おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成高砂駅~京成金町駅。その4。金町浄水場取水塔。帝釈天参道。「お帰り寅さん」。

2020-07-08 19:49:09 | 沿線歩き

                     金町浄水場・取水塔。

金町浄水場は、大正15年8月、当時の南葛飾、南足立、北豊島3郡の12町村を給水区域とする「江戸川上水町村組合」の施設として給水を開始しました。昭和7年に東京市に引き継がれ、その後数回の拡張改良工事が行われ、平成4年には、東京都で初めてオゾンと生物活性炭とを組み合わせた高度浄水施設の運転を始めました。JR常磐線金町駅から南へ1㎞、江戸川河口から17㎞上流に位置し、周辺には柴又帝釈天や矢切の渡しなどの名所旧跡があります。
江戸川の右岸にある2基の取水塔から表流水を取り入れ、金町浄水場内へ導水しています。
三角形のトンガリ帽子の屋根を持つレンガ造りの第2取水塔は、昭和16年に完成しました。映画「男はつらいよ」シリーズや漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」にも登場し、その可愛らしいデザインは地域のシンボルとして親しまれています。

(この項、「」HPより)

江戸時代における上水の変遷 
徳川家康が1590(天正18)年に入ったときの江戸は、海岸線は江戸城大手門近くまで迫り、現在の日比谷公園・皇居外苑のあたりは日比谷入江と呼ばれる浅海でした。


小石川上水・神田上水・溜池上水
家康はただちに堀を開削、山を切削してその土で日比谷入などを埋め立て、河川の改修を行いました。また、家康は生活用水の確保のため、家臣の大久保藤五郎に上水をつくるように命じたのです(「小石川上水」)。この小石川上水が江戸における最初の水道となり、その後の江戸のまちとともに神田上水へと発展していきました。
徳川家康は江戸に幕府を開いた1603年(慶長8)頃、小石川上水が拡充・整備され新市街地へ給水されたと考えられています。同時に、赤坂の溜池を水源とする溜池上水も江戸の西南部に給水されていました。しかし、その後の江戸の人口は増加の一途をたどり、二つの上水では増大する水需要に応じることができなくなったのです。


排水管の付設
1652(承応元)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる計画を立て、工事請負人を庄右衛門、清右衛兄弟、総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治を命じました。1653(承応2)年4月4日着工、11月15日には羽村取水口から四谷大木戸までを8か月で掘り上げられました。1654(承応3)年6月には虎ノ門まで地下に石樋・木樋による配水管を付設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水されました。


亀有(本所)上水・青山上水・三田上水・千川上水
1657(明暦3)年、明暦の大火により江戸の町は大半を焼失(江戸城天守閣消失)。この災害を契機として幕府の大幅な復興再開発により、江戸はさらに周辺部へ拡大発展。拡大した江戸周辺地域に給水するため、1658~1672(万治・寛文年間)年に亀有(本所)上水、青山上水、三田上水が開設。1696(元禄9)年には千川上水が開設された。亀有上水は中川を水源とし、他の三つの上水はいずれも玉川上水を分水して水源とした。亀有上水は本所・深川方面に、青山上水は麻布・六本木・飯倉方面に、三田上水は三田・芝方面に、千川上水は本郷・浅草方面にそれぞれ給水された。このように、元禄から享保にかけて六つの上水が江戸の町を潤していたのである。
 
明治時代における上水の変遷 
明治維新を経て、東京は近代国家の都市としてのまちづくりが始まりました。文明開化によって、鉄道、煉瓦街、ガス灯に象徴されるようなまちづくりが進みました。しかし、水道は江戸時代の神田・玉川上水のままでした。当時は、浄水処理がなされていない河川の水がそのまま石樋(せきひ)や木樋(もくひ)によって東京の上水井戸に配水されてました。
水道の近代化は、明治維新後の行政の混乱、水道を所管する組織の変転などによって遅れていました。適正な補修が行われてこなかったことから、木樋は腐朽し、東京の水質は悪化していきました。また、当時の上水は自然流下であったため圧力がなく、火災の消火にもそれほど威力を発揮することはできませんでした。
このような状況のなか、1874(明治7)年に政府が上水の改良の検討を始めました。また、その翌年には東京府も東京府水道改正委員を設置して、上水改良の検討を始めました。このとき検討されたものは、原水を沈殿、ろ過して鉄管で圧送するというものでした。しかし、この案は巨額の費用と道路整備などの都市計画全体との調整を図ることが不可欠であったため、さらなる検討が必要だったのです。東京府は、近代水道創設の検討を進める一方で、既存の木樋や上水路の補修を行うとともに、水源汚染の取り締まりを強化しました。しかし、1886(明治19)年に、コレラが東京を襲い多数の死者を出すことになり、近代水道創設促進に拍車がかっかたのです。


金町浄水場の歴史
江戸川上水町村組合の施設として始まった金町浄水場。その後東京市(都)に引き継がれ、東京の水需要の増加に対応するため、拡張工事が行われ、浄水能力の向上してきた。現在、高い品質の水をつくるために最新の設備が導入されている。

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2011年の原子力発電所事故への対応
2011年3月23日、金町浄水場の水道水から1キロあたり210ベクレルの放射性ヨウ素が検出された(東京都発表)。これは、乳児の飲み水についての国の基準の2倍を超えるものであった。2011年の原発事故後、金町浄水場は放射性物質の除去効果が期待できるとして浄水に使う粉末活性炭の量を通常の3~4倍にして対応した。
現在は、日量150万立方メートルの全量に高度浄水処理を導入している。

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(この項、「江戸川区フォトライブラリー」edogawa-photo.net › 江戸川区の川・海 より)

再び「柴又駅」方向へ。

    「武蔵野の路 水元・柴又コース」。

                

遠くにスカイツリー(↓)。

「帝釈天」参道のお店。

                

 

            

参道のお店の店先には「お帰り寅さん」のポスターが。

          

(「YouTube」「お帰り寅さん」予告編より)

こうして柴又探索を終え、「京成金町駅」へ向かいます。

 


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