ちょっと寄り道をして「千本松原」へ。残念ながら富士山は見えず。この日は、富士山を見ながらの旅のつもりだったが、富士山は裾野を見せるだけ。天気はまあまあだが、強い西風に抗する歩き。
《13 原》(2014.12.20~投稿)
東海道線の「原踏切」を渡ると、「原宿」にさしかかる。
そこから旧「原宿」内を望む。
「朝之富士」(「Wikipedia」より)。
最も富士山が美しく見える所が「原」。富士山の美しさ、大きさが強調されており、画面の枠を飛び出している。
JR「原」駅。
現在の「原宿」はJR線に沿った細長い道筋の町となっていて、駅舎も昔風の町家のデザイン。
左手に蔵造りの建物。「高嶋酒造」。
旧道をしばらく進むと、急に道幅が広くなる。松並木がすっかりなくなって、道幅が広くなった、とか。
線路を渡ると、富士市に。
この付近の海岸は、「田子の浦」。左手には松並木が見え、松を揺らす激しい風の音も聞こえてくる。
一年中、海風が激しいせいか、皆、傾いている。
防潮堤の上に出てみたが、激しい風にあおられ、立っているのも危ないくらい。空は見事に澄み渡っている。
沼津方向。 田子の浦港方向。
旧東海道に戻って西へ進み、「檜新田」の交差点で、左に折れて県道170号線をそのままたどっていく。
「(元)吉原宿」の入口。
《14 吉原》(2014.12.22~投稿)
「東海道線」の踏切を渡り、「吉原」駅を過ぎ、道なりに左に曲がって行く。正面には、雲が無ければ白雪の富士山の姿が。
大通りに合流し、国道1号線と新幹線の高架下にある「依田橋西交差点」を右奥の方に曲がると、いよいよ「左富士」の地へ。「左富士神社」付近に「依田橋一里塚」(日本橋から34番目)があったという。
道路を渡った正面が「名勝 左富士」。残念ながら富士山は見えず。
見えれば、左奥に富士山。
(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)
しばらく進み、二叉に分かれた道を左手に。「平家越え橋」の手前、右手に「平家越」の碑。
治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。その夜半、源氏の軍勢が動くと、遠くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ちました。平家軍は、源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西へ逃げ去りました。
源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、「平家越」と呼ばれています。
そのようすを描いたレリーフが右側に刻まれてある。
しばらく進むと、「吉原」宿に入る。岳南電車「吉原本町」駅前の案内板。
富士市内の東海道案内図。
「吉原宿」は本陣二軒、脇本陣四軒、さらに百軒を超す旅籠屋をかかえ、東海道有数の宿場町として栄えてきた。
アーケード街。「貸店舗」の張り紙も目立つ。
その先の左手には、「鯛屋旅館」。
しばらく進むと、「西木戸跡」。
「小潤井川」を越えると、次の宿場(15番目「蒲原」)までの長い道中となる。
《15 蒲原》(2015.01.06~投稿)
さて、この後、さほど日も経たないうちに、富士宮で法事があり、その帰り道、富士市内の総合庁舎(最終地点)まで回り道してきた。
「塔の木交差点」付近からの富士山。
しばらく進み、「鶴芝の碑」付近からの富士山。
商店街を抜け、しばらく進むと、再び県道396号線(旧国道1号線)に合流して西へ。その先でJR身延線「柚木」駅に着く。
旧道をしばらく歩き、富士川の河川敷を囲む「雁堤」を正面奥に見てから左に曲がり、またさっきの県道に戻って右に行くと、いよいよ「富士川」。「富士川橋」の手前、右手に「水神社」の森。
左が「富士川渡船場跡」碑。右が「富士山道」碑。
「富士川橋」を渡って、岩淵に入る。芭蕉の『野ざらし紀行』中で、芭蕉が捨て子と遭遇する場面がある。
・・・猿を聞く人捨子に秋の風いかに (猿の声に悲愁を聞く詩人たちは、この秋風の中に捨てられた子にどのように詠むことであろうか。)
いかにぞや、汝父に悪(にく)まれたるか、母に疎(うと)まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯、これ天(命)にして、汝が性の拙きを泣け。・・・
富士川は天下の急流。李白に、猿聲を聞きながら一気に急流を下るという詩がある。富士川付近に野生の猿がいたかどうか定かではないが、こうした古典的背景もあるような気がして、創作的要素がないともいえない。
「富士川」。すばらしく晴れ渡り、富士山の雄姿が裾野から頂上まで一望できる。
さて、橋を渡り終えたら、道路を横断して右に少し進み、すぐ左の小道(坂道)を上って行く。
「小休本陣常盤邸」。
正門の柱には、「西條蒋小休」と休憩している公家の名が掲げられている。
振り返ると正面奥に富士山。昔ながらの街道筋らしい雰囲気を味わえる。
日本橋から37里目の一里塚、「岩淵一里塚」。
西側の塚。 東側の塚。
東名の下をくぐり、東名に沿った道を行く。分岐点を左に進んで、新幹線のガードをくぐる。「東名」上の橋を越えると、静岡市。直線の坂道を一気に駿河湾目指して下って行く。周囲は住宅街。
桝型から東を望む。
ここまでは、「蒲原1丁目」。この先から「蒲原2丁目」となり、厳密に宿場の内側となる。平日の午後ということもあるせいか、人の姿がほとんど見えず、車も通らない。
商家の面影を残す「塗り家造り」。
行く先の右手には旅籠跡の「和泉屋」。
「蒲原宿」の核心部。小川に沿って左手を入ると、大きな「蒲原夜之雪」記念碑。
手作りガラスと総欅の家(磯部家)。
大正時代の洋館「旧五十嵐歯科医院」。
蔀戸のある志田家
他にも見所がたくさんあり、旧道・宿場歩きを楽しめる。
西木戸・茄子屋の辻。
《16 由比》(2015.01.11~投稿) ※「薩埵峠」は、2015.01.17再掲。
道沿いには格子戸の美しいおうち。
清水銀行の手前、右手に「鮮魚の秋田屋」。
「イルカスマシ」。商品棚に1袋1000円で売っていた。
しばらく進むと、JR蒲原駅前。さらに「東名高速」の下をくぐって、旧東海道は、右に向かう旧国道1号線(県道396号線)と分かれてそのまま直進、「由比」の町に入る。
由比宿の東木戸。
由比宿東桝型跡。
ここからが「由比宿」の核心部。直線の街道沿いに旧本陣などが並んでいる。「由比」宿は、「蒲原」よりもこじんまりとしているが、かつての街道筋の面影をよく残している。
「由比本陣公園 東海道広重美術館」。
ここは、10月末にじっくり見学。薩埵峠もついでに廻ってきた。風もなく、よく晴れ渡って絶好の一日だった。
その本陣の向かいにあるのが、由比正雪の生家と言われている「正雪紺屋」。
「脇本陣温飩屋(うんどんや)」。
しばらく行くと、宿場の西のはずれ。
JR「由比」駅前を過ぎ、旧道を行くと、当時のままの道幅、所々に格子戸、蔀戸の古い家をみることができる。
「小池邸」。
「薩埵峠」への上り坂の左手前にあるのが、「山岡鉄舟ゆかりの家 望嶽亭 藤屋」。
「薩埵峠」。この日は、あいにく富士山には雲がかかって見えず。後日再訪した。以下はそのときの写真。
薩埵峠駐車場からの眺め。
展望台からの眺め。
海岸沿いは、左からJR東海道線、国道1号線、東名高速。
青々と輝く駿河湾。目の前は、伊豆半島。
遠くに見えるのは、「愛鷹山」。その右奥に小さく見えるのが、「箱根連山」。
「清見潟」から「三保の松原」方向。
興津側への下り口。
ワシントン・ポトマック河畔の桜と同じ「薄寒桜」の木が植えられている。
《17 興津》(2015.01.15~投稿)
一直線の旧東海道・興津宿。
「沖津宿東本陣」跡。 「沖津宿西本陣」跡。
「沖津宿脇本陣水口屋跡・一碧楼水口屋跡」。
右側の駐車場にある朽ちる寸前のような標柱。
左は「榜示杭」跡、右には「清見関跡」とある。つい見逃してしまいそうな標識だが、その代わり、街道沿いにりっぱな解説板。
「清見寺」。
徳川家康の幼年時代に教育を受けた「手習いの間」があり、家康公が接木したと言われる「臥龍梅」、宋版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの文化財があり、境内全域が朝鮮通信史関係史跡に指定されている。朝鮮通信使、琉球使節が訪れ、寺内に朝鮮通信使の扁額が残っており、異文化の窓口でもあった。
さて、旧道の左に入ると、清見潟公園。万葉の時代から風光明媚なところだった。
「万葉歌碑」。
万葉集巻三
和銅元年(708)三月 従五位上 田口益人大夫、上野の国司に任ぜられける時に、駿河の清見の崎に至りて作る歌
廬原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の 寛(ゆた)けき見つつ もの念(おも)ひもなし
現在、この辺りは倉庫群が建ち並び、浜辺を見ることは出来ない。
その奥には、正岡子規の句碑。月の秋 興津の借家 尋ねけり
旧道に戻ると、左手には西園寺公望の別荘、「坐漁荘」。
坐漁荘庭園より三保の松原を臨む(昭和20年代)。 現在の景観。建物越しにかすかに見えるのみ。
その先、「波多打川」沿いに進み、左手に折れて、旧道に入る。JR東海道線「横砂踏切」を渡り、再び1号線と合流。
辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年、松根油採取のため伐採された。
しばらく進むと、
「辻一里塚」跡。日本橋から42里目。
《18 江尻》(2015.01.22~投稿)
「一里塚」からすぐの交差点の右側に「江尻宿」東木戸跡。ここから、「江尻宿」。ほぼまっすぐな道筋。落ち着いた町並み。国道を渡り、正面にJRの鉄橋が見えてきたら、右折する。
この付近が宿場の中心地だった。
クジラのモニュメント。
清水港はマグロなどの遠洋漁業の基地。クジラとも無縁ではない。かつて、清水港は、遠洋でのクジラ漁やイルカ漁などの基地でもあった。
「江尻宿」(現:清水)は、人馬や物資の移動を管理する問屋場を中心に、大名の宿泊する本陣3軒、それに準ずる脇本陣3軒と一般の旅籠屋が50軒程たち並び、人びとの往来で栄えていた。
「巴川」に架かる「稚児橋」
「稚児橋」。 河童のモニュメント。
橋を渡って二つ目の信号のある三叉路を右に行くと、「江尻宿木戸跡」。ここが宿場の「西木戸」に当たる。
その場所から宿内を望む。
「追分羊羹」のお店。
「追分羊羹」といえば、「ちびまる子」ちゃんの地元。お店の裏手にある小学校「入江小学校(現在は「清水入江小学校」)」が舞台。アニメでは清水名物としてたびたび登場するお店。
お店からすぐ先のところに、清水の次郎長に討たれた侠客・都田(通称都鳥)吉兵衛の供養等がある。
清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)
幕末・明治の侠客。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。 幕末、明治維新にわたり、東海はもとより、その暴れん坊ぶりは全国にその名を轟かせた大親分。大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。
広沢虎造の浪曲をはじめ、数々の時代劇、映画などによりその武勇伝も、今日まで多くの人に親しまれている。特に咸臨丸の件や山岡鉄舟との逸話は有名。
次郎長の生家は清水港近く。「次郎長通り」と名付けられた商店街にある。次郎長の写真や使った道具類、資料などを展示。居間も当時のまま保存されている、らしい。
しばらく進むと、「金谷橋」。昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道「志ミづ道」の分岐点であることから「追分」と呼ばれていた。
《13 原》(2014.12.20~投稿)
東海道線の「原踏切」を渡ると、「原宿」にさしかかる。
そこから旧「原宿」内を望む。
「朝之富士」(「Wikipedia」より)。
最も富士山が美しく見える所が「原」。富士山の美しさ、大きさが強調されており、画面の枠を飛び出している。
JR「原」駅。
現在の「原宿」はJR線に沿った細長い道筋の町となっていて、駅舎も昔風の町家のデザイン。
左手に蔵造りの建物。「高嶋酒造」。
旧道をしばらく進むと、急に道幅が広くなる。松並木がすっかりなくなって、道幅が広くなった、とか。
線路を渡ると、富士市に。
この付近の海岸は、「田子の浦」。左手には松並木が見え、松を揺らす激しい風の音も聞こえてくる。
一年中、海風が激しいせいか、皆、傾いている。
防潮堤の上に出てみたが、激しい風にあおられ、立っているのも危ないくらい。空は見事に澄み渡っている。
沼津方向。 田子の浦港方向。
旧東海道に戻って西へ進み、「檜新田」の交差点で、左に折れて県道170号線をそのままたどっていく。
「(元)吉原宿」の入口。
《14 吉原》(2014.12.22~投稿)
「東海道線」の踏切を渡り、「吉原」駅を過ぎ、道なりに左に曲がって行く。正面には、雲が無ければ白雪の富士山の姿が。
大通りに合流し、国道1号線と新幹線の高架下にある「依田橋西交差点」を右奥の方に曲がると、いよいよ「左富士」の地へ。「左富士神社」付近に「依田橋一里塚」(日本橋から34番目)があったという。
道路を渡った正面が「名勝 左富士」。残念ながら富士山は見えず。
見えれば、左奥に富士山。
(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)
しばらく進み、二叉に分かれた道を左手に。「平家越え橋」の手前、右手に「平家越」の碑。
治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。その夜半、源氏の軍勢が動くと、遠くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ちました。平家軍は、源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西へ逃げ去りました。
源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、「平家越」と呼ばれています。
そのようすを描いたレリーフが右側に刻まれてある。
しばらく進むと、「吉原」宿に入る。岳南電車「吉原本町」駅前の案内板。
富士市内の東海道案内図。
「吉原宿」は本陣二軒、脇本陣四軒、さらに百軒を超す旅籠屋をかかえ、東海道有数の宿場町として栄えてきた。
アーケード街。「貸店舗」の張り紙も目立つ。
その先の左手には、「鯛屋旅館」。
しばらく進むと、「西木戸跡」。
「小潤井川」を越えると、次の宿場(15番目「蒲原」)までの長い道中となる。
《15 蒲原》(2015.01.06~投稿)
さて、この後、さほど日も経たないうちに、富士宮で法事があり、その帰り道、富士市内の総合庁舎(最終地点)まで回り道してきた。
「塔の木交差点」付近からの富士山。
しばらく進み、「鶴芝の碑」付近からの富士山。
商店街を抜け、しばらく進むと、再び県道396号線(旧国道1号線)に合流して西へ。その先でJR身延線「柚木」駅に着く。
旧道をしばらく歩き、富士川の河川敷を囲む「雁堤」を正面奥に見てから左に曲がり、またさっきの県道に戻って右に行くと、いよいよ「富士川」。「富士川橋」の手前、右手に「水神社」の森。
左が「富士川渡船場跡」碑。右が「富士山道」碑。
「富士川橋」を渡って、岩淵に入る。芭蕉の『野ざらし紀行』中で、芭蕉が捨て子と遭遇する場面がある。
・・・猿を聞く人捨子に秋の風いかに (猿の声に悲愁を聞く詩人たちは、この秋風の中に捨てられた子にどのように詠むことであろうか。)
いかにぞや、汝父に悪(にく)まれたるか、母に疎(うと)まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯、これ天(命)にして、汝が性の拙きを泣け。・・・
富士川は天下の急流。李白に、猿聲を聞きながら一気に急流を下るという詩がある。富士川付近に野生の猿がいたかどうか定かではないが、こうした古典的背景もあるような気がして、創作的要素がないともいえない。
「富士川」。すばらしく晴れ渡り、富士山の雄姿が裾野から頂上まで一望できる。
さて、橋を渡り終えたら、道路を横断して右に少し進み、すぐ左の小道(坂道)を上って行く。
「小休本陣常盤邸」。
正門の柱には、「西條蒋小休」と休憩している公家の名が掲げられている。
振り返ると正面奥に富士山。昔ながらの街道筋らしい雰囲気を味わえる。
日本橋から37里目の一里塚、「岩淵一里塚」。
西側の塚。 東側の塚。
東名の下をくぐり、東名に沿った道を行く。分岐点を左に進んで、新幹線のガードをくぐる。「東名」上の橋を越えると、静岡市。直線の坂道を一気に駿河湾目指して下って行く。周囲は住宅街。
桝型から東を望む。
ここまでは、「蒲原1丁目」。この先から「蒲原2丁目」となり、厳密に宿場の内側となる。平日の午後ということもあるせいか、人の姿がほとんど見えず、車も通らない。
商家の面影を残す「塗り家造り」。
行く先の右手には旅籠跡の「和泉屋」。
「蒲原宿」の核心部。小川に沿って左手を入ると、大きな「蒲原夜之雪」記念碑。
手作りガラスと総欅の家(磯部家)。
大正時代の洋館「旧五十嵐歯科医院」。
蔀戸のある志田家
他にも見所がたくさんあり、旧道・宿場歩きを楽しめる。
西木戸・茄子屋の辻。
《16 由比》(2015.01.11~投稿) ※「薩埵峠」は、2015.01.17再掲。
道沿いには格子戸の美しいおうち。
清水銀行の手前、右手に「鮮魚の秋田屋」。
「イルカスマシ」。商品棚に1袋1000円で売っていた。
しばらく進むと、JR蒲原駅前。さらに「東名高速」の下をくぐって、旧東海道は、右に向かう旧国道1号線(県道396号線)と分かれてそのまま直進、「由比」の町に入る。
由比宿の東木戸。
由比宿東桝型跡。
ここからが「由比宿」の核心部。直線の街道沿いに旧本陣などが並んでいる。「由比」宿は、「蒲原」よりもこじんまりとしているが、かつての街道筋の面影をよく残している。
「由比本陣公園 東海道広重美術館」。
ここは、10月末にじっくり見学。薩埵峠もついでに廻ってきた。風もなく、よく晴れ渡って絶好の一日だった。
その本陣の向かいにあるのが、由比正雪の生家と言われている「正雪紺屋」。
「脇本陣温飩屋(うんどんや)」。
しばらく行くと、宿場の西のはずれ。
JR「由比」駅前を過ぎ、旧道を行くと、当時のままの道幅、所々に格子戸、蔀戸の古い家をみることができる。
「小池邸」。
「薩埵峠」への上り坂の左手前にあるのが、「山岡鉄舟ゆかりの家 望嶽亭 藤屋」。
「薩埵峠」。この日は、あいにく富士山には雲がかかって見えず。後日再訪した。以下はそのときの写真。
薩埵峠駐車場からの眺め。
展望台からの眺め。
海岸沿いは、左からJR東海道線、国道1号線、東名高速。
青々と輝く駿河湾。目の前は、伊豆半島。
遠くに見えるのは、「愛鷹山」。その右奥に小さく見えるのが、「箱根連山」。
「清見潟」から「三保の松原」方向。
興津側への下り口。
ワシントン・ポトマック河畔の桜と同じ「薄寒桜」の木が植えられている。
《17 興津》(2015.01.15~投稿)
一直線の旧東海道・興津宿。
「沖津宿東本陣」跡。 「沖津宿西本陣」跡。
「沖津宿脇本陣水口屋跡・一碧楼水口屋跡」。
右側の駐車場にある朽ちる寸前のような標柱。
左は「榜示杭」跡、右には「清見関跡」とある。つい見逃してしまいそうな標識だが、その代わり、街道沿いにりっぱな解説板。
「清見寺」。
徳川家康の幼年時代に教育を受けた「手習いの間」があり、家康公が接木したと言われる「臥龍梅」、宋版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの文化財があり、境内全域が朝鮮通信史関係史跡に指定されている。朝鮮通信使、琉球使節が訪れ、寺内に朝鮮通信使の扁額が残っており、異文化の窓口でもあった。
さて、旧道の左に入ると、清見潟公園。万葉の時代から風光明媚なところだった。
「万葉歌碑」。
万葉集巻三
和銅元年(708)三月 従五位上 田口益人大夫、上野の国司に任ぜられける時に、駿河の清見の崎に至りて作る歌
廬原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の 寛(ゆた)けき見つつ もの念(おも)ひもなし
現在、この辺りは倉庫群が建ち並び、浜辺を見ることは出来ない。
その奥には、正岡子規の句碑。月の秋 興津の借家 尋ねけり
旧道に戻ると、左手には西園寺公望の別荘、「坐漁荘」。
坐漁荘庭園より三保の松原を臨む(昭和20年代)。 現在の景観。建物越しにかすかに見えるのみ。
その先、「波多打川」沿いに進み、左手に折れて、旧道に入る。JR東海道線「横砂踏切」を渡り、再び1号線と合流。
辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年、松根油採取のため伐採された。
しばらく進むと、
「辻一里塚」跡。日本橋から42里目。
《18 江尻》(2015.01.22~投稿)
「一里塚」からすぐの交差点の右側に「江尻宿」東木戸跡。ここから、「江尻宿」。ほぼまっすぐな道筋。落ち着いた町並み。国道を渡り、正面にJRの鉄橋が見えてきたら、右折する。
この付近が宿場の中心地だった。
クジラのモニュメント。
清水港はマグロなどの遠洋漁業の基地。クジラとも無縁ではない。かつて、清水港は、遠洋でのクジラ漁やイルカ漁などの基地でもあった。
「江尻宿」(現:清水)は、人馬や物資の移動を管理する問屋場を中心に、大名の宿泊する本陣3軒、それに準ずる脇本陣3軒と一般の旅籠屋が50軒程たち並び、人びとの往来で栄えていた。
「巴川」に架かる「稚児橋」
「稚児橋」。 河童のモニュメント。
橋を渡って二つ目の信号のある三叉路を右に行くと、「江尻宿木戸跡」。ここが宿場の「西木戸」に当たる。
その場所から宿内を望む。
「追分羊羹」のお店。
「追分羊羹」といえば、「ちびまる子」ちゃんの地元。お店の裏手にある小学校「入江小学校(現在は「清水入江小学校」)」が舞台。アニメでは清水名物としてたびたび登場するお店。
お店からすぐ先のところに、清水の次郎長に討たれた侠客・都田(通称都鳥)吉兵衛の供養等がある。
清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)
幕末・明治の侠客。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。 幕末、明治維新にわたり、東海はもとより、その暴れん坊ぶりは全国にその名を轟かせた大親分。大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。
広沢虎造の浪曲をはじめ、数々の時代劇、映画などによりその武勇伝も、今日まで多くの人に親しまれている。特に咸臨丸の件や山岡鉄舟との逸話は有名。
次郎長の生家は清水港近く。「次郎長通り」と名付けられた商店街にある。次郎長の写真や使った道具類、資料などを展示。居間も当時のまま保存されている、らしい。
しばらく進むと、「金谷橋」。昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道「志ミづ道」の分岐点であることから「追分」と呼ばれていた。
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