宿場は国道に合流しますが、その手前が「追分宿」の西の出口。桝形の茶屋が数軒ありました。そのうちの一軒、「つがるや」という古びた茶屋が残っています。
史跡 追分枡形の茶屋
寛永12年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ約2.5㍍)を築いて宿内の警備取締りをした。
今、その面影を見ることはできないが当時枡形の地域内にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。
軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会
□の中に\線が入った桝形の記号と屋号。
(12:18) 左が「追分宿」、右が国道。
(12:19)国道に合流するとその先には「分去れ(わかされ)」。「追分」という地名の発祥となった「中山道」と「北国街道」との分岐点になります。「大常夜燈」、「道標」、平賀源内の弟子の「森羅亭万象歌碑」などいくつもの石造物が立っています。
一番手前に「道標」。「右 従是北国街道 左 従是中仙道」と刻まれています。
北国街道。追分から直江津まで約180㎞。
(地図は、「」HPより)
追分(おいわけ)
道が二つに分かれる場所をさす言葉。
もとは「牛馬を追い、分ける場所」を意味したが、そこから街道の分岐点も意味するようになり、甲州街道と青梅街道の分岐である新宿追分や、中山道と北国街道の分岐である信濃追分など、各地に地名として残っている。
類義語・対義語としては、追分と同様に分岐点を意味する「ワカレ」(「分かれ(分れ)」「別れ」「岐れ」などと表記される)、道が合流する点という意味の「落合」「出合」があり、こちらも各地の地名としてその名を残す。
(以上「Wikipedia」参照)
・内藤新宿 - 甲州街道から青梅街道の分岐(新宿追分)に設けられた宿場。
・本郷追分 - 中山道と日光御成街道の分岐。現在の東大農学部正門前。
・平尾追分 - 中山道と川越街道の分岐。現在の板橋郵便局前交差点。
・幸手宿 - 日光街道・奥州街道と日光御成街道の分岐(幸手追分)に儲けられた宿場。
・追分宿 - 中山道と北国街道(北国脇往還)の分岐(信濃追分)に設けられた宿場。
・日永追分 - 東海道と伊勢街道の分岐。現在の三重県四日市市。
・草津宿 - 東海道と中山道の分岐(草津追分)に設けられた宿場。
・髭茶屋追分 - 東海道と大津街道(伏見街道)の分岐。
日本各地に「追分」という地名が残っていますが、上に掲げられた「追分」には行ったことがあります。「幸手宿(幸手追分)」、「日永追分」、「草津宿(草津追分)」などは印象深いところでしたが、ここ「追分の分去れ」が一番印象深いものになりました。
追分の分去れ
北国街道と中山道の分岐点にあるのが「追分の分去れ」です。江戸から来た場合、右は北国街道の更科や越後方面、左は京都、吉野など関西へ向かう分岐点となりました。その昔、長旅の途中で親しくなった旅人同士が、別の行く先を前に別れを惜しみ、ともに袂を分けて旅を続けたといわれるのがその名の由来です。
「分去れ」の三角地の頂点に小さな道祖神。その奥に延宝七年(1679)の道しるべ。中山道、北国街道を指し示し、まだ初期に使われた海道の文字が刻まれています。元は地蔵尊の台座であった四角のくり抜き石が、その次にある道しるべ。
「さらしなは右 みよし野ハ左にて 月と花とを 追分の宿」
更科は月の名所、吉野は12年ほどの間皇居があったことから人々は御吉野と呼びます。桜の名所で、このあたりに咲く山桜を吉野桜といいます。台石には更に西面に妙義、江戸、日光など関東への道のり、南面には伊勢、京都その先に金毘羅への道程150里半が刻まれています。北面は善光寺、戸隠山、高田と北国街道沿いの土地、その先の金沢へと里程が記されています。
この「分去れ」の三角地帯に立つ石塔、石仏を見てみましょう。三角の頂点には「北国街道道標」があります。正面には「東 二世安楽 追分町」、右側面は「従是北国街道」左側面は「従是中仙道」、そして裏面には「西于時延宝七己未年三月○日」と彫られ、ここにある石塔などでは最古のものと思われます。
続いては、「世の中は ありのままにぞ霰ふるかしましとだに 心とめぬれば」と彫られる「森羅亭万象の歌碑」です。森羅亭万象は、江戸時代中期の博物学者・戯作者で有名な平賀源内の門人で狂歌師・桂木甫燦のことといわれています。
その隣に手水鉢のような形の道しるべ石があります。正面には「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」という風流な道案内の歌が彫られています。他の三面にはここから各地への里程が示されています。いくつかあげますと、「江戸江(へ)三八里」「御岳(木曽)江三三里半」など1番遠い所は「金毘羅(讃岐)江一五〇里半」でした。
この道しるべ石の後ろには、よく目立つ常夜灯が立っています。中山道の常夜灯の中でも屈指のもので、寛政元年(1789)春に建立され、台石には「町内安全」「是より左伊勢」などと大きく彫られています。
その横、北国街道に面してぽつんと立つ観音像は、郷土史家によると鳥羽天皇の天永年間(1110~12)に彫像された勢至観音菩薩で、これが確かなら追分の分去れの石仏中、最も大きく古い時代のものとなります。
分去れの一番奥には、優美な姿でたつ観音立像があります。正面に「牛馬千匹飼」とあるように馬頭観音像で安永三年(1774)11月、役馬持連中が建立したものといわれています。背丈が高く、頭部顔面あたりが異国風です。
中山道は分去れから国道18号線を斜めに横切って小田井宿へと続いています。国道を横断するとゆるやかな下り坂になりますが、その坂道は笑坂と呼ばれています。
作家・後藤明生に『笑坂』という作品があります。土地の老人から笑坂の由来を聞いています。小田井宿方面から旅人がやって来ますと、追分宿の燈が見えるので思わず笑顔になることから笑坂と名づけられたというのです。追分宿から小田井宿までの1里半(約6キロメートル)は、農家なども見えず荒涼とした原野であったといいます。
(以上、「軽井沢観光ガイド」HPより)
「国道18号線」。「高崎まで55㎞」ポスト。
「分去れ」から国道を横断し、左手の旧道に入ります。
横断には十分注意!
右手に「中山道69次資料館」。
林の中に江戸から京都までの69次遊歩道が設けられていて、たどるとじきに「三条大橋」まで着ける、という面白い趣向。東海道・桑名宿にもこんな公園(もっと大規模でしたが)がありました。
(12:27)そして最終地点の「三条大橋」。
「ここはコスモス街道」。
兄弟の歌手狩人が昭和52年分去れから続く中山道を「コスモス街道」と歌い、「あずさ2号」に次ぐヒット曲となった。
♪右は越後へ行く北の道 左は木曽まで行く中仙道 続いているコスモスの道が
(12:35)軽井沢高原野菜の産地。
のどかな高原の道。「笑坂」。
この付近から「小田井宿」の先までかなり長く、ゆっくりと下って行きます。京都から来ると、意外に足腰にこたえそうな一方的な上り坂となっています。しかし、この付近になると、もうじき「追分宿」。旅人の顔も自然と微笑んだのでしょう。
すっきり晴れていれば、正面に蓼科、右後方には浅間、左後方には八ヶ岳と美しい山容が見えるはずですが、残念ながら雲に覆われて見えず。その分、暑さも感じず、歩きやすい。
史跡 追分枡形の茶屋
寛永12年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ約2.5㍍)を築いて宿内の警備取締りをした。
今、その面影を見ることはできないが当時枡形の地域内にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。
軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会
□の中に\線が入った桝形の記号と屋号。
(12:18) 左が「追分宿」、右が国道。
(12:19)国道に合流するとその先には「分去れ(わかされ)」。「追分」という地名の発祥となった「中山道」と「北国街道」との分岐点になります。「大常夜燈」、「道標」、平賀源内の弟子の「森羅亭万象歌碑」などいくつもの石造物が立っています。
一番手前に「道標」。「右 従是北国街道 左 従是中仙道」と刻まれています。
北国街道。追分から直江津まで約180㎞。
(地図は、「」HPより)
追分(おいわけ)
道が二つに分かれる場所をさす言葉。
もとは「牛馬を追い、分ける場所」を意味したが、そこから街道の分岐点も意味するようになり、甲州街道と青梅街道の分岐である新宿追分や、中山道と北国街道の分岐である信濃追分など、各地に地名として残っている。
類義語・対義語としては、追分と同様に分岐点を意味する「ワカレ」(「分かれ(分れ)」「別れ」「岐れ」などと表記される)、道が合流する点という意味の「落合」「出合」があり、こちらも各地の地名としてその名を残す。
(以上「Wikipedia」参照)
・内藤新宿 - 甲州街道から青梅街道の分岐(新宿追分)に設けられた宿場。
・本郷追分 - 中山道と日光御成街道の分岐。現在の東大農学部正門前。
・平尾追分 - 中山道と川越街道の分岐。現在の板橋郵便局前交差点。
・幸手宿 - 日光街道・奥州街道と日光御成街道の分岐(幸手追分)に儲けられた宿場。
・追分宿 - 中山道と北国街道(北国脇往還)の分岐(信濃追分)に設けられた宿場。
・日永追分 - 東海道と伊勢街道の分岐。現在の三重県四日市市。
・草津宿 - 東海道と中山道の分岐(草津追分)に設けられた宿場。
・髭茶屋追分 - 東海道と大津街道(伏見街道)の分岐。
日本各地に「追分」という地名が残っていますが、上に掲げられた「追分」には行ったことがあります。「幸手宿(幸手追分)」、「日永追分」、「草津宿(草津追分)」などは印象深いところでしたが、ここ「追分の分去れ」が一番印象深いものになりました。
追分の分去れ
北国街道と中山道の分岐点にあるのが「追分の分去れ」です。江戸から来た場合、右は北国街道の更科や越後方面、左は京都、吉野など関西へ向かう分岐点となりました。その昔、長旅の途中で親しくなった旅人同士が、別の行く先を前に別れを惜しみ、ともに袂を分けて旅を続けたといわれるのがその名の由来です。
「分去れ」の三角地の頂点に小さな道祖神。その奥に延宝七年(1679)の道しるべ。中山道、北国街道を指し示し、まだ初期に使われた海道の文字が刻まれています。元は地蔵尊の台座であった四角のくり抜き石が、その次にある道しるべ。
「さらしなは右 みよし野ハ左にて 月と花とを 追分の宿」
更科は月の名所、吉野は12年ほどの間皇居があったことから人々は御吉野と呼びます。桜の名所で、このあたりに咲く山桜を吉野桜といいます。台石には更に西面に妙義、江戸、日光など関東への道のり、南面には伊勢、京都その先に金毘羅への道程150里半が刻まれています。北面は善光寺、戸隠山、高田と北国街道沿いの土地、その先の金沢へと里程が記されています。
この「分去れ」の三角地帯に立つ石塔、石仏を見てみましょう。三角の頂点には「北国街道道標」があります。正面には「東 二世安楽 追分町」、右側面は「従是北国街道」左側面は「従是中仙道」、そして裏面には「西于時延宝七己未年三月○日」と彫られ、ここにある石塔などでは最古のものと思われます。
続いては、「世の中は ありのままにぞ霰ふるかしましとだに 心とめぬれば」と彫られる「森羅亭万象の歌碑」です。森羅亭万象は、江戸時代中期の博物学者・戯作者で有名な平賀源内の門人で狂歌師・桂木甫燦のことといわれています。
その隣に手水鉢のような形の道しるべ石があります。正面には「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」という風流な道案内の歌が彫られています。他の三面にはここから各地への里程が示されています。いくつかあげますと、「江戸江(へ)三八里」「御岳(木曽)江三三里半」など1番遠い所は「金毘羅(讃岐)江一五〇里半」でした。
この道しるべ石の後ろには、よく目立つ常夜灯が立っています。中山道の常夜灯の中でも屈指のもので、寛政元年(1789)春に建立され、台石には「町内安全」「是より左伊勢」などと大きく彫られています。
その横、北国街道に面してぽつんと立つ観音像は、郷土史家によると鳥羽天皇の天永年間(1110~12)に彫像された勢至観音菩薩で、これが確かなら追分の分去れの石仏中、最も大きく古い時代のものとなります。
分去れの一番奥には、優美な姿でたつ観音立像があります。正面に「牛馬千匹飼」とあるように馬頭観音像で安永三年(1774)11月、役馬持連中が建立したものといわれています。背丈が高く、頭部顔面あたりが異国風です。
中山道は分去れから国道18号線を斜めに横切って小田井宿へと続いています。国道を横断するとゆるやかな下り坂になりますが、その坂道は笑坂と呼ばれています。
作家・後藤明生に『笑坂』という作品があります。土地の老人から笑坂の由来を聞いています。小田井宿方面から旅人がやって来ますと、追分宿の燈が見えるので思わず笑顔になることから笑坂と名づけられたというのです。追分宿から小田井宿までの1里半(約6キロメートル)は、農家なども見えず荒涼とした原野であったといいます。
(以上、「軽井沢観光ガイド」HPより)
「国道18号線」。「高崎まで55㎞」ポスト。
「分去れ」から国道を横断し、左手の旧道に入ります。
横断には十分注意!
右手に「中山道69次資料館」。
林の中に江戸から京都までの69次遊歩道が設けられていて、たどるとじきに「三条大橋」まで着ける、という面白い趣向。東海道・桑名宿にもこんな公園(もっと大規模でしたが)がありました。
(12:27)そして最終地点の「三条大橋」。
「ここはコスモス街道」。
兄弟の歌手狩人が昭和52年分去れから続く中山道を「コスモス街道」と歌い、「あずさ2号」に次ぐヒット曲となった。
♪右は越後へ行く北の道 左は木曽まで行く中仙道 続いているコスモスの道が
(12:35)軽井沢高原野菜の産地。
のどかな高原の道。「笑坂」。
この付近から「小田井宿」の先までかなり長く、ゆっくりと下って行きます。京都から来ると、意外に足腰にこたえそうな一方的な上り坂となっています。しかし、この付近になると、もうじき「追分宿」。旅人の顔も自然と微笑んだのでしょう。
すっきり晴れていれば、正面に蓼科、右後方には浅間、左後方には八ヶ岳と美しい山容が見えるはずですが、残念ながら雲に覆われて見えず。その分、暑さも感じず、歩きやすい。
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