運転免許更新。今度こそ「ゴールド」かと思いきや、相変わらずのスピード違反などがあだとなり、またしても2時間講習の対象へ。ゴールド免許は夢の夢。
こうして、先日、「東陽町」の「江東運転免許試験場」まで行ってきました。思ったよりも空いていて順調に終了。周りを見回すと、けっこう同年配の年寄りも多い。この世界にも高齢化社会が訪れているようです。
70歳を過ぎると、教習所に行って実地運転が課せられることになるとか。免許返上の手続きのしかたとかの相談者もいたりして、だんだん身につまされる様相。
かつては「ヒヤリハット」事故、みたいな話があったが、そんな用語はなくなっていました。講習内容も、運転への注意喚起はもちろんですが、自転車の運転にまつわる話が目立つようです。免許書き換え時だけではなく、高齢者対象の運転安全教室とか自転車講習(保険加入なども含めて)など、こまめな地域での開催が必要性をつくづく感じました。
せっかくの冬晴れ。かつての城東電気軌道(都電)跡の「南砂緑道公園」を歩き、亀戸まで。
ここには、広大な敷地を擁した「汽車製造会社東京製作所」が存在していた。東京製作所で製造した車両は小名木川駅から「越中島支線」をD51形牽引で発送されていたとのこと。
都電は、東陽町(須崎)から「汽車製造」の敷地の西側をぐるっと回って北を通り、亀戸方向に向かっていました。(1972年に廃止)。
汽車製造
1896年(明治29年):設立。
1899年(明治32年):大阪市西区島屋新田(現此花区島屋・安治川口駅前)に工場を開設(2013年現在は新大阪郵便局、佐川急便大阪店が建っている。)。
1901年(明治34年):客車・貨車製造の大手であった平岡工場(南葛飾郡本所、後 東京市城東区砂町)の創業者であり、社長の平岡凞を、副社長に迎える形で両社は合併、社名を大阪汽車製造合資会社に改称。それぞれの工場を大阪本店、東京支店とした。合併前同様、大阪本店は機関車、東京支店は客車・電車・貨車を主に製造した。
同年、製造番号1番が完成。台湾総督府鉄道部向けE30形という車軸配置2-4-2(1B1)形(先輪1軸+動輪2軸+従輪1軸の意味)タンク機関車であったが、輸送中の海難事故により水没している。 1936年(昭和11年):東京・丸の内に本社を移転、大阪本店を大阪支店に改称(東京支店は変更なし)。
1941年(昭和16年)に完成したC59 1で、製造番号2000番を達成した。
1944年(昭和19年):二箇所の支店(工場)をそれぞれ大阪製作所、東京製作所に改称。
1948年(昭和23年):戦後、日本国有鉄道(国鉄)としては最初で最後となった新製蒸気機関車のE10形5両を製造した。
1954年(昭和29年):帝都高速度交通営団(営団)丸ノ内線向けに300形の製造開始
1963年(昭和38年):東武鉄道向け車両としては最後の8000系電車2編成(8104・8105F)が完成。8000系としては最初で最後の製造となった。
1964年(昭和39年):東海道新幹線0系電車の製造開始。営団東西線5000系の製造開始。
1968年(昭和43年):宇都宮工場(栃木県河内郡河内町、現:宇都宮市)を開設する。同工場では貨車の製作を担当した。
1970年(昭和45年)12月:営団千代田線・6000系第12・13編成が完成。営団向けの車輌としては最後であった。
1972年(昭和47年):神戸市に本社のある川崎重工業と合併。同社を存続会社とし汽車製造株式会社を解散する吸収合併で、会社設立76年目で終結。以後、当時製造中の103系電車や新幹線0系電車なども製造権は川重へ移転することとなる。
最終製造は3月27日に出場した国鉄DE10 1171(製造番号3572)。私鉄最後の製造車両は京成3300形電車3353 - 3356号であった。なお、この間に製造された機関車は3,651両、電車は1,854両、客車は2,414両である。 (以上、「Wikipedia」参照)
川崎重工業と合併後、東京製作所も廃止され、公営住宅や公立学校などが建てられている。
工場があった1965年ころのようす(「今昔マップ」より)。都電も健在でした。
1970年のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。工場廃止後、都電も廃止され、広い敷地跡に公営住宅、公立学校の建設がかなり進んでいます。
現在のようす(「今昔マップ」より)。
赤い線が都電跡の緑道公園。
「東陽町」側公園入口。
「永代橋通り」を望む。
澄み切った冬晴れの空。地元の方々の手による管理も行き届いた、緑豊かな公園です。
サラリーマン達も昼休み、紅葉の下で憩いのひととき。
長州藩大砲鋳造所跡。
説明板。
パリのアンヴァリッド(廃兵院)に、長州藩主毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。この大砲には、次のように刻まれています。
十八封度礟 嘉永七歳次甲寅季春/於江都葛飾別墅鋳之
(じゅうはちポンドほう かんえいしちさいじこういんきしゅん/こうとかつしかべっしょにおいてこれをちゅうす)
「江戸切絵図」を見ると、現在の南砂2、3付近に長州藩主松平大膳大夫の屋敷があったことがわかります。「葛飾別墅」とは、この屋敷をさしています。
長州藩では、嘉永6(1853)年12月、三浦半島の砲台に備えつける大鵬を鋳造するため、鋳砲家を江戸に呼び寄せました。翌7(安政元)年正月、幕府の許可を得て、佐久間象山の指導のもと、砂村の屋敷内で大砲の鋳造を始めました。
当時、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は、この大砲を三浦半島から下関移し砲撃により関門海峡を封鎖しました。これに対して、元治元(1864)年イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が篠の堰の砲台を攻撃、陥落させました。パリの青銅砲はこの時、フランス軍により海に渡ったものです。 平成5年3月 江東区教育委員会
久々に不思議な絵のシールを見つけました。赤丸のところ。
これ!
「尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩。」とあります。赤丸が藩邸。長州の今のアベさん。「尊皇」はもちろん、攘「夷」とは反「中国」「韓国」「北朝鮮」ということに。
学校の校舎の一角。
紅葉と落ち葉と快適な遊歩道。
かつての線路跡をイメージしたカーブ(当時、北西の角はかなりの急カーブでした)とか停留所の雰囲気。
高層の公営住宅。
こうして、先日、「東陽町」の「江東運転免許試験場」まで行ってきました。思ったよりも空いていて順調に終了。周りを見回すと、けっこう同年配の年寄りも多い。この世界にも高齢化社会が訪れているようです。
70歳を過ぎると、教習所に行って実地運転が課せられることになるとか。免許返上の手続きのしかたとかの相談者もいたりして、だんだん身につまされる様相。
かつては「ヒヤリハット」事故、みたいな話があったが、そんな用語はなくなっていました。講習内容も、運転への注意喚起はもちろんですが、自転車の運転にまつわる話が目立つようです。免許書き換え時だけではなく、高齢者対象の運転安全教室とか自転車講習(保険加入なども含めて)など、こまめな地域での開催が必要性をつくづく感じました。
せっかくの冬晴れ。かつての城東電気軌道(都電)跡の「南砂緑道公園」を歩き、亀戸まで。
ここには、広大な敷地を擁した「汽車製造会社東京製作所」が存在していた。東京製作所で製造した車両は小名木川駅から「越中島支線」をD51形牽引で発送されていたとのこと。
都電は、東陽町(須崎)から「汽車製造」の敷地の西側をぐるっと回って北を通り、亀戸方向に向かっていました。(1972年に廃止)。
汽車製造
1896年(明治29年):設立。
1899年(明治32年):大阪市西区島屋新田(現此花区島屋・安治川口駅前)に工場を開設(2013年現在は新大阪郵便局、佐川急便大阪店が建っている。)。
1901年(明治34年):客車・貨車製造の大手であった平岡工場(南葛飾郡本所、後 東京市城東区砂町)の創業者であり、社長の平岡凞を、副社長に迎える形で両社は合併、社名を大阪汽車製造合資会社に改称。それぞれの工場を大阪本店、東京支店とした。合併前同様、大阪本店は機関車、東京支店は客車・電車・貨車を主に製造した。
同年、製造番号1番が完成。台湾総督府鉄道部向けE30形という車軸配置2-4-2(1B1)形(先輪1軸+動輪2軸+従輪1軸の意味)タンク機関車であったが、輸送中の海難事故により水没している。 1936年(昭和11年):東京・丸の内に本社を移転、大阪本店を大阪支店に改称(東京支店は変更なし)。
1941年(昭和16年)に完成したC59 1で、製造番号2000番を達成した。
1944年(昭和19年):二箇所の支店(工場)をそれぞれ大阪製作所、東京製作所に改称。
1948年(昭和23年):戦後、日本国有鉄道(国鉄)としては最初で最後となった新製蒸気機関車のE10形5両を製造した。
1954年(昭和29年):帝都高速度交通営団(営団)丸ノ内線向けに300形の製造開始
1963年(昭和38年):東武鉄道向け車両としては最後の8000系電車2編成(8104・8105F)が完成。8000系としては最初で最後の製造となった。
1964年(昭和39年):東海道新幹線0系電車の製造開始。営団東西線5000系の製造開始。
1968年(昭和43年):宇都宮工場(栃木県河内郡河内町、現:宇都宮市)を開設する。同工場では貨車の製作を担当した。
1970年(昭和45年)12月:営団千代田線・6000系第12・13編成が完成。営団向けの車輌としては最後であった。
1972年(昭和47年):神戸市に本社のある川崎重工業と合併。同社を存続会社とし汽車製造株式会社を解散する吸収合併で、会社設立76年目で終結。以後、当時製造中の103系電車や新幹線0系電車なども製造権は川重へ移転することとなる。
最終製造は3月27日に出場した国鉄DE10 1171(製造番号3572)。私鉄最後の製造車両は京成3300形電車3353 - 3356号であった。なお、この間に製造された機関車は3,651両、電車は1,854両、客車は2,414両である。 (以上、「Wikipedia」参照)
川崎重工業と合併後、東京製作所も廃止され、公営住宅や公立学校などが建てられている。
工場があった1965年ころのようす(「今昔マップ」より)。都電も健在でした。
1970年のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。工場廃止後、都電も廃止され、広い敷地跡に公営住宅、公立学校の建設がかなり進んでいます。
現在のようす(「今昔マップ」より)。
赤い線が都電跡の緑道公園。
「東陽町」側公園入口。
「永代橋通り」を望む。
澄み切った冬晴れの空。地元の方々の手による管理も行き届いた、緑豊かな公園です。
サラリーマン達も昼休み、紅葉の下で憩いのひととき。
長州藩大砲鋳造所跡。
説明板。
パリのアンヴァリッド(廃兵院)に、長州藩主毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。この大砲には、次のように刻まれています。
十八封度礟 嘉永七歳次甲寅季春/於江都葛飾別墅鋳之
(じゅうはちポンドほう かんえいしちさいじこういんきしゅん/こうとかつしかべっしょにおいてこれをちゅうす)
「江戸切絵図」を見ると、現在の南砂2、3付近に長州藩主松平大膳大夫の屋敷があったことがわかります。「葛飾別墅」とは、この屋敷をさしています。
長州藩では、嘉永6(1853)年12月、三浦半島の砲台に備えつける大鵬を鋳造するため、鋳砲家を江戸に呼び寄せました。翌7(安政元)年正月、幕府の許可を得て、佐久間象山の指導のもと、砂村の屋敷内で大砲の鋳造を始めました。
当時、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は、この大砲を三浦半島から下関移し砲撃により関門海峡を封鎖しました。これに対して、元治元(1864)年イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が篠の堰の砲台を攻撃、陥落させました。パリの青銅砲はこの時、フランス軍により海に渡ったものです。 平成5年3月 江東区教育委員会
久々に不思議な絵のシールを見つけました。赤丸のところ。
これ!
「尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩。」とあります。赤丸が藩邸。長州の今のアベさん。「尊皇」はもちろん、攘「夷」とは反「中国」「韓国」「北朝鮮」ということに。
学校の校舎の一角。
紅葉と落ち葉と快適な遊歩道。
かつての線路跡をイメージしたカーブ(当時、北西の角はかなりの急カーブでした)とか停留所の雰囲気。
高層の公営住宅。
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