
「鳥沢宿」のような印象です。

その先、右手に「御膳水(ごぜんすい)」があり、その奥に与謝野晶子の歌碑があります。

この水は七里ヶ岩から出る湧水であり、明治天皇がご巡幸の折に使われた、御膳水であります。
その御膳水と、あと2箇所の湧水を利用して、明治39年頃、蔦木宿の街道筋に、16箇所の水道施設を造り、飲料水として昭和26・27年頃まで使用されていたものです。
当時の施設の石が保存されていたのでここに復元いたしました。
・与謝野晶子歌碑
白じらと並木のもとの石の樋が秋の水吐く蔦木宿かな
歌碑の書は与謝野晶子の孫である与謝野馨の手によって書かれています。
(13:05)その先、左側(西側)に「西桝形跡碑」が建っている。宿の北口に当たる「枡形道路」が残っています。

道路の中頃には、石仏群。
サイカチ。
川除古木(かわよけこぼく)。
釜無川の氾濫による水害から蔦木宿を守るために、宿の上の入口付近につくられた信玄堤と呼ばれる堤防があります。川除古木は、この信玄堤と共に水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、現存しているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株です。
明治31年(1898)の大水のときには、ここの大木を切り倒して集落内に向かおうとする大水の向きをかえ、集落を水害から守ったといわれています。
そのまま進むと、まもなく国道に出ますが、その手前・左にある小道に入ります。この小道が旧道ということですが。

(13:12)国道20号線には「東京から175」㎞」ポスト。
国道20号線をしばらく進むと、左手に「岩田屋建材」。砂利が大量に山積みされています。旧道はそこを左に入って土手沿いに進んでいたようです。 が、その道が再び国道に合流する付近には高圧電流が流れるネットが張ってあり、そこを抜けるには大変危険! そのまま国道を進んだ方が無難です。

(13:26)旧道と国道が合流する付近に「庚申塚」などが。
しばらく国道を歩きます。
右手には「ドライブイン赤石」。
(13:33)その先、道路下、左手に「平岡一里塚」。
日本橋から41里目。
(13:40)しばらく行くと、右手に「机」方面へ進む坂道があります。その坂を上って振り返ると、遠くに富士山(↓)が山の向こうに見えました。

けっこうな上り坂が続きます。
右手にあるおうち。
上り坂を進み、「旧落合小学校・現落合保育園」(小学校は2012年3月31日をもって閉校)の先で、小川を越します。
集落を振り返る。
(13:54)やがて、「国道20号線」を見下ろす地点へ。左眼下は水田、右手は崖になります。

国道に合流し、「瀬沢大橋」に向かいます。
来た道を振り返って望む。
(14:04)橋を渡ったら、国道から離れ、川に沿って左手の道に入り、旧道を上って行きます。

久々に見かけた「飛び出し坊や」。
旧家らしい家並み。瀬沢の集落。
珍しいベンガラ塗り。
軒下には「めどでこ」。
教えて!御柱祭(6)
[Q]メドデコとはどんな物?
諏訪大社御柱祭で「メドデコ」「メドデコ乗り」といった言葉を耳にします。どんな物なのでしょうか。
メドデコは、御柱の前部と後部に穴をあけて差し込み、V字形に取り付ける木の柱を指します。漢字を当てると「目処梃子(めどでこ)」。それぞれのメドデコに氏子たちが鈴なりに乗って気勢を上げ、おんべを振りながら進む姿は上社側だけの勇壮な光景です。
今回の御柱祭で諏訪市中洲・湖南地区の曳行(えいこう)の統括責任者「斧長(よきちょう)」を務める守屋幹彦さん(56)の解説では、上社側の曳行路がまだ舗装されていなかった時代、八ケ岳山麓の火山灰を含み、ぬかるんだ土から脱出するために、メドデコを左右に振り、勢いを付けて前に進んだのが始まりといいます。他の大総代らによると、明治期ごろに導入され、やがて氏子が乗るようになったようです。
御柱はモミの木ですが、メドデコは丈夫なナラの木。かつては10メートルを超え、1本に10人以上乗せた地区もありました。しかし、狭い道で着脱するなど祭りの進行の妨げとなる面もあり、今回の御柱祭では6メートル以下に制限します。
(「信濃毎日新聞」2016年2月10日掲載)

その先、右手に「御膳水(ごぜんすい)」があり、その奥に与謝野晶子の歌碑があります。


この水は七里ヶ岩から出る湧水であり、明治天皇がご巡幸の折に使われた、御膳水であります。
その御膳水と、あと2箇所の湧水を利用して、明治39年頃、蔦木宿の街道筋に、16箇所の水道施設を造り、飲料水として昭和26・27年頃まで使用されていたものです。
当時の施設の石が保存されていたのでここに復元いたしました。
・与謝野晶子歌碑
白じらと並木のもとの石の樋が秋の水吐く蔦木宿かな
歌碑の書は与謝野晶子の孫である与謝野馨の手によって書かれています。
(13:05)その先、左側(西側)に「西桝形跡碑」が建っている。宿の北口に当たる「枡形道路」が残っています。

道路の中頃には、石仏群。

サイカチ。

川除古木(かわよけこぼく)。
釜無川の氾濫による水害から蔦木宿を守るために、宿の上の入口付近につくられた信玄堤と呼ばれる堤防があります。川除古木は、この信玄堤と共に水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、現存しているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株です。
明治31年(1898)の大水のときには、ここの大木を切り倒して集落内に向かおうとする大水の向きをかえ、集落を水害から守ったといわれています。
そのまま進むと、まもなく国道に出ますが、その手前・左にある小道に入ります。この小道が旧道ということですが。


(13:12)国道20号線には「東京から175」㎞」ポスト。

国道20号線をしばらく進むと、左手に「岩田屋建材」。砂利が大量に山積みされています。旧道はそこを左に入って土手沿いに進んでいたようです。 が、その道が再び国道に合流する付近には高圧電流が流れるネットが張ってあり、そこを抜けるには大変危険! そのまま国道を進んだ方が無難です。


(13:26)旧道と国道が合流する付近に「庚申塚」などが。

しばらく国道を歩きます。

右手には「ドライブイン赤石」。

(13:33)その先、道路下、左手に「平岡一里塚」。

日本橋から41里目。
(13:40)しばらく行くと、右手に「机」方面へ進む坂道があります。その坂を上って振り返ると、遠くに富士山(↓)が山の向こうに見えました。

けっこうな上り坂が続きます。


上り坂を進み、「旧落合小学校・現落合保育園」(小学校は2012年3月31日をもって閉校)の先で、小川を越します。

(13:54)やがて、「国道20号線」を見下ろす地点へ。左眼下は水田、右手は崖になります。


国道に合流し、「瀬沢大橋」に向かいます。

来た道を振り返って望む。

(14:04)橋を渡ったら、国道から離れ、川に沿って左手の道に入り、旧道を上って行きます。

久々に見かけた「飛び出し坊や」。

旧家らしい家並み。瀬沢の集落。

珍しいベンガラ塗り。
軒下には「めどでこ」。
教えて!御柱祭(6)
[Q]メドデコとはどんな物?
諏訪大社御柱祭で「メドデコ」「メドデコ乗り」といった言葉を耳にします。どんな物なのでしょうか。
メドデコは、御柱の前部と後部に穴をあけて差し込み、V字形に取り付ける木の柱を指します。漢字を当てると「目処梃子(めどでこ)」。それぞれのメドデコに氏子たちが鈴なりに乗って気勢を上げ、おんべを振りながら進む姿は上社側だけの勇壮な光景です。
今回の御柱祭で諏訪市中洲・湖南地区の曳行(えいこう)の統括責任者「斧長(よきちょう)」を務める守屋幹彦さん(56)の解説では、上社側の曳行路がまだ舗装されていなかった時代、八ケ岳山麓の火山灰を含み、ぬかるんだ土から脱出するために、メドデコを左右に振り、勢いを付けて前に進んだのが始まりといいます。他の大総代らによると、明治期ごろに導入され、やがて氏子が乗るようになったようです。
御柱はモミの木ですが、メドデコは丈夫なナラの木。かつては10メートルを超え、1本に10人以上乗せた地区もありました。しかし、狭い道で着脱するなど祭りの進行の妨げとなる面もあり、今回の御柱祭では6メートル以下に制限します。
(「信濃毎日新聞」2016年2月10日掲載)
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