去年の10月、「水元公園」(東京都葛飾区と埼玉県三郷市との都県境)から歩き始めた「都県境を探る旅」もいよいよラスト。第22回目。
青梅からの山伝いの都県境(雲取山まで)、そして、雲取山から境川の源流までの山道は省略しましたが。・・・
今回、多摩川河口まで歩くことに。
左岸を羽田空港まで歩きます。
京急線。対岸が「京急川崎駅」。
「六郷橋」。
旧東海道歩きの時の記事を再掲。・・・
「多摩川」に架かる「新六郷橋」際にある「六郷の渡し」説明板(川崎市)。
関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。
そこで慶長 五年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。
渡船は 、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(1709)川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。
200年もの間、渡し船が行き交う場所だったわけです。
※「川崎宿」
徳川幕府が、東海道に駅制を定め、諸駅を設置した慶長6年(1601)のこと。諸駅より20年ほど遅れて川崎宿は元和9年(1623)に設置されました。それまでは品川宿の次は神奈川宿。往復十里(約39km)におよび、伝馬百姓の負担が過重のため、その中間に位置する川崎に新しい宿場・駅を設置しました、とされています。
川崎市では、「川崎宿」成立400年となる本年(2023年)、その歴史と文化を継承する企画が進んでいます。
1880年代のようす。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
六郷川(多摩川)をはさんで旧東海道。「六郷渡船場」とある。
地元の鈴木左内が明治7年(1874)に木造有料の「左内橋」を架けたが、明治11年(1878)に流されてしまったため、この図には描かれていない。
左上の直線は、鉄道。左下に連なるのが「川崎宿」の町並み。
「明治天皇渡御記念碑」。
明治元年(1868)十月十二日、天皇は東下の道中、二十三艘でつくられた舟橋を渡って江戸(東京)に入った。
そのようすを描いたレリーフ。
(「制作 web-photographer 上野 隆史 Copyright 2003- All rights reserved.(ueno@tamagawa-kisui.jp)」より)
「六郷橋」の親柱風な三箇所にあるオブジェその1。
「笹舟」(右岸―川崎側―上流)。
その2「和船」。渡し船をイメージしたものか(右岸下流)。同。
その3「和船」。(左岸―大田区側―上流)。
左岸・大田区側。「国道1号線・第1京浜」右側の一方通行の道が旧東海道。
案内用の道標が設置されている。
そこから多摩川方向を望む。蒲田方向に、細い道が残されている。
・・・
振り返る。
対岸の高層マンション。
右から「リヴァリエA棟、B棟、C棟」(川崎市川崎区港町)。
大田区側(「大田区東・南六郷)はグラウンドが何面も。
雑色(ぞうしき)ポンプ所。
※「雑色」は鎌倉時代に宮中の雑役を務めた地名だが、明治末期に六郷村に編入され、地名は駅名のみに残る。
対岸は、「味の素」の工場群。
ジョギングする人、散歩する人、サイクリング・・・。
河川敷に下りてみます。
芦のそよぐ水辺。
多摩川の流れ。
対岸は、「味の素」の工場群(川崎市川崎区鈴木町)。
※「鈴木町」(「京急大師線」の駅名にもなっています)のいわれは、帰途にします。
ナヨクサフジ。
「多摩川」の河川敷で、これまでもよく見かけた花です。
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