旅人が見える。もしかしたらその仇が通るかもしれないと、二人ににも話した。二人は鍋かまを借りて、ここに住んだ。たべ物は少しずつだが、山働きの里人たちがとどけてくれた。
崖のすみから、きれいな清水がわいて流れていた。
初花は勝五郎の回復を日夜、神仏に祈った、が――思うようではなかった。
足腰が立たない勝五郎は、初花が、御礼かたがた徳右衛門方へ仕事の手伝いに行っている間、たまに通る旅人の中に仇を求めながら日を過ごした。手もち無沙汰になると、すわった岩に小柄で無心に瓢を刻んだ。大小さまざまの瓢が、道の面や崖の岩肌に紋様のように彫られた。
わき出る清水で洗う初花の顔はきれいで美しかった。
往来の旅人からは仇は見つからなかった。
勝五郎、初花は、ここを旅立つことにした。
徳右衛門も、それがよかろうと、勝五郎のために箱車を作ってくれ、小金もわずかだが初花にくれた。「わしは四朗兵衛の下司下郎。よなべに作ったこのわらじ。足が立ったらはかしゃんせ(義太夫の語り)」と、大島四朗兵衛は、わらじを勝五郎に贈った。
二人は深く礼を述べ、本懐成就を誓った。
勝五郎をのせて初花が引く車が、やがて一里塚のかげに消えた。
註○「箱根霊験躄仇討」については、『歌舞伎辞典』(434ページを参照されたい)。
○いざり勝五郎・初花についての点描的言い伝えは、寄居・山中・木戸でも聞いたが、話の中で一つしかないものが、どこにもあったりして混乱する(たとえばお礼においていった刀が、山中にも木戸にもあった)。
○初花清水の石標は昭和三年、芦野青年団が建てたが、私が見たときは倒れて田のあぜのところに頭を埋めていた。(現在は清水の傍に建っていた)
○瓢石は、現在拡幅された道路ぞいの崖に、だれが刻んだかただ一つある。詩心豊かな人の作であろう。この瓢石はおそらく三代目なのか。すっと前にはあたり一面、道路まで大小さまざまの瓢が彫られていたのだという。
そこから旧道を望む。右手は崖。
田んぼの向こうには国道294号線。
振り返って望む。中央に「初花清水」。
路傍の石塔群。
(11:51)右手の路地を行くと、石切場があります。
芦野石
那須町芦野地区の国道294号線に沿った約10キロの地域では「芦野石」という安山岩が産出されます。
準硬石なので加工しやすく、石塔、墓地外柵、倉庫、石垣、石塀、門柱など、様々な用途に用いられてきました。
現在では、建築、公園、広場等の公共物にも使われています。
■芦野石の成り立ち
今から130~90万年前「更新世」前期。現在の福島県天栄村の羽鳥湖の近くで大噴火が起こりました。この爆発に伴う火山灰や軽石が大量に降ったあと、大火砕流が現在の白河市やこの芦野地域を覆ったようです。その結果、こんにちの「芦野石」となる地層が出来上がった、と研究者たちは考えているようです。
この芦野火砕流は、降下火砕物の上に厚さ10m以上の「溶結凝灰岩」として重なっているのだそうです。
国道294号線(旧奥州街道)を那須町芦野から、福島県白河市方面に向かうと、国道沿いに何ヶ所か、この「芦野石」の採石場を目にすることが出来ます。
■赤目白目
芦野石には「赤目」と「白目」の2種類があります。普通那須で見かけるのは白目(灰白色)です。
同種の石でも福島県白河地方産を白河石。栃木県那須町産を芦野石と呼びます。白河産は赤目のものが多いそうです。
■芦野石細工
加工しやすい準硬石という性質を利用して、芦野石はさまざまな石加工品として利用されてきました。
その中でも「道祖神」や「地蔵さん」など含む民俗的な立体造形を「芦野石細工」と呼んでいます。
■栃木県伝統工芸品
芦野石細工は栃木県から「伝統工芸」としての指定を受けています。
■芦野石を使った美術館
那須町芦野には特産の芦野石をふんだんに使った美術館があります。「Stone Plaza」。建築家隈研吾氏が設計、2001年、国際石材建築大賞を受賞。
(以上、「道の駅 那須高原友愛の森工芸館 那須町工芸振興会」公設ページより。)
「山石神」。
再び国道に合流します。
左手に廃道のようになった道路があります。この道が旧道?
目の先に「泉田の一里塚」。
(12:03)駐車場の片隅にあり、左の塚(白河に向かって)が現存しています。
那須町史跡 泉田の一里塚
旧陸羽街道沿いの本町内に一里塚が三ヶ所あり(夫婦石、板屋、泉田)その最北端に当るのがこの一里塚である。
一里塚は、始め徳川家康が天下に命じて築かせたが完成したのは慶長9年(1604)徳川ニ代将軍秀忠の時で、36町を1里として道の両側に塚を築きその上に榎を植えさせ旅人に距離の目安とした。
那須町教育委員会
「泉田の一里塚」を振り返って望む。
(12:09)しばらく進むと、旧道は右に入って行きます。
右手に道標「関東ふれあいの道」。その脇に「白河の関」という案内板。ここにあったとは思えませんが。