仙台堀川は、17世紀前半の寛永年間に深川漁師町開発で開削された運河で、隅田川からの入り口付近の北岸にあった仙台侯松平陸奥守の蔵屋敷に、米などの特産物を運び入れたことから、「仙台堀」の名がついたといわれています。
ただし、隅田川河口付近のこの辺りは、もともと地盤の低いところで、地面を掘削して運河をつくるというよりも(もう少し隅田川上流にあった「芭蕉庵」もたびたび出水で悩まされたようです)、周りからの浸水を防ぐために土手を固めて、運河・堀割とした、というようにとらえた方がいいようです。
この川は、江戸時代から米を中心とした食糧および木材等の運搬に利用され、少し北に位置する「小名木川」とともに、水運の要として機能してきました。
戦後、仙台堀川の流れている一帯は、付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しく、海抜ゼロメートル地帯となっていました。
川より低い土地が出来上がり、特に仙台堀川一帯は台風の時などは護岸壁(このなごりが、公園の外郭として残っています)を超えて川から水が溢れる危険がありました。そこで、治水対策として川を埋め立てて、埋め立てたスペースを公園とする工事が進められました。
工事は1978(昭和53)年に始まり、1986(昭和61)年に全面的に完成し、仙台堀川の多くは、「仙台堀親水公園」と大きく変わりました。
総延長は約3700メートル。細長い公園で面積は約103,850m²にも及び、都内で一番大きな親水公園になっています。西は大横川合流地点で、北は小名木川合流地点まで。西の大横川合流地点より先はまた仙台堀川として河川になっています。
各地区ごとにテーマがあり、そのテーマごとに趣向を凝らした造りとなっています。途中で「横十間川親水公園」と合流しています。
公園には明治通りなどの橋が13本も架かっていますが、中でも異色の橋は、JRの貨物線(新小岩~越中島)。自転車で通行する場合は、背をかがめないとぶつかるほどの低さです。
写真は、「横十間川親水公園」との合流地点。木々に覆われ、静かな水辺に水鳥が泳いでいます。
ただし、隅田川河口付近のこの辺りは、もともと地盤の低いところで、地面を掘削して運河をつくるというよりも(もう少し隅田川上流にあった「芭蕉庵」もたびたび出水で悩まされたようです)、周りからの浸水を防ぐために土手を固めて、運河・堀割とした、というようにとらえた方がいいようです。
この川は、江戸時代から米を中心とした食糧および木材等の運搬に利用され、少し北に位置する「小名木川」とともに、水運の要として機能してきました。
戦後、仙台堀川の流れている一帯は、付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しく、海抜ゼロメートル地帯となっていました。
川より低い土地が出来上がり、特に仙台堀川一帯は台風の時などは護岸壁(このなごりが、公園の外郭として残っています)を超えて川から水が溢れる危険がありました。そこで、治水対策として川を埋め立てて、埋め立てたスペースを公園とする工事が進められました。
工事は1978(昭和53)年に始まり、1986(昭和61)年に全面的に完成し、仙台堀川の多くは、「仙台堀親水公園」と大きく変わりました。
総延長は約3700メートル。細長い公園で面積は約103,850m²にも及び、都内で一番大きな親水公園になっています。西は大横川合流地点で、北は小名木川合流地点まで。西の大横川合流地点より先はまた仙台堀川として河川になっています。
各地区ごとにテーマがあり、そのテーマごとに趣向を凝らした造りとなっています。途中で「横十間川親水公園」と合流しています。
公園には明治通りなどの橋が13本も架かっていますが、中でも異色の橋は、JRの貨物線(新小岩~越中島)。自転車で通行する場合は、背をかがめないとぶつかるほどの低さです。
写真は、「横十間川親水公園」との合流地点。木々に覆われ、静かな水辺に水鳥が泳いでいます。
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