5月3日。晴れ。第1日目。
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(8:00)「千住市場問屋街(やっちゃ場)」。「旧日光道中」標識と通りのようす。朝早いせいか、静かな町並み。
「墨堤通り」(旧「掃部堤」跡)を渡ると、この付近が「千住掃部(かもん)宿」。左手に小公園があり、りっぱな解説板。
千住掃部宿
千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永2年(1625)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住1丁目から5丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、4キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。
掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。
掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり、繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学、医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和6年(1931)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。
昭和20年4月13日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。
平成27年3月 千住仲町まちづくり協議会・うるおいのあるまちづくり部会
「旧日光街道」(この道路愛称名は公募によって選ばれました・足立区)。看板は「かもん宿診療所」。
なお、この「旧日光街道」は、いったん荒川によって遮られますが、その先もほぼ直線で、延々と足立区と草加市の境まで続きます。道中歩きには大助かりです。
ここで「千住宿」の紹介(以下、「Wikipedia」参照)
千住宿
日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町。千住宿は、武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(現隅田川)曲流部に設置された宿場町。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
水戸街道はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差しており運輸・交通の便に有効な場所であったことから、千住大橋沿いには橋戸河岸が置かれ、 千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。 千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。
千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。
当時の千住宿は、現在の足立区千住一~五丁目、千住仲町、千住橋戸町、そして荒川区南千住町名に相当する。
文禄3年(1594年)荒川(現隅田川)に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展した。
『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった。その他、
掃部宿には「一里塚」、「高札場」、千住一丁目に「問屋場 貫目改所」が設置された。
千住宿の賑わいは、『新編武蔵風土記稿』によると「駅の広さ東西14.5町、南北35町ありて、宿並間数1,256間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり」とある。江戸市街の喉もとで奥州街道、水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったという。 幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。 文政4年(1821年)の調べによると,江戸参勤の大名は,日光街道4、奥州街道37,水戸街道23,計64の大名が千住の宿を往来している。
江戸時代、千住宿に岡場所があった。岡場所は、唯一の幕府公認の遊郭である吉原に対して、それ以外の非公認の遊郭の総称である。江戸市中に私娼を置くことは御法度であったが、実際には千住宿・品川宿・板橋宿・内藤新宿といった江戸四宿には、準公認の飯盛女(飯売女・飯売)が置かれていた。
明治時代になると、岡場所は遊郭となった。1883年(明治16年)の千住宿の売娼妓数374、買客数43,000、1888年(明治21年)にはそれぞれ466、65,000との記録がある。いずれも四宿においては内藤新宿、板橋宿を上回っていた。
慶安4年(1651年)千住宿小塚原町(現荒川区南千住)には、「小塚原刑場」が位置づけら、小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が行われ、合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという。
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葛飾北斎『冨嶽三十六景 武州千住』 『冨嶽三十六景 隅田川関屋の里 』
「千住宿」は松尾芭蕉の『奥の細道』を抜きにしては語れません。
『奥の細道』
・・・弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪(なみだ)
これを矢立の初めとして、行く道なを進まず。
人々は途中に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送るなるべし。
さて、もう少し北に向かうと、賑やかな商店街になります。その手前、広い通りをはさんで「高札場跡」「一里塚跡」(日本橋から2里目)、さらに「問屋場跡」「貫目改所跡」碑がそれぞれあります。
「高札場」跡。
「一里塚」跡。
「千住宿問屋場・貫目改所」。
北千住駅前の通りを横切り、繁華街に入っていきます。左手に「千住宿本陣跡」碑。
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その付近の街並み。
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横山家住宅
宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋問屋を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行きが15間あり、大きくどっしりとした桟瓦葺きの2階建である。
広い土間、商家の書院造りと言われる帳場2階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
今も続く「千住絵馬屋」吉田家。
千住名物「かどやの槍かけだんご」
「東へ 水戸佐倉街道」との分岐標。
旧日光街道は「荒川放水路(現・荒川)」開削によって分断されましたが、江戸時代はここから北西方向に進み、「川田橋」のところで今度はほぼ北へ進む道となります。
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荒川土手近くに設置されていた道標。「北 下妻道。北西 日光道中。」
荒川に架かる「千住新橋」を渡ります。
現・日光街道「9㎞」ポスト。
橋を渡り終えてから、左に進みます。土手上でも首都高下の道でも可。「川田橋」交差点、「善立寺」のところを右に進みます。
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「旧日光街道」。ここからは北に向かいます。
しばらく進むと、左手に小さな石不動尊の祠と「子育八彦尊道 是より二丁行く」という道標。
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「エルソフィア前」という交差点を通過すると、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の梅島駅に。
ここから直線道路で「淵江小学校」の先まで約3㎞続く。
「環七」を横切る島根交差点の先には「将軍家御成橋 御成道松並木」跡碑。
一直線に伸びる「旧日光街道」。
(9:29)左手奥に「島根鷲神社」。
(9:58)「足立清掃工場」の大きな煙突が左手に見え始めると、バス停に「大曲」とあります。その名の通り、いったん旧道は右に大きく曲がって行きます。
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わずかで先ほどの道と合流し、「国道4号線(日光街道)」のバイパス下をくぐると「毛長川」を水神橋で渡り、いよいよ東京都足立区から埼玉県草加市へと入ります。
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(10:24)草加市入り。
東武スカイツリーラインの谷塚駅前には「富士浅間神社」。しばらく進むと「吉町5丁目」交差点の右角に、「火あぶり地蔵尊」。
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(11:15)しばらく進むと、Y字路になります。左の狭い、草加駅方向への道が旧日光街道。
「今様草加宿」の大きな標識が目印。
「草加市役所」前から来た道を振り返って望む。
小さな祠と案内板。「おくのほそ道の風景地 ↑草加松原」。
宿内のようす。
駅前通り手前の右手・草むらの中に日光街道・葛西道と刻まれた道しるべの石塔。
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しばらく進んだ右手には国の登録有形文化財の「藤城家住宅店舗・内蔵・外蔵」があります。
藤城家住宅は五街道の一つである日光街道の宿場・旧草加宿のほぼ中央に位置しています。
街道に面して建つ「店舗」は2階建てで、1階の内部は張り出した庇部分を巧みに取り込み、土間と畳敷きの帳場を設け、その先から上がる2階は、畳敷きの座敷となっています。開口部は1階がガラス格子、2階は障子と縦格子で装飾され、風格のある昭和初期の商家造りとなっています。
その後方には、母屋に組み込まれた重厚な土蔵造りの「内蔵」と明治初期の建造と伝える「外蔵」が並び、奥行きの深い、草加宿の典型的な町屋景観をよく残しています。
このように、江戸時代以来の宿場の面影を今に伝える藤城家の各建造物は、歴史的にも景観的にも大変貴重なものであり、「国土の歴史的景観に寄与するもの」として国の有形文化財(建造物)として登録されました。
平成26年3月 草加市教育委員会
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(以下「Wikipedia」参照)
草加宿
日光街道および奥州街道の2番目の宿駅(宿場町)で、武蔵国足立郡にあった。現在の埼玉県草加市中心部に相当する。 宿場の位置は、現在の草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から神明一丁目の草加六丁目橋付近までの一帯。
慶長元年(1596年)、徳川氏は“陸奥の駅路”奥州街道を定め、慶長7年(1602年)、伝馬人足の設置および継立を義務づけた宿駅制度を設けた。奥州街道・日光街道の千住から越ヶ谷間は、この一帯の街道筋は沼地が多かったため、これを迂回し花俣(現在の東京都足立区花畑)から八条(八潮市)に出て古利根川と元荒川の自然堤防に沿って越ケ谷に至る経路を取っていた。
慶長11年(1606年)になって、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この新道の工事の完成に当時の将軍徳川秀忠は喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」と下知した。これを「草加」という地名の由来とする言い伝えがある。
草加宿の開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭であり、旅籠屋も5軒から6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が各1軒ずつ軒を並べたもので、あとは農家であったが徐々に人口が増え、元禄期には戸数120軒になった。 正徳3年(1713年)には、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられ、五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁栄するようになった。
天保14年(1843年)によると、南北12町(約1.3km)の規模となり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒(大2、中30、小35)、人口3,619人であった。これは、同じ日光道中の宿場のうち、城下町に併設されていた宇都宮宿と古河宿を除けば、千住宿、越ヶ谷宿、幸手宿に次ぐ規模であった。
※草加せんべい
元々この一帯では稲作が盛んに行われており、農家では蒸した米をつぶし丸めて干したものに塩をまぶして焼き、間食として食べていた。江戸期に入り、この地に宿場が開かれ発展していくと、この塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出され、各地に広まることとなる。その後、利根川流域(千葉県野田市など)で生産された醤油で味をつけるようになり、現在の草加煎餅の原型となったといわれている。
現在、草加市内にはせんべいの製造所や販売所が60軒以上に及び、現在も草加の代名詞となっている。製造工程は機械化されつつあるが、昔ながらの天日干しや手焼きで製造する所も少なからず存在する。
※草加宿と芭蕉
深川を出た芭蕉は千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めます。「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」 こうして芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8丁(8.8km)を歩き、日光街道第2の宿駅だった草加にたどり着きました。
芭蕉が訪れたころの草加宿は、戸数120軒ほどの小規模な宿場町でした。開宿当時の草加宿は、戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5~6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、あとはすべて農家だったそうです。芭蕉が訪れた頃は、草加宿が賑わい始める前だったのですね。きっと、のどかな風景が広がっていた事でしょう。
「草加宿」の本陣は、宝暦年間までは「大川本陣」、その後、明治になるまでは「清水本陣」ということで二つの本陣跡碑が向かい合って建っています。
大川本陣(~宝暦年間) 清水本陣(宝暦年間~明治初期)
この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
注:「宝暦年間」=1751年~1764年。
この一画は、「おせん茶屋」。
街角修景事業として神明1丁目の児童公園を改修した小公園。昭和62年3月に完成。旧日光街道に面し、かつての宿場の雰囲気をただよわせる。名前は草加せんべいの伝記上の創始者「おせんさん」にちなむ。
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「草加せんべい」は円形の醤油味の堅焼きで、「草加せんべいの醤油のかおり」はかおり風景100選(環境省)に選ばれています。
「元祖源兵衛せんべい」。
この界隈には他にもたくさんお煎餅屋さんが店を連ねています。
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久野家(大津屋)住宅[店舗部分]
草加宿では街道がほぼ直線状に設けられたが、北の端では曲輪のように大きくカーブする。久野家はその曲がり角に位置している。記録によれば開宿以来四回程の大火や震災に見舞われ、そのたびに蘇ってきた。家伝によればこの家は安政2年(1855)の江戸大地震に耐えたという。幸いにも明治3年(1870)の大火も免れた。以来この場所で宿場の変遷を見続けてきた。
曲輪の出口に、「神明宮」。その鳥居礎石に几号と解説碑があります。
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「不」の記号は明治9(1876)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年8月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。
記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、この水準点の標高は、4.5171メートルでした。
その後、明治17年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます。
(12:40)「曲輪」を過ぎると、再び「旧国道4号線(「日光道中」)」に合流して一路、蒲生に向かいます。ここからが「綾瀬川」沿いに、景勝地・「草加松原」の遊歩道が続きます。その向かい側に小公園。そこには「奥の細道」で芭蕉のお供をした「曽良」の像があります。
松尾芭蕉翁像と河合曾良像
河合曾良像とこの先の札場河岸公園内の松尾芭蕉翁像とは100㍍程離れ、建立された年も異なりますが、二つの像は対をなす作品です。これらの像は、元禄2年弥生27日(1689年5月16日)、草加に奥の細道への歩みを印した俳人・松尾芭蕉と門人・河合曾良の旅姿を表現しています。両像とも草加出身の彫刻家・麦倉忠彦氏の作品です。芭蕉翁像は、1989年に奥の細道旅立ち300年を記念して市民団体「芭蕉像をつくる会」が建立しました。一方、曾良像は、2008年に草加市制50周年を記念して市民団体「河合曾良像をつくる会」が建立しました。いずれも市民からの浄財を募って建設資金としています。芭蕉翁像は友人や門弟たちの残る江戸への名残を惜しむかのように見返りの姿をし、曾良像は先を行く芭蕉を案じて、何かを呼びかけているようです。曾良像の建立を報じる広報そうかには「20年前に芭蕉翁像は制作されており、ようやく2体がめぐり会いました」と記され、制作者や市民の息の長い活動と情熱を讃えています。
左に折れて橋を渡ると、右手が「綾瀬川」沿いに「札場河岸公園」。ここはよく整備された公園で、「望楼」「芭蕉像」などや休憩施設、さらに甚左衛門堰などがあります。休憩するにはもってこいの場所です。
望楼
望楼とは、遠くを見渡すための櫓のことをいいます。常に見張りを置いてまちなかの火事発生の発見に努めるための施設でした。
この望楼は、石垣の上に埼玉県産のスギ、ヒノキを使った木造の五角形の建築物で、高さは11.1mあり、内部は螺旋階段になっています。午前9時から午後5時までの間は、自由に内部に入ることができ、草加市を一望することができます。
芭蕉像は先ほどの曽良像と相対するかのように江戸方向を向いています。
国指定名勝「おくのほそ道の風景地草加松原」
この国指定名勝は、松尾芭蕉が弟子・河合曾良と「おくのほそ道」の旅で記した一群の名所、由緒、来歴の地からなる一体の風致景観であり、この「草加松原」も後世の人々の風景官に影響を与えているものとして、「殺生石」「黒塚の岩屋」「大垣船町川湊」等と合わせて指定されました。
「草加松原」は、634本の松が植えられた綾瀬川沿いに延びる全町1.5㎞の石畳の遊歩道として整備されており、江戸時代の舟運の荷の上げ下げ場として復元された札場河岸公園や対岸に整備された広さ約4.1㏊の綾瀬川左岸広場と一体となって、市民の憩いの場やレクリエーションの場としても親しまれています。
「句碑」。「巡礼や草加あたりを帰る雁 (高浜)虚子」。
「綾瀬川」。
かつては綾瀬川とその脇にあった用水との間を歩いていたようです。用水路は現在は「旧国道4号線」の拡幅で暗渠。
汚染度が全国で1、2位を争うほどだった(特に都内に入ってからは)「綾瀬川」もここはきれいな流れになり、時折、大きな魚が飛び跳ねる姿も見られます。
ここから1㎞以上にわたって松並木の道になります。ジョギング、散歩、犬を連れて、・・・さまざまな人々が行き交う。思い思い、のんびりと歩いています。途中に句碑や石碑が設置されています。
「矢立橋」。太鼓橋になっています。芭蕉の「奥の細道」にあやかって名付けられた橋。
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橋名
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり 松尾芭蕉 奥の細道」
お隣には「奥の細道国際シンポジウム ドナルド・キーン記念植樹」。
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百代橋から南を望む。 北を望む。
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松尾芭蕉文学碑。
ことし、元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共、耳にふれていまだ目に見ぬさかひ、若し生(き)て帰らばと、定めなき頼(み)の末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着(き)にけり。痩骨の肩にかかれる物先(づ)くるしむ。
只身すがらにと出(で)立(ち)侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ ゆかた 雨具 墨 筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打(ち)捨てがたくて、路次の煩(ひ)となれるこそわりなけれ。
西村本「おくのほそ道」より
「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり 秋桜子」
まもなく松並木も終わりを告げます。
振り返って望む。
(13:28)「外環」陸橋をくぐると、絵タイル。
草加と「おくのほそ道」
俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄2年3月27日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
この絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
平成8年3月吉日
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もう少し「綾瀬川」沿いに歩き、西に折れて東武線「新田」駅に向かいました。
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(8:00)「千住市場問屋街(やっちゃ場)」。「旧日光道中」標識と通りのようす。朝早いせいか、静かな町並み。
「墨堤通り」(旧「掃部堤」跡)を渡ると、この付近が「千住掃部(かもん)宿」。左手に小公園があり、りっぱな解説板。
千住掃部宿
千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永2年(1625)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住1丁目から5丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、4キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。
掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。
掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり、繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学、医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和6年(1931)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。
昭和20年4月13日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。
平成27年3月 千住仲町まちづくり協議会・うるおいのあるまちづくり部会
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なお、この「旧日光街道」は、いったん荒川によって遮られますが、その先もほぼ直線で、延々と足立区と草加市の境まで続きます。道中歩きには大助かりです。
ここで「千住宿」の紹介(以下、「Wikipedia」参照)
千住宿
日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町。千住宿は、武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(現隅田川)曲流部に設置された宿場町。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
水戸街道はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差しており運輸・交通の便に有効な場所であったことから、千住大橋沿いには橋戸河岸が置かれ、 千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。 千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。
千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。
当時の千住宿は、現在の足立区千住一~五丁目、千住仲町、千住橋戸町、そして荒川区南千住町名に相当する。
文禄3年(1594年)荒川(現隅田川)に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展した。
『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった。その他、
掃部宿には「一里塚」、「高札場」、千住一丁目に「問屋場 貫目改所」が設置された。
千住宿の賑わいは、『新編武蔵風土記稿』によると「駅の広さ東西14.5町、南北35町ありて、宿並間数1,256間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり」とある。江戸市街の喉もとで奥州街道、水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったという。 幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。 文政4年(1821年)の調べによると,江戸参勤の大名は,日光街道4、奥州街道37,水戸街道23,計64の大名が千住の宿を往来している。
江戸時代、千住宿に岡場所があった。岡場所は、唯一の幕府公認の遊郭である吉原に対して、それ以外の非公認の遊郭の総称である。江戸市中に私娼を置くことは御法度であったが、実際には千住宿・品川宿・板橋宿・内藤新宿といった江戸四宿には、準公認の飯盛女(飯売女・飯売)が置かれていた。
明治時代になると、岡場所は遊郭となった。1883年(明治16年)の千住宿の売娼妓数374、買客数43,000、1888年(明治21年)にはそれぞれ466、65,000との記録がある。いずれも四宿においては内藤新宿、板橋宿を上回っていた。
慶安4年(1651年)千住宿小塚原町(現荒川区南千住)には、「小塚原刑場」が位置づけら、小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が行われ、合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという。
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葛飾北斎『冨嶽三十六景 武州千住』 『冨嶽三十六景 隅田川関屋の里 』
「千住宿」は松尾芭蕉の『奥の細道』を抜きにしては語れません。
『奥の細道』
・・・弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪(なみだ)
これを矢立の初めとして、行く道なを進まず。
人々は途中に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送るなるべし。
さて、もう少し北に向かうと、賑やかな商店街になります。その手前、広い通りをはさんで「高札場跡」「一里塚跡」(日本橋から2里目)、さらに「問屋場跡」「貫目改所跡」碑がそれぞれあります。
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北千住駅前の通りを横切り、繁華街に入っていきます。左手に「千住宿本陣跡」碑。
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その付近の街並み。
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横山家住宅
宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋問屋を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行きが15間あり、大きくどっしりとした桟瓦葺きの2階建である。
広い土間、商家の書院造りと言われる帳場2階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
今も続く「千住絵馬屋」吉田家。
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千住名物「かどやの槍かけだんご」
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旧日光街道は「荒川放水路(現・荒川)」開削によって分断されましたが、江戸時代はここから北西方向に進み、「川田橋」のところで今度はほぼ北へ進む道となります。
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荒川に架かる「千住新橋」を渡ります。
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橋を渡り終えてから、左に進みます。土手上でも首都高下の道でも可。「川田橋」交差点、「善立寺」のところを右に進みます。
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しばらく進むと、左手に小さな石不動尊の祠と「子育八彦尊道 是より二丁行く」という道標。
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「エルソフィア前」という交差点を通過すると、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の梅島駅に。
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「環七」を横切る島根交差点の先には「将軍家御成橋 御成道松並木」跡碑。
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(9:29)左手奥に「島根鷲神社」。
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(9:58)「足立清掃工場」の大きな煙突が左手に見え始めると、バス停に「大曲」とあります。その名の通り、いったん旧道は右に大きく曲がって行きます。
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わずかで先ほどの道と合流し、「国道4号線(日光街道)」のバイパス下をくぐると「毛長川」を水神橋で渡り、いよいよ東京都足立区から埼玉県草加市へと入ります。
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東武スカイツリーラインの谷塚駅前には「富士浅間神社」。しばらく進むと「吉町5丁目」交差点の右角に、「火あぶり地蔵尊」。
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(11:15)しばらく進むと、Y字路になります。左の狭い、草加駅方向への道が旧日光街道。
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宿内のようす。
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駅前通り手前の右手・草むらの中に日光街道・葛西道と刻まれた道しるべの石塔。
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しばらく進んだ右手には国の登録有形文化財の「藤城家住宅店舗・内蔵・外蔵」があります。
藤城家住宅は五街道の一つである日光街道の宿場・旧草加宿のほぼ中央に位置しています。
街道に面して建つ「店舗」は2階建てで、1階の内部は張り出した庇部分を巧みに取り込み、土間と畳敷きの帳場を設け、その先から上がる2階は、畳敷きの座敷となっています。開口部は1階がガラス格子、2階は障子と縦格子で装飾され、風格のある昭和初期の商家造りとなっています。
その後方には、母屋に組み込まれた重厚な土蔵造りの「内蔵」と明治初期の建造と伝える「外蔵」が並び、奥行きの深い、草加宿の典型的な町屋景観をよく残しています。
このように、江戸時代以来の宿場の面影を今に伝える藤城家の各建造物は、歴史的にも景観的にも大変貴重なものであり、「国土の歴史的景観に寄与するもの」として国の有形文化財(建造物)として登録されました。
平成26年3月 草加市教育委員会
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(以下「Wikipedia」参照)
草加宿
日光街道および奥州街道の2番目の宿駅(宿場町)で、武蔵国足立郡にあった。現在の埼玉県草加市中心部に相当する。 宿場の位置は、現在の草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から神明一丁目の草加六丁目橋付近までの一帯。
慶長元年(1596年)、徳川氏は“陸奥の駅路”奥州街道を定め、慶長7年(1602年)、伝馬人足の設置および継立を義務づけた宿駅制度を設けた。奥州街道・日光街道の千住から越ヶ谷間は、この一帯の街道筋は沼地が多かったため、これを迂回し花俣(現在の東京都足立区花畑)から八条(八潮市)に出て古利根川と元荒川の自然堤防に沿って越ケ谷に至る経路を取っていた。
慶長11年(1606年)になって、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この新道の工事の完成に当時の将軍徳川秀忠は喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」と下知した。これを「草加」という地名の由来とする言い伝えがある。
草加宿の開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭であり、旅籠屋も5軒から6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が各1軒ずつ軒を並べたもので、あとは農家であったが徐々に人口が増え、元禄期には戸数120軒になった。 正徳3年(1713年)には、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられ、五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁栄するようになった。
天保14年(1843年)によると、南北12町(約1.3km)の規模となり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒(大2、中30、小35)、人口3,619人であった。これは、同じ日光道中の宿場のうち、城下町に併設されていた宇都宮宿と古河宿を除けば、千住宿、越ヶ谷宿、幸手宿に次ぐ規模であった。
※草加せんべい
元々この一帯では稲作が盛んに行われており、農家では蒸した米をつぶし丸めて干したものに塩をまぶして焼き、間食として食べていた。江戸期に入り、この地に宿場が開かれ発展していくと、この塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出され、各地に広まることとなる。その後、利根川流域(千葉県野田市など)で生産された醤油で味をつけるようになり、現在の草加煎餅の原型となったといわれている。
現在、草加市内にはせんべいの製造所や販売所が60軒以上に及び、現在も草加の代名詞となっている。製造工程は機械化されつつあるが、昔ながらの天日干しや手焼きで製造する所も少なからず存在する。
※草加宿と芭蕉
深川を出た芭蕉は千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めます。「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」 こうして芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8丁(8.8km)を歩き、日光街道第2の宿駅だった草加にたどり着きました。
芭蕉が訪れたころの草加宿は、戸数120軒ほどの小規模な宿場町でした。開宿当時の草加宿は、戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5~6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、あとはすべて農家だったそうです。芭蕉が訪れた頃は、草加宿が賑わい始める前だったのですね。きっと、のどかな風景が広がっていた事でしょう。
「草加宿」の本陣は、宝暦年間までは「大川本陣」、その後、明治になるまでは「清水本陣」ということで二つの本陣跡碑が向かい合って建っています。
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大川本陣(~宝暦年間) 清水本陣(宝暦年間~明治初期)
この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
注:「宝暦年間」=1751年~1764年。
この一画は、「おせん茶屋」。
街角修景事業として神明1丁目の児童公園を改修した小公園。昭和62年3月に完成。旧日光街道に面し、かつての宿場の雰囲気をただよわせる。名前は草加せんべいの伝記上の創始者「おせんさん」にちなむ。
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「草加せんべい」は円形の醤油味の堅焼きで、「草加せんべいの醤油のかおり」はかおり風景100選(環境省)に選ばれています。
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この界隈には他にもたくさんお煎餅屋さんが店を連ねています。
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久野家(大津屋)住宅[店舗部分]
草加宿では街道がほぼ直線状に設けられたが、北の端では曲輪のように大きくカーブする。久野家はその曲がり角に位置している。記録によれば開宿以来四回程の大火や震災に見舞われ、そのたびに蘇ってきた。家伝によればこの家は安政2年(1855)の江戸大地震に耐えたという。幸いにも明治3年(1870)の大火も免れた。以来この場所で宿場の変遷を見続けてきた。
曲輪の出口に、「神明宮」。その鳥居礎石に几号と解説碑があります。
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「不」の記号は明治9(1876)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年8月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。
記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、この水準点の標高は、4.5171メートルでした。
その後、明治17年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます。
(12:40)「曲輪」を過ぎると、再び「旧国道4号線(「日光道中」)」に合流して一路、蒲生に向かいます。ここからが「綾瀬川」沿いに、景勝地・「草加松原」の遊歩道が続きます。その向かい側に小公園。そこには「奥の細道」で芭蕉のお供をした「曽良」の像があります。
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松尾芭蕉翁像と河合曾良像
河合曾良像とこの先の札場河岸公園内の松尾芭蕉翁像とは100㍍程離れ、建立された年も異なりますが、二つの像は対をなす作品です。これらの像は、元禄2年弥生27日(1689年5月16日)、草加に奥の細道への歩みを印した俳人・松尾芭蕉と門人・河合曾良の旅姿を表現しています。両像とも草加出身の彫刻家・麦倉忠彦氏の作品です。芭蕉翁像は、1989年に奥の細道旅立ち300年を記念して市民団体「芭蕉像をつくる会」が建立しました。一方、曾良像は、2008年に草加市制50周年を記念して市民団体「河合曾良像をつくる会」が建立しました。いずれも市民からの浄財を募って建設資金としています。芭蕉翁像は友人や門弟たちの残る江戸への名残を惜しむかのように見返りの姿をし、曾良像は先を行く芭蕉を案じて、何かを呼びかけているようです。曾良像の建立を報じる広報そうかには「20年前に芭蕉翁像は制作されており、ようやく2体がめぐり会いました」と記され、制作者や市民の息の長い活動と情熱を讃えています。
左に折れて橋を渡ると、右手が「綾瀬川」沿いに「札場河岸公園」。ここはよく整備された公園で、「望楼」「芭蕉像」などや休憩施設、さらに甚左衛門堰などがあります。休憩するにはもってこいの場所です。
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望楼
望楼とは、遠くを見渡すための櫓のことをいいます。常に見張りを置いてまちなかの火事発生の発見に努めるための施設でした。
この望楼は、石垣の上に埼玉県産のスギ、ヒノキを使った木造の五角形の建築物で、高さは11.1mあり、内部は螺旋階段になっています。午前9時から午後5時までの間は、自由に内部に入ることができ、草加市を一望することができます。
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国指定名勝「おくのほそ道の風景地草加松原」
この国指定名勝は、松尾芭蕉が弟子・河合曾良と「おくのほそ道」の旅で記した一群の名所、由緒、来歴の地からなる一体の風致景観であり、この「草加松原」も後世の人々の風景官に影響を与えているものとして、「殺生石」「黒塚の岩屋」「大垣船町川湊」等と合わせて指定されました。
「草加松原」は、634本の松が植えられた綾瀬川沿いに延びる全町1.5㎞の石畳の遊歩道として整備されており、江戸時代の舟運の荷の上げ下げ場として復元された札場河岸公園や対岸に整備された広さ約4.1㏊の綾瀬川左岸広場と一体となって、市民の憩いの場やレクリエーションの場としても親しまれています。
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かつては綾瀬川とその脇にあった用水との間を歩いていたようです。用水路は現在は「旧国道4号線」の拡幅で暗渠。
汚染度が全国で1、2位を争うほどだった(特に都内に入ってからは)「綾瀬川」もここはきれいな流れになり、時折、大きな魚が飛び跳ねる姿も見られます。
ここから1㎞以上にわたって松並木の道になります。ジョギング、散歩、犬を連れて、・・・さまざまな人々が行き交う。思い思い、のんびりと歩いています。途中に句碑や石碑が設置されています。
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「矢立橋」。太鼓橋になっています。芭蕉の「奥の細道」にあやかって名付けられた橋。
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橋名
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり 松尾芭蕉 奥の細道」
お隣には「奥の細道国際シンポジウム ドナルド・キーン記念植樹」。
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百代橋から南を望む。 北を望む。
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松尾芭蕉文学碑。
ことし、元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共、耳にふれていまだ目に見ぬさかひ、若し生(き)て帰らばと、定めなき頼(み)の末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着(き)にけり。痩骨の肩にかかれる物先(づ)くるしむ。
只身すがらにと出(で)立(ち)侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ ゆかた 雨具 墨 筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打(ち)捨てがたくて、路次の煩(ひ)となれるこそわりなけれ。
西村本「おくのほそ道」より
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まもなく松並木も終わりを告げます。
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(13:28)「外環」陸橋をくぐると、絵タイル。
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草加と「おくのほそ道」
俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄2年3月27日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
この絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
平成8年3月吉日
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もう少し「綾瀬川」沿いに歩き、西に折れて東武線「新田」駅に向かいました。
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