槙の垣根。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。
畑地が広がる。
外房線を望む。
線路沿い、藪の中の廃墟。
保存木「タブノキ」。
「大木戸新田」交差点。
この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?
※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。
コスモス。
この付近には旧線路跡があるようです。
右手には住宅地が広がります。
緩やかな坂道を下り、左折します。
上り坂を土気駅へ向かう。
地下道を抜けて駅の反対側に。
土気駅ホーム。
駅舎下のベンチで休憩。
「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?
土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線の駅である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。
駅名は周辺の地名に由来する。土気の読みの由来は、大網からの長い峠を取って「とけ」となったという説もあるが、真偽は定かではない。周辺は南関東ガス田と呼ばれる水溶性ガス田の範囲内であり、古来天然ガスが湧出する気配を示す土地は「土気」と呼ばれ、これが地名由来と考えられている。(この項、「Wikipedia」より)
一方で、「土気高校周辺の歴史散歩 齊藤汀魚」HPによると、
土気高校のある千葉市緑区の旧土気町の歴史散歩をしていきましょう。参考書は、千葉県の高校で歴史を担当している、または担当した先生方が、千葉県各地を実際に歩いて調べた史跡が紹介されている『千葉県の歴史散歩』(千葉県高等学校教育研究会歴史部会編、山川出版社発行、2014年。)や『千葉歴史散歩 50コース』(千葉歴史散歩編集委員会編、草土文化発行、1982年。)などです。
その土地の歴史はその土地の風土すなわち地形や気候が大きく影響します。土気も例外でありません。千葉城郭研究会員の遠山成一氏は「再発見ふるさとの城 房総の城跡めぐり 土気城跡」(千葉日報)で土気の地理環境を次のように説明されています。
「土気は、房総半島のほぼ中央に位置し、一説には地名の語源が「とうげ」にある、という分水界の地である。土気を源として東京湾へ村田川が、印旛沼へ鹿島川が、太平洋へ小中川(南白亀川なばきがわ)がそれぞれ注ぐ。つまり水系的にこれら三方に開かれた要地といえよう。そして、城跡の北・東・南方面は、比高差80メートルもある急斜面が巡り、西方面のみ台地続きである。城跡の東部や南部からは、九十九里平野がパノラマ状に展望できる。」。さらに土気の位置は北の北総台地と南の上総丘陵をつなぐ所でもあり、房総半島の腰にあたります。また、太平洋と東京湾との距離が短いのも地理的特徴です。・・・
土気と言えば土気城と言われるくらい有名な戦国大名酒井定隆(さかいさだたか)が住んでいたお城の跡を見学してみましょう。
お城というと私達は、織田信長・豊臣秀吉の安土城・大阪城(安土桃山時代)、徳川家康・家光の江戸時代に建てられた天守閣がそびえて立派な石垣のあるお城、例えば熊本城・松本城・江戸城(現在の皇居)を思い浮かべてしまいますが、そうではありません。
室町時代の応仁の乱(1462)後、幕を開けた戦国時代は、実力のある武士がどんどん領地を拡大していく「食うか食われるか」すなわち下剋上の世の中。平たい土地にお城、当時は大きな館(陣地)を造るわけには行きません。敵が攻めにくい山の中や切り立った崖の上にそのお城(山城)を造りました。その点、周りより高いこの土気の地(標高約90メートル)は、敵の侵入を防ぐのにもってこいの場所でした。千葉県内に大小あわせて数百と言われる山城のうち、この土気城は規模も大きく戦国末期の山城として有名です。
JR外房線土気駅から大網方面へ行ったバス停善勝寺からほど近い台地に土気城址があります。標高90メートルを超す台地の先端に位置して、東側は平地との差40~50メートルの急な斜面となっています。そもそもこの山城は、はるか昔の奈良時代、陸奥(むつ)鎮守府(ちんじゅふ)将軍大野東人(おおののあずまんど)が、蝦夷(えみし)征討の軍事拠点として築いた砦(とりで)「貴船城(きふねじょう)」が始まりとされます。現在も土塁の上に貴船神社がまつられています。
その後数百年の後の戦国時代初期、古河公方(こがくぼう)足利茂氏(しげうじ、1434~97)に仕えていた酒井定隆(さかいさだたか)が、1488(長享2)年に城を修築して入城し、以後土気酒井氏の本拠地となりました。定隆はのち次男を連れて東金に隠居したので長男の定治が土気城を継いだといいます。酒井氏一族は、土気・東金の二つの城を拠点にこの地域を支配しました。
戦国末期の1575(天正3)年、小田原に本拠地を持つ北条氏政(うじまさ、1538~90)の支配下に入ったため、1590(天正18)年の豊臣秀吉の小田原攻めにより北条氏と共に滅亡しました。
現在、土塁や空堀(からぼり)・郭(くるわ)がよく残っています。この遺構は、その大規模な様子から秀吉軍の攻撃に備えて再修築されたものと考えられています。晩秋の一日、空堀や崖下の路を通りますと一気に戦国末期の世界に取り囲まれます。・・・
とありました。
土気の今昔。
(「今昔マップ」より)
土気の中心地があつては台地上にありました。今は、駅の南西側が住宅地として発展しています。