随所にベンチなどが設置されています。
「関東天然瓦斯」。
南関東ガス田のうち千葉県茂原市を中心とした一帯の鉱区の採掘権を所有し、水溶性天然ガスの採取・販売及びヨウ素の製造・販売を営んでいる。可採埋蔵量973億立方メートルと推定される合計714平方キロメートルの鉱区で、天然ガス採掘権を有する。ただし、天然ガスの生産は地盤沈下をもたらすため、千葉県との協定に基づいて制限している。可採埋蔵量は、現在の生産量の600年分にあたるという。
※房総東往還歩きのとき、茂原付近で「大多喜ガス」の大きなガスタンクを見ましたが、廃線後の九十九里鐵道の敷地もこの会社の所有地になっているのでしょうか。
農家の間の道を抜けて行きます。
左方向。
右方向。
この広い土地には、駅舎でもあったのでしょうか?
左手に田んぼが広がります。
右手にはバスが通る県道が。
大きな敷地。
振り返る。
通りを越えるとモニュメント。
「←2.5㎞ 甘藷栽培発祥地」。
江戸時代、飢饉による餓死者を救うために、青木昆陽(1698~1764)はこの地で甘藷(サツマイモ)の試作を行いました。現在その試作地に「関東地方甘藷栽培発祥の地」の石碑が建てられています。
サツマイモの普及に努め、栽培奨励を幕府の政策に乗せたのが甘藷(かんしょ)先生として有名な青木昆陽(1698から1769)である。昆陽の墓が、目黒不動瀧泉寺の裏手にあるのをご存じだろうか。樹木に囲まれ、ひっそりとたたずむこの墓は、国の指定文化財(史跡)となっている。
青木昆陽は、江戸日本橋に生まれ、幼い頃からの学問好きであった。享保4年(1719年)に京に上り、儒者伊藤東涯に学んだ。昆陽が甘藷のことを知ったのは、この頃だったといわれている。その後、江戸に帰った昆陽は私塾を開いていたが、町奉行大岡忠相に推挙され、以降、幕府に仕えた。
享保17年(1732年)に「天下飢饉、疫癘(えきれい)行る」と「武江年表」享保17年の項に書かれ、多くの死者を出した大飢饉が起った。昆陽は、甘藷(かんしょ)が地味の肥えていない土地でも十分に生育することに目をつけ「蕃薯(ばんしょ)考」を著し幕府に上書した。これが将軍吉宗にとりあげられ、甘藷(かんしょ)の試作を命じられた。昆陽は早速種芋を取寄せ、小石川御薬園(現:文京区白山東京大学附属小石川植物園)で試作を始めた。1度は失敗したものの、2度目に良好な結果を得ることに成功した。ここで採れた芋は種芋として各地に配られ、甘藷(かんしょ)栽培が定着するもととなった。この功績から昆陽は甘藷(かんしょ)先生と称されるようになったのである。
その後、昆陽は、蘭学研究に打ち込み数々の名書を著し、有数の蘭学者となった。
(この項、「」HPより)
ここが「西」駅跡のようです。
上下線の行き違う駅だったのでしょうか?
(「今昔マップ」より)
まだまだ探索が続きます。
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