右肩が思うように上がらない、使えない年末になるとは思いもよりませんでした。
が、12月28日(土)。快晴。久々に街道歩きを再開。
初日は、足馴らしで虎ノ門駅か五反田駅まで。
今回からは、「中原街道」。
江戸虎ノ門を起点として三田・馬込を通り、丸子で多摩川を渡り、佐江戸・瀬谷・用田を経て、さらに相模川を越え、平塚の中原で東海道につながるこの道は、「相州街道」「お酢街道」「江戸間道」などと呼ばれていた。ずっと後、小杉あたりでは下肥を積んだ荷車が頻繁に往来したので「こやし街道」などともよばれていました。
徳川家康が江戸に入った1590(天正18年)には、まだ東海道は整備されておらず、家康は平塚からほぼ直線で江戸に向かうこの道を通ったのです。二代将軍秀忠が中原御殿と同じように小杉に御殿を建てたのは1608年(慶長13年)。家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍が鷹狩りなどの際、この御殿で休息し、さらに街道を通る西国の大名なども利用していたようです。
やがて東海道が整備されると、大名行列などの多くがそちらを通るようになり、中原街道は脇往還となり、以前の賑わいを失いました。しかし、その後も沿線の物資や農産物の輸送などに欠かせない重要な道として、人々の生活に深い関わりを持ち続けてきました。
(この項「」HPより)
起点の「虎ノ門」へ。
「虎ノ門」交差点。左の建物は、「文科省」。
この付近の今昔
(現在)びっしり沿道には高層ビル。東南に愛宕山。 (1880年代)虎ノ門は、外濠(城内外の境目)に当たる。
歩き始めましたが、ビルの谷間を歩くことに。こういう高層ビル街を歩くことはないので、首が痛くなります。右腕も・・・
「金比羅宮」。丸亀藩主が四国讃岐の金比羅様を藩邸内に勧請した。
南方向を望む。高層ビル街。
西方向(溜池)を望む。周辺は、新しい地下鉄駅県設のため、工事中。
愛宕山方向。
ビルの窓ガラスが乱反射したような写真に。
「かしんとゆだんが事故を生む そのいっしゅんが大事だよ・・・」
我が大けがを暗示するかのような標語に一礼。
ということで、「五反田駅」まで歩くことに。この続きは、年明けに。
皆さん、良いお年を。(「北十間川・福神橋」より)
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