曲がりくねった上り坂を進みます。旧道はかつての諏訪湖の湖岸付近を通っていたような印象の道。現在は左手(諏訪湖側)には民家などが立ち並んでいますが。
沿道には長崎家、橋本家などの重厚な建物。
(13:35)旧家の橋本家。昔、茶屋があったとされています。すばらしい装飾の軒先の灯籠が目を引きます。
その先、左手が広がってきます。湖水に落ちるような急坂。
立派なお屋敷が続きます。
一直線で湖に下る道。
島木赤彦「柿蔭山房」入口案内板。
島木赤彦は地元・諏訪出身の「アララギ」派の歌人。教育者としても活躍した。代表作に
・夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖のしづけさ(『切火』)
・みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ (『太虚集』)
・信濃路はいつ春ならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ (『柿蔭集』)
など。
諏訪湖が大きく広がって見えてきます。
「明治天皇駐輦趾」碑と「名所石投場」。碑。
そこからの諏訪湖。かつては湖水はこの直下まで迫っていたようです。
緩やかな坂道。振り返る。
途中、右手に上がる道筋が「鎌倉街道」。
(13:56)右手には「一里塚跡」碑。
・・・この塚は江戸より53番目、甲州道中最終のもの。あと11町(1100m)で賑やかな下諏訪宿に着き、中仙道につながる。
承知川橋。
(14:03)その先、右手の石垣には「承知川橋の記」と埋め込まれた「承知川橋」の石橋。
承知川橋の記
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
輝石安山岩 重量約拾参屯
伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず 信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したと言う。
爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。
表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。 この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。
昭和五十二年 久保海道町
(14:07)そこからしばらくで「諏訪大社下社秋宮」に着きます。いよいよゴール間近。
この先を少し行けば「中山道」との合流地点(終点)。
塩羊羹で有名な「新鶴本店」。
あとわずかでゴール。右手奥に「聴泉閣かめや」。
(14:09)「下諏訪宿 甲州道中 中山道合流之」地」碑。
正面奥の壁には合流地・下諏訪宿の賑わいを描いた、大きな陶板レリーフがあります。
「下諏訪宿問屋場跡」板。
「御宿まるや」(右)、「桔梗屋旅館」(左)。その間の通りが「中山道」。
「中山道」を少し戻ったところに「本陣 岩波家」。
史跡 本陣遺構
江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここにいる。維新前は公卿や大名たちの休泊所になり、文久元年()11月には関東へ御降嫁の和宮さまのお泊所になり明治13年6月24日明治天皇ご巡幸のときにはお小休所になった。
その前の通りには「中山道」の標識。
「甲州街道」を振り返る。
こうして14日間かかってやっと到着した「甲州街道」に別れを告げ、「中山道」を歩いて「下諏訪駅」に向かいます。
「下諏訪宿」案内板。
復元された「高札場」。
(14:28)「下諏訪駅」。
標高767.5メートル
下諏訪駅は製糸業関係者が早くから鉄道建設を願っており、町の中心近くに設置され、製糸業は急速に発展した。
戦時中から精密工業の工場がその後の工業都市のきっかけとなった。
諏訪大社と諏訪湖の観光駅でもある。
これで、五街道では「中山道」が「岩村田宿」で止まったまま、今回の下諏訪宿へは「和田峠」を越えなければならない。来年になったら、チャレンジすることに。その前にちょっと手近な街道歩きでもしておきますか。あるいは、ここまで来た勢い(甲府からの普通電車は「松本」行きだった)で松本まで行ってみるか。
沿道には長崎家、橋本家などの重厚な建物。
(13:35)旧家の橋本家。昔、茶屋があったとされています。すばらしい装飾の軒先の灯籠が目を引きます。
その先、左手が広がってきます。湖水に落ちるような急坂。
立派なお屋敷が続きます。
一直線で湖に下る道。
島木赤彦「柿蔭山房」入口案内板。
島木赤彦は地元・諏訪出身の「アララギ」派の歌人。教育者としても活躍した。代表作に
・夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖のしづけさ(『切火』)
・みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ (『太虚集』)
・信濃路はいつ春ならん夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ (『柿蔭集』)
など。
諏訪湖が大きく広がって見えてきます。
「明治天皇駐輦趾」碑と「名所石投場」。碑。
そこからの諏訪湖。かつては湖水はこの直下まで迫っていたようです。
緩やかな坂道。振り返る。
途中、右手に上がる道筋が「鎌倉街道」。
(13:56)右手には「一里塚跡」碑。
・・・この塚は江戸より53番目、甲州道中最終のもの。あと11町(1100m)で賑やかな下諏訪宿に着き、中仙道につながる。
承知川橋。
(14:03)その先、右手の石垣には「承知川橋の記」と埋め込まれた「承知川橋」の石橋。
承知川橋の記
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
輝石安山岩 重量約拾参屯
伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず 信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したと言う。
爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。
表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。 この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。
昭和五十二年 久保海道町
(14:07)そこからしばらくで「諏訪大社下社秋宮」に着きます。いよいよゴール間近。
この先を少し行けば「中山道」との合流地点(終点)。
塩羊羹で有名な「新鶴本店」。
あとわずかでゴール。右手奥に「聴泉閣かめや」。
(14:09)「下諏訪宿 甲州道中 中山道合流之」地」碑。
正面奥の壁には合流地・下諏訪宿の賑わいを描いた、大きな陶板レリーフがあります。
「下諏訪宿問屋場跡」板。
「御宿まるや」(右)、「桔梗屋旅館」(左)。その間の通りが「中山道」。
「中山道」を少し戻ったところに「本陣 岩波家」。
史跡 本陣遺構
江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここにいる。維新前は公卿や大名たちの休泊所になり、文久元年()11月には関東へ御降嫁の和宮さまのお泊所になり明治13年6月24日明治天皇ご巡幸のときにはお小休所になった。
その前の通りには「中山道」の標識。
「甲州街道」を振り返る。
こうして14日間かかってやっと到着した「甲州街道」に別れを告げ、「中山道」を歩いて「下諏訪駅」に向かいます。
「下諏訪宿」案内板。
復元された「高札場」。
(14:28)「下諏訪駅」。
標高767.5メートル
下諏訪駅は製糸業関係者が早くから鉄道建設を願っており、町の中心近くに設置され、製糸業は急速に発展した。
戦時中から精密工業の工場がその後の工業都市のきっかけとなった。
諏訪大社と諏訪湖の観光駅でもある。
これで、五街道では「中山道」が「岩村田宿」で止まったまま、今回の下諏訪宿へは「和田峠」を越えなければならない。来年になったら、チャレンジすることに。その前にちょっと手近な街道歩きでもしておきますか。あるいは、ここまで来た勢い(甲府からの普通電車は「松本」行きだった)で松本まで行ってみるか。
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