沖縄は今日、「慰霊の日」を迎えました。
沖縄は太平洋戦争において、日本国内で唯一の地上戦が繰り広げられた場所。
昭和20年6月23日未明、沖縄防衛第三十二軍司令官・牛島満中将と同参謀長・長勇中将が糸満の摩文仁にて自決したため、この日を実質的な沖縄戦の終結日ととらえて『沖縄慰霊の日』に制定。戦没者の霊を慰め、平和を祈る日として1991年に沖縄県内の公休日として定められました。
この日は平和祈念公園にて『沖縄全戦没者追悼式』が行われ、さらに、同時に県内各所でも慰霊祭が行われました。二度と悲惨な戦争を繰り返すまいという沖縄の願いを全世界に伝えています。
沖縄戦では20万人以上の戦死者を出し、その半数に近い9万4000人余りが一般県民や子供という悲惨なものでした。
追悼式が行われた糸満市摩文仁の平和記念公園にある「平和の礎」には、日米の兵隊、沖縄の民間人を問わず、沖縄戦で亡くなった人達の名前が刻まれています。本土の日本人の名前も、アメリカ人の名前も男ばかり。しかし、沖縄は、半分が女性です。
米軍の空襲によってもたくさんの本土の街並みが破壊されましたが、昭和20年(1945)3月10日・「東京下町大空襲」が典型的なように、その犠牲者も多くは、取り残された老人、女性、子供たちでした。広島や長崎への原子爆弾の投下も同様です。
自分たちの住んでいるところが戦場になる、ということはこういうことなのでしょう。
戦後78年。今、米中関係の緊張、台湾有事になったらと、南西シフトとして「沖縄」への自衛隊の部隊配備、敵基地攻撃能力を持つミサイルの配備も取りざたされています。
マスコミなどにより、ロシアのウクライナ侵攻による国民の不安感をかきたて、自公政権は、防衛費の大幅な増額も財源を後回しにしてまで、国会で成立させました。結果、アメリカのバイデン大統領からは「俺の言うとおりにさせた」とうそぶかれる始末。・・・
友人達が20日から沖縄辺野古移設反対の座り込み行動に出かけています。4年前、小生も参加しました。
美しい辺野古の海は、反対の声にいっさい耳を貸さず、着実に埋め立てが続けられています。しかし、軟弱な地盤を相手にいつ完成するかも分からない工事になっているような・・・。
今朝(6/23)の朝日新聞。「オピニオン&フォーラム」欄のインタビュー記事で、作家の池澤夏樹さんが登場していました。その示唆的な発言のいくつかを取り上げてみます。
・「歴史というのは、毎年、本を床に1冊ずつ積んでいくようなものだと考えています。1冊積むごとに少しずつずれが生じる。前の年だけを見て新たな本を積むと、ずれがだんだんと大きくなる。ある段階まで達すると、重心が一番下の本から大きく外れてしまい、崩壊する。戦後の最初の1冊は憲法9条だったわけですが、それを見ようとしないから初めに戻れない。敗戦によって日本国憲法ができ、平和国家として再出発して、少しずつずれながらも、よたよたとここまで来た。それが、ここ10年で、ずれがいきなり大きくなったように思います。やはり、本の積み方を是正しようとする力が働かなかった。・・・」
・「沖縄に住んでいた2001年、9・11テロが起きると、沖縄の米軍基地は最高度の厳戒態勢を発し、武装した米兵達がフェンスの外側に銃口を向けた。その年、全国から来るはずだった修学旅行の予定が一斉にキャンセルされました。米軍が最厳戒態勢を敷いている危ない所に子供を送りたくないという学校や保護者の意向でした。そのとき、沖縄にも子供が住んでいることを想像した人が本土にどれだけいたでしょうか。9・11のときは、日本国内に住む人も大きな衝撃を受けましたが、実際に目の前の何かが変わったのは、沖縄だけでした。」
・―戦後の日本が掲げ続けてきた平和主義の旗に、逆風が吹いているように見えます―
「ぼくは、平和は消費財だと思うんですよ。一つ一つの問題を何とか解決して平和を維持していく。放っておくと平和は減っていくから、その分、どこかでつくらなければならない。その意味で、沖縄というのは非常に力のある平和製造工場なのだと考えています。戦争体験が有り、平和への意志をもって伝え続けてきた人達がいる。県立の公文書館を備え、あの戦争とは何だったのか、考えるための史料を集めている。他の地域で、これほどのことをしているところはありません。
・「・・・ただ平和と唱えていれば、平和が来るわけではありません。憲法9条にしても、護持していればいいというものではなく、積極的に運用しなければいけない。その意味でも、現状にあらがって平和をつくり続けている沖縄は、日本の宝なんです。」
(聞き手・真鍋弘樹)
2022/12現在。
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