栗東(りっとう)市内に入っていきます。
その手前のおうちの軒先には大石を運搬する荷車?
「栗東市 生涯学習都市のまち 伊勢落」との標識。向こうに「三上山」。
「飛び出し坊や」がお出迎え。
「栗太八景 伊勢落晴嵐」碑。
梅痩せて柳疎らにて柴扉(さいひ)鎖す 簷外(「えんがい)は半ば晴れ野草肥ゆ
山色の末分の雲気は晴れ 一声鳥啼き霧破って飛ぶ
寛延三年十二月 素月作 恵津子書
中国文化への憧憬のもと、中国の瀟湘八景をふまえて、全国各地でその土地の八景を詠むことが流行しました。そのうちで最もよく知られているのが近江八景です。
また近江八景が広く知られるようになるにつれ、江戸時代以降、全国各地でご当地の八景が選定されるようになりました。栗東周辺でも、栗太郡を範囲とする栗太八景が、寛延3年(1750)ころに、大橋(現栗東市大橋)慶崇寺の僧致遠(ちおん)によって選定されています。
(HPより)
注:栗太八景
「蓮台寺晩鐘」「赤坂帰樵」「上野夜雨」「金山暮雪」「伊勢落晴嵐」「松島秋月」「手原行人」「砥山夕照」
この詩碑もその一つで、個人宅の敷地内に建てられたそうです。
二人の「飛び出し」坊やが行く手に。
玄関先には黒いマントを羽織った「飛び出し」坊や。
「東海道」「中山道」。いいよいよ「中山道」も登場。
「新善光寺道」との道標。
この後も出てきます。
「東海道林村 人力車 人力屋」。
道幅はかつてのままのよう。
「上野夜雨(かみののやう)」碑。(林村)
「従是東膳所(ぜぜ)領」榜示石。
右手角に「新善光寺道」道標。
ここにきて、紅殻(べんがら)塗りのおうちが目立ちます。
東海道六地蔵村麹屋 糀屋太郎兵衛
振り返って望む。大きく左折しています。
左手前方に大きく立派な建物が飛び込んできます。「和中散本舗」。旅人を圧倒する迫力。
「国指定名勝 大角氏庭園」(平成13年1月29日指定)。
書院の南庭(離れ家の西庭)である。正面に芝生張りの大小の築山を配し、背後にツバキ、カエデ、ヒサカキ、カナメモチ、アオキ、マキ、ネズミモチ等の混植の生垣を仕立て外部との仕切りとしている。背後の日向山を借景とし、築山上からは三上山が眺望できる。築山の西部に滝石組があり、山裾の東西に細長い池に注ぐ。水は、葉山川から取水していた。池の護岸は石組でめぐらし、池中には中島と平天の浮石があり、東部には切石橋を設け、築山へ渡れるようになっている。ただし、中島は明治の後設とされる。建物に沿って大小の飛石を打ち、沓脱石から池畔や石橋へとたどることができる。
【備考】
国指定史跡 旧和中散本舗 昭和24年7月13日指定
重要文化財 大角家住宅 昭和29年3月20日指定
平成16年3月 滋賀県教育委員会
東海道・中山道に挟まれた交通の要衝 栗東
昔から、交通の要所として栄えてきた栗東は、江戸時代に入り、整備された東海道・中山道に挟まれた交通の要衝として、一段と賑やかになりました。
近江地方における東海道は、伊勢参宮道としての要素を兼ね備え、「伊勢道」とも言われていました。
東海道の石部宿(湖南市)と草津宿(草津市)の約中間点に、「梅ノ木立場(うめのきたてば)」(現在の栗東市六地蔵あたり)がありました。立場とは、幕府公用の馬や駕籠などを止めて休息する所で、ちょうど宿場と宿場の中間地点に設置される事が多かったようです。
また、旅人の休憩等に利用された「間の宿」でもあり、旅人に薬を売るため、梅ノ木に和中散屋が生まれました。
和中散とは、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の道中薬として重宝され、その始まりは元和元年(1615)、本家是斎家(大角家)が、京都の名医半井ト養(なからいぼくよう)の娘をめとって、和中散や小児薬の奇妙丸の製法を伝授され、大きな梅樹の木蔭で旅人に売るようになったと伝えられています。
また、慶長16年(1611)、徳川家康が野洲郡永原陣屋で腹痛を起こした時、典医が和中散を勧めたところ、たちまち快癒したとあります。
和中散を商う薬屋は最も多い時には7,8軒あり、宝永年間(1704~1711)には、すでに東海道名物として全国的に有名になっていたようで、「是斎(ぜさい)」・「如斎(じょさい)」・「定斎(じょうさい)」・「是済(ぜさい)」などの屋号を名乗り、互いに競い合っていました。
和中散屋を営むかたわら、小休屋も兼ねていた大角弥右衛門家には多くの大名が休憩に立ち寄っていたようです。
小休屋として賑わっていた大角家(おおすみけ)に、安永2年5月4日、雲洲様と言われていた松江藩(島根県)の藩主松平治郷が、参勤交代の途中、旅程が1日延びたために、草津宿・石部宿に宿泊できなくなり、急遽大角家に宿泊の依頼があり、村人総出で対応したと記録が残っています。
文政9年(1826)、ドイツの医学者でオランダ商館の医員として長崎に来ていたシーポルトは、江戸へ向う途中、大角家に立ち寄り、当主弥右衛門との話がはずみ、薬を参考資料として貰い受け、周囲の植物を収集して、長崎の出島に送ったとされています。
・・・
(以上、HPより)
「和中散」については、旧東海道の大田区美原通り商店街(「間の宿・大森」にもあったこと以前紹介したことがあります。
「和中散」。
《大森の和中散》
江戸時代、東海道の大森宿付近には『食あたり、暑気あたり』に効く漢方薬『和中散』を売る店が三軒あったという。上記の絵は『江戸名所図絵』(斉藤月岑編 天保年間)に描かれた店の風景である。
絵の屋号『梅木堂』店は、三軒の中でも一番の大店であろう。大森村南原にあった。もともと「和中散」は近江・栗太郡地蔵村(現在の滋賀県栗東市六地蔵)の梅木が発祥の地である、東海道草津宿に近いことから、『梅木の和中散』として知られていた。創業は慶長年間と言われている。また大角家が創始であると言われるなど諸説がある。
(『馬込と大田区の歴史を保存する会』HPより)
ここで、その本家・本元に出会ったわけです。
「本家ぜさい」とあります。「是斎(ぜさい)」。
これも古い建物。
ここに車を駐めて、若い女性が木戸口を開けて中に入っていきました。今も現役の建物なんですね。
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