京成関屋駅。
すぐ隣に東武線の「牛田」駅があります。近接し、京成から東武への乗換駅なのに異なる駅名なのはなぜ?
・出没!アド街ック天国 『~京成関屋~』 2009年9月12日(土)21:00~21:54 テレビ東京
牛田駅
東武伊勢崎線の駅。
昭和7年に開業し1日に平均して約2万人が利用するという、またこの「牛田」という名前は江戸時代の用水路「牛田圦り」の名がつけられたとのこと。
京成関屋駅
昭和6年に開業し1日に平均して約2万人が利用するという、またこの「京成関屋」という名前は江戸時代の景勝地「関屋里」からその名がつけられたとのこと。
これだけではわかりにくい。そこで、ネットを調べると、
「牛田と関屋は近くて遠い -東武と京成の ... - 歴史と散歩とポタリングと
rekisanpota.blogspot.com › 2014/06 › blog-post_13」に歴史的経過や両社の確執など、詳しく掲載されていました。
その末尾の文章を引用させてもらいます。
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時代の流れとともに私鉄競争も冷えてきた。東武・京成もJRには敵わない。同じエリアを走る私鉄同士、協調姿勢を採らなくてはやっていけなくなってきた。
私鉄バトルの象徴であった牛田・京成関屋も相互連絡運輸を行っている。
ではいっそのこと、駅名を統一してしまうのはどうか。
平成23年に足立区が実施したパブリックコメントでも、「京成関屋・牛田駅の一本化」が要望として寄せられていた。しかし、対する区の回答は「現状では困難な状況」とのこと。
参考:足立区総合交通計画(案)パブリックコメント実施状況および意見に対する区の考え方について(PDF)
時代は流れたとはいえ、根底にある憎しみにも近いライバル心はなかなか拭えないのだろうか。二つの駅は手を差し伸べ合いながらも、横目で睨みを効かせあっている。
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注:京成関屋駅の開業は1931年12月。牛田駅の開業は1932年9月。
冨嶽三十六景 隅田川関屋の里
関屋の里とは、現在の千住仲町から千住関屋町付近を示し、江戸時代には風光明媚な土地として知られていました。江戸の人々は、帆掛け船の行き来する隅田川と、桜の咲く穏やかな自然に恵まれたこの一帯を「関屋の里」としてとらえ、冨嶽三十六景以外にも、江戸名所百景、隅田川八景、江戸名勝図会「関屋の里」(右図)など数々の浮世絵に描かれています。とくに、桜の咲くなかでくつろぐ人々が画題となっています。
こうした美しい場所であったこともあり、「関屋巣兆」として知られる俳人建部巣兆(たけべそうちょう)の庵、秋香庵(しゅうこうあん)も関屋の里に結ばれました。
「隅田川関屋の里」では、疾走する馬と右端に見える高札場、とくにそれ以外のものは描かれていません。生い茂る草を水平線として富士山が見えます。高札場としては現在の千住一丁目と千住仲町との千住小橋南側(現在の千住仲町側)の高札場が知られていますが、この「隅田川関屋の里」に描かれた高札場とは異なるものです。
ここで人馬が走る道は、石出掃部介の新田開発によって元和2(1616)年に築かれた掃部堤(かもんづつみ)、現在では墨堤通りとよばれている道です。
『江戸名所図会』に、「此辺を関屋の里という」の添え書きとともに、掃部堤が描かれています。(上画・『江戸名所図会』氷川神社と掃部堤)
画の中央は千住仲町の氷川神社(千住仲町48-2)です。境内には、関屋の里から移設された関屋天満宮も描かれています。掃部堤から氷川神社に至る道は、現在ミリオン通り商店街といわれる通りになっているものと考えられます。この交差点には庚申塔が祀られ、集落との分岐点となっているようです。
冨嶽三十六景「隅田川関屋の里」に描かれた地点はこのあたりだと推察されます。掃部堤を進んで日光道中を横切ると、現在の千住緑町付近にあたる「牧の野」とよばれた低地が広がっていました。千住町が茅場として使用していた地域で、浮世絵には、この茅場が描かれていると考えられます。
北斎は他の浮世絵師と異なり、関屋の里の嫋々とした風景をとりあげず、疾走する馬をとりあげ、堤防に生える松、茅の茂る遠景という力強い風景を描いたといえます。
「武州千住」。
現在では台東区域からの作品になりますが、描かれた当時は、荒川区分の小塚原・中村町の地域にあたっていたため、「千住」と表記されています。
「武州千住」はどこ?
千住といっても、宿場の賑わいは描かれず、馬を曳く農夫、釣りに興じる二人と、牧歌的な風景が描かれています。馬の背につけられている運搬具は、駄付けモッコ(だつけもっこと)、「スカリ」などとよばれる道具で、大宮台地では畑のドロツケに使われます。土や堆肥など、運ぶ形にこだわらず詰め込めるものの運搬に使われるものです。そうしたことからこの画で運ばれているものは、野菜ではなくて草・・・、このあたりは江戸近郊のため下肥を多用し、草を刈って堆肥を作る習慣がほとんどないので、馬の飼料として刈った草なのだと思われます。
手綱には替えのわらじが結び付けられており、意外と遠方への往来がうかがわれます。
画面左の端にほんの少し見えるのは、稲藁を積んだ「稲ニオ(藁 ボッチ)」で、晩秋に作られその藁は冬から春の間に少しずつ使用して、通常夏場にはなくなります。富士山には真っ白に雪がありますが、北斎は季節と雪の多少については、あまり厳密ではないようなので、緑の草や、腕を出した農夫などの全体的な様子から、現在の五月ごろを示していると考えてみました。
農夫と馬の向こうには、大きな堰枠(せきわく)がみえます。これは元宿圦(もとじゅくいり)に設けられた元宿堰とよばれる堰枠で、隅田川の水が用水路に逆流しないための役割を果たしていました。元宿とは、この圦のある集落の名称です。大きな堰枠は用水管理の役割はいうまでもなく、千住方面から、西新井大師や武州江戸六阿弥陀の参詣の折に通る大師道、熊谷堤の通過点でも、千住の絵図(部分)に描かれた堰枠 高田家絵図があり、とても目立ったためか、いくつかの絵図にも描かれ、ランドマーク的な役割も担っていたと思われます。
従って、釣りをしているのは元宿圦、遠くに見えるのは、隅田川ということになります。現在の住所では、千住桜木1丁目と2丁目の境、帝京科学大学入口交差点付近にあたります。
(明治17年迅速側図)赤矢印 馬と農夫が進む方向、青線 浮世絵に描かれた視界。
(この項、「足立区」公式HPより)
(「」HPより)
「従千住花街眺望ノ不二」は「日本堤」(土手の通り)付近になっています。
二つの線路に挟まれた小さな商店街を抜け、京成線のガードをくぐります。
「荒川」に架かる堀切橋を渡ります。下が東武線、上が京成線。
「堀切橋」からの京成線。
振り返ると、遠くに「スカイツリー」。
右手前方は、首都高。
この付近は、荒川放水路の開削で大変貌した地域です。足立区側にある「隅田水門」と解説板にその一端が。
「隅田水門」の説明板。
この水門は、荒川と隅田川を結ぶ水路(荒川―旧綾瀬川―隅田川)として二つの川の流れを調節する。荒川は、北区岩淵水門付近から明治末期から大正中期にかけて開削された放水路。都内の治水事業としては最大級。旧綾瀬川は隅田川に流入していたが、荒川沿いに流れを変え、中川も荒川をはさんで分断された。また田畑や寺社、街並みなども移転・廃絶を余儀なくされた。
「荒川放水路(現「荒川」)」開削以前の地図(大正8年)。東に曲がり今の「荒川」中流付近を通っていた東武伊勢崎線が、荒川放水路開削のために現行のような線路になった。
当時は「堀切」駅はなかったようで、下の方(南側)に「鐘ヶ淵」駅が見える。また、京成電車(上野~青砥)はまだ開通していなかった。
この荒川放水路(現荒川)もこの北側で大きく迂回していますが、その理由が千住の宿(市街地)を避けるためだった、とか。
放水路建設の背景
明治43年の洪水被害を契機として、荒川の洪水対応能力を向上させるために荒川放水路の基本計画が策定されました。
荒川放水路のルート候補は、主なもので4つありましたが、治水上の効果や実現性、宿場町として栄えていた千住町を迂回するなどの背景から、現在のルートが採用されました。
○上流部
広大な荒川河川敷の北岸(熊谷堤)に寄せて蛇行部をショートカット
○中流部
千住町の北を迂回する形で隅田川から離れ、綾瀬川から中川へ通じる流路に沿わせて中川に連絡
○下流部
中川横断後は中川沿岸の市街地を避け、やや東にふくらませて中川河口に導く
(この項、「」HPより)
(「今昔マップ」より)
←に注目。荒川放水路開削前とその後。東武線が大きく西にずれて直線化。左図に「牛田」という地名あり。
(「同」より)
左図○にまだ東武線「牛田」駅はない。堀切橋(↓)は現在よりも下流にあった。右図の「新荒川橋」は首都高の橋。
千住側を振り返る。
上流方向。左手が北千住方面。