おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「日光道中」をゆく。総集編。第4日目。(東武「幸手駅」からJR「古河駅」まで。)

2016-08-04 21:25:28 | 日光道中
 5月28日(土)。曇りのち晴。東武線「幸手」駅から再開。朝ゆっくり出てきたので、9:15着。

右手に小公園があり、「幸手宿」の解説板。
                           ここは、「問屋場」の跡のようです。旧道の道筋が変わっていないのが驚きです。

下に絵図が載っています。吉宗が食べたお弁当の献立
 享保13年(1728)8代将軍徳川吉宗は、65年ぶりに日光社参を実現しました。幸手宿を4月14日に通り、昼食所として聖福寺があてられました。昼食の弁当は、御麦めし中心で、吉宗が好んだのかご飯に砂糖と胡椒が添えられています。さらに、焼豆腐 ひじき 山芋 煮しめ蓮 香の物・・・などが記されています。

幸手宿
 江戸・日本橋から数えて6番目の日光街道および奥州街道の宿。現在の幸手市中部から北部にかけての旧街道筋付近にあたる。南から北に900メートル程度の範囲で広がっていた。
 幸手は、奥州に通じる渡しがあった場所として古くから栄えていた。 かつて、日本武尊が東征に際して「薩手が島」(当時この近辺は海だったという伝説がある)に上陸し、中4丁目にある雷電神社に農業神を祀ったという記述が古書に残っている。 鎌倉時代には鎌倉街道が通じ、軍事・交易上でも交通の要衝として栄えていた。室町時代以降は一色氏の領地となり、天神神社付近に陣屋が築かれていた。
 江戸時代になると、一帯は江戸幕府直轄の天領となった。日光・奥州街道と日光御成道との合流点として、さらに筑波道が分岐する宿場町となった。
下総国葛飾郡に属していた。万治年間(1658年-1660年)より武蔵国桜井郷田宮の庄(武蔵国葛飾郡)に属するようになり、田宮町または薩手・幸手町と称されるようになった。その後、元禄年間(1688年-1704年)より幸手宿と称されるようになった。
 天保14年(1843年)当時の人口は3,937人、家数962軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒であった。 両隣の杉戸宿や栗橋宿と比較すると、2倍以上の宿場規模であった。純粋な宿場としては千住、宇都宮、陸奥白川、越ヶ谷に次ぐ大きさであった。

     
                         幸手宿本陣 知久家跡
 知久家は本陣(大名宿)・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家柄でした。初代帯刀は、長野県伊奈郡の豪族の出で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治3年(1870)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くしました。
 明治6年、知久家の書院で小学校が開設され、明治9年、明治天皇が東北巡行の折に宿泊されています。
 屋敷は、間口約39m・奥行き約80mで、約千坪ありました。

 宿場特有の枡形に近づいてきました。日光道中は、宿場にこういう枡形がしっかり残っているようです。宿場内や宿場を出ると長い直線路になるのが特徴のような気がします。

          その曲がり角・右手に「一里塚」跡があります。江戸・日本橋から12里目。
    

その先の信号を左に進みます。

一直線の道が延びています。 

 しばらくすると、「内国府間(うちごうま)」という交差点で「国道4号線」と合流します。
「宇都宮 59㎞ 小山 29㎞ 古河 15㎞」。

 このまま国道を進めば「行幸橋」で「中川」を渡りますが、その手前の信号で右に折れて、「権現堂堤」へ寄ってみるため、大きな駐車場のところから堤に上がりました。桜並木が二段になっていて、なかなか見事な遊歩道になっています。
(10:00)桜のシーズンにはさぞかし。

 紫陽花が桜の木の下の土手沿いに植わっています。まだ時期が早いので、チラホラと。これも満開なら見事なことでしょう。
        

権現堂堤案内
 幸手市の北端にある権現堂堤。ここは県東部第一の桜の名所である。大正の中頃には、すでに桜の名所として知られていた。戦時中に伐採されマキに使われてしまったという哀しい過去もあるが、戦後すぐに苗木が植えられ、今では以前にもまして美しい桜並木となっている。
毎年、4月の花見の季節には、桜の花が咲き誇り、花のトンネルをつくる。
 権現堂堤では毎春3月下旬~4月上旬にかけて「桜まつり」を開催しています。

遊歩道を進み、「行幸橋」方向へ。振り返って望む。 

 出口付近にある「行幸堤之碑」。
    
行幸堤(みゆきづつみ)之碑
 権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
 しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治8年6月に着工し、10月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです。(現在は国道4号線がその上を通っています。)
 明治9年6月に、明治天皇が東北巡幸に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。
 人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。
 また、行幸橋の架け替え工事(平成12年~17年)以前は石碑自体は歩道の近くにあって国道側を向いていましたが、現在の向きにしたものです。

「国道4号線」に戻ると、「行幸橋」の手前。「東京まで50㎞」ポスト。全行程の約3分の1になります。
 
「中川」に架かる「行幸橋」を渡ります。

 「中川」は、江戸時代には利根川として流れていました。「利根川東遷」以降は、「古利根川」と言われています。
上流には東武線の鉄橋。                 

橋を渡り終えたら左折し、さらにすぐ右折します。この道が旧道。

(10:25)その先の道が二手に分かれます。

ここが「日光道中」と「筑波道」との追分。    日光街道道しるべ
 この道しるべは、安永4年(1775)日光街道と筑波道が分かれるこの場所に建てられたものです。この道しるべには、次のように刻まれています。
  東 川つま道 まいばやし道(右) 右 津くば道(正面) 左 日光道(左)

 「川つま」は現在の茨城県猿島郡五霞町川妻、また「まいばやし」は茨城県古河市前林のことで、筑波へ行く道順です。
 この道は日光だけでなく、遠く奥州(東北)へも通じていました。

 「追分」を過ぎると、左には青々ととした田圃が広がります。田植えを終えたばかりで、眼にもあざやかな緑が水面に。
    東武線の特急電車。                      

この先でY字路になります。

 左の道を進んだら、ぶつかった十字路で右に折れ、国道脇・下の側道を進むのが適当かな、と。もちろん、その道は旧道ではありませんが。実際に歩いてみてそんなふうに感じました。

振り返って望む。左奥に「雷電社」。

 国道下の側道を進むと、「国道4号線」に向かう道路のトンネルを抜けるて、(10:50)しばらくすると、「弁財天堂」が左手に現れます。ここが「小右衛門一里塚」。江戸・日本橋から13里目。
          

 その先で、「工業団地入口」交差点の下をくぐるトンネルがあります。本来はそのまま進むのが正しいのでしょうが、「権現堂調整池(行幸湖)」を見ることができないままになってしまうので、右にある国道下のトンネルをくぐり、左の階段を上って交差点を横断します。

(10:59)「権現堂調整池」の土手に出ます。

向かい側は「キューピーマヨネーズ五霞工場」。

ほとんど流れがなく、穏やか。時折、ジョギングの人たちが通り過ぎるのみ。

(11:14)土手を上がって国道に復帰。「東京まで53㎞」ポスト。

東北新幹線のガードをくぐります。

 その先すぐ左手にある「国道4号線」をくぐるトンネルを抜けると、国道の西側に出ます。旧道(らしき道)に復帰です。側道から国道に合流し、しばらく進むと、左手に「ライブシアター栗橋」が見えてきます。そこを左に折れて行きます。
    

しばらくは人通りも少ない静かな道を進みます。

しばらく進むと、右手の民家の庭先には「会津見送り稲荷」があります。
    
               
 旧道はそのまま、国道4号線に合流して北上し、「栗橋宿」へ向かったようですが、案内用の道標に導かれ、そのまま農道のような道を進みます。
 住宅地を抜けると、栗橋宿に入ります。旧道は宿場入口で枡形になって右から進んできます。右手には「炮烙地蔵」があります。
    

※「焙烙(ほうろく)」は、素焼きの土鍋の一種。

栗橋宿に入ると、約1㎞の直線道路になります。

栗橋宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場であるが、当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述もある。
 この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。街道が整備される以前に町は無く、日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。
 慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。当初、日光街道は手前の幸手宿から北東の栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に向かっていた。その後、1616年(元和2年)に街道筋が付け替えられ、現在地に日光・奥州街道の正式な宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、栗橋宿の本陣を代々務めた。
 栗橋宿の規模は、1843年(天保14年)の記録によると、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、家数404軒、人口1,741人であったという。
栗橋宿と中田宿
 利根川対岸の中田宿と栗橋宿は合宿の形態をとっていた。荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。

 古い家々の軒先には屋号や建物の概要が掲示されています。
    

「カスリーン台風」の爪痕を示す赤テープ。この辺りは、2㍍40㌢の高さ。

 江戸時代の「利根川」東遷以前も以後も、日光街道周辺はひとたび水害に襲われれば、濁流が遠く江戸の地まで飲み込んでいった、ということになります。戦後のカスリーン台風でもこのような大被害に遭うのですから、この地域では「治水」が今も昔も重要だったことが分かります。

注:利根川の東遷
 古来、利根川は大平洋ではなく、現在の東京湾に注いでいました。現在のような流れになったのは、数次に渡る瀬替えの結果で、近世初頭から行われた河川改修工事は「利根川東遷事業」と呼ばれ、徳川家康によって東京湾から銚子へと流れを替える工事が行われました。
 東遷事業の目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北との経済交流を図ることに加えて、伊達政宗に対する防備の意味もあったと言われています。
 工事は徳川家康が伊奈備前守忠次に命令し、1594年会の川締切を皮切りに、60年の歳月をかけて、1654年に完了しました。


 「栗橋宿」の中心街を歩きますが、宿場に必置の「本陣」「脇本陣」「問屋場」などといった案内板などは目に付きませんでした。その代わり、こうした古いおうちが目立ちます。
    

 道の両側が緑のシートで囲われて工事中です。右手は本陣跡? 左手は関所陣屋跡? 現在も遺跡発掘作業中のようです。
    左手の発掘現場。

土手の上から。右手に「八坂神社」。

 「栗橋関所」跡碑が土手下にあるはずですが、その付近は工事中で入れないかと思ってしまい、行かずじまい。
↓のところに。そこで、拝借。

 この付近は、「利根川」の大がかりな治水改修工事が行われ、堤防あるいは河川敷になってしまうようです。そのための発掘調査で、道路右側のように、発掘調査終了後、埋め戻され、永久に地中深くに眠ることになってしまうのかもしれません。北端にある「八坂神社」も移転になるようです。まもなくこの辺りの風景は一変することに。

いよいよ「利根川橋」を渡ります。さすが「利根川」=「坂東太郎」です。延々と東に向かい、銚子で太平洋に注ぎます。「東海道」でもそうでしたが、旧街道で大河に架けられた「橋」の名は、その川の名を付けたものが多いようです。

橋の真ん中付近で「茨城県古河市」に入ります。橋の長さは670㍍ほど、渡り終えるのに10分近くかかります。

対岸にあった「中田宿」は「利根川橋」の両側、現在は河川敷に広がっていました。

 利根川橋を渡ったら、すぐ左に折れて土手を下っていきます。道が右にカーブするところに「房川(ぼうせん)渡と中田関所」跡の解説版があります。薄れていて判読不能の所も。


(12:33)その先を進むと左手の火の見櫓の下に解説版。

中田宿 
 江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
 中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成されたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
 本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
 天保14年(1843)の調査では、栗橋宿404軒に対し、中田宿69軒となっている。ただし、118軒とする記録もある。



現在のようす。「中田宿」は「利根川橋」付近の河川敷になっています。

現在の街並みは一直線の道路に沿って続いています。

(12:39)しばらく進むと、左側には寺社が並んでいます。

(12:55)JR線の踏切を越えて行きます。

 幅広い直線道路の両側には、若い松並木が続きます。この付近は「茶屋新田」。50年後、100年後には立派な松並木に。
右手に解説板。
                  中田の松原
 いま中田町となっている通りは、江戸時代は、「中田の松原」と呼ばれたうちに入っていて、それは、これから北へ古河の原町入口までの約1里(約4キロ)余の呼び名であった。
 この間には、中田新田の顕正寺、茶屋新田の中の茶屋立場や名物の一本松(一葉一包の珍種)、原町の一里塚などがあり、また松並木を越て、藤井松平氏が建てた板間の碑、鴻巣の桃そして古河城の三階櫓も望まれる景勝の地であった。
 幅5間(約9㍍)の道の両側は一段と高くされ、そこに松並木を植えたのは、寛永7年(16303)、古河城主永井尚政のときであったという。注意して見ると、「左右に松並木が続き、道は広く、東海道にもこのように、まっすぐで、平で、きれいなところはない」と、ある記録に残されているおもかげは、かつての茶屋新田村の中心で、高札場もあったこのあたりに、今もわずかにしのぶことができる。
    

(13:06)神社の社務所前の立て札。「日光道中茶屋新田 日本橋17里→  ←日光20里 茶屋松原」

 しばらく進むと、松並木もおしまい。右手の畑越しには、JRの線路。ちょうど貨物列車が通過中。
                  

この辺りも「カサリーン台風」では大きな被害。よく見ると、表示は2m以上。
道が少し狭くなり、植樹の種類が異なってきました。

  両側が小高くなっています。「大堤」という地名も。

 次第に街並みが出てきました。国道354号線を越え、少し上り坂を進むと、右手に「古河第二高校」。この校庭に日本橋から16里目の「一里塚」の碑があるというので見たところ、高いフェンスに囲まれてよく分かりません。ふと振り返ると、
 鉄塔が建っているところ。

 家に帰ってから調べてみると、これは「十九夜塔」がメインで「一里塚」ではなさそうです。「一里塚」はやはり校庭の中にあったようで、高いフェンスの内側の中、塚の上に大きな木が植わっているところ、ということでした。どうも結果的には早とちりであったようです。これから歩く方もご注意あれ!

少し高台になっています。地名は「台町」。   

広い道に合流すれば、その先はいよいよ「古河宿」になります。

(14:02)入口には「常夜燈」のモニュメント。

    

 古地図からは利根川の北側・中田宿からこの手前まで、ほぼ直線道路の両脇に、松並木がおよそ5㎞続いていたことが分かります。

古河宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて9番目の宿場。
 江戸時代の全期を通じて、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒(大5,中6,小20)あった。宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人であった。
 将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。日光社参のときには、従者の数が膨大になるため、通常の宿泊施設だけでは足りずに、城下の武家屋敷や町屋も割り当てられた。宿場は日光街道沿いの台町・一丁目・二丁目・横町(現在の本町・中央町・横山町の一部)にあったが、渡良瀬川等による河川交通も発達していたことから、古河の町は日光街道から河岸へ向けて折れ曲がった石町・江戸町等にも広がり、T字型に形成されていた。
 大名が宿泊する本陣は時期により異なるが、最もよく知られているのは二丁目にあったもので、現在、跡地には「本陣跡碑」がある。脇本陣も二丁目にあった。

古河城下・古河宿(江戸時代後期)
 町割りの特徴は、古河城の主要な出入口が北側にあり、西側に渡良瀬川があることから、城下町・宿場町が城の北側と東側に集中していることである。また、このために城と上級武士の住居が低地にあり、町人や下級武士の住居が台地上となっており、他の城下に見られない個性的な景観をなしていた。
 日光街道に面した町を「通町」と呼び、他は「脇町」と呼んだ。また町の発展に伴い、本町とされた通町・脇町から枝町が派生した。

電柱のない、すっきりした広い通りが一直線に延びています。

 (14:05)いよいよ「古河宿」の中心部へ。車の通りも少なく、落ち着いた街並みです。
         
      道の左右にはこうした「行燈」のようなモニュメントがあって、名所・旧跡を案内、解説してくれます。

    
                      御茶屋口と御成道

 「御茶屋口」、旧日光街道に面するこの口の名前は、かつてこの地に存在したとされる「御茶屋」に由来している。それは日光社参(徳川将軍が、神君徳川家康を祀る日光山へ参詣する行事のこと)に伴い将軍の休憩所として設けられたとされるが、江戸初期のごくわずかな期間に存在したと推定されるこの建造物について、今のところ、記録として残る略図以外にその詳細はわからない。
 ところで、徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて19回おこなわれているが、古河城は、道中における将軍の宿城となることが通例であった。将軍の古河入城に利用された「御成」の入り口がこの御茶屋口である。

    

 実は、ここに来るまでの間、何カ所も史跡・解説板の下に設置されていた郵便受けのような箱の中には、大きな観光記念スタンプが入っています。スタンプラリー風に楽しめるという趣向です。

枕河盆踊歌♪

(14:17)その先で左の脇道に入ると、古い建物が並んでいます。

「御馳走番所 米銀」。その左隣には、「古河藩使者取次所址」の石碑。

「米銀」の向いに肴町の説明板が掲げられています。

「米銀 銀の蔵」。

 左手奥には「坂長」・「泉水亭」。
    

袖蔵」。

    
      店の裏手。食事をするところ。落ち着いた雰囲気です。

石蔵」。
 ここは、多目的ホールのような造りに改造されていて、舞台が設置されてあります。

 8万石の城下町です。「古河八萬石最中」。

公方の城 古河城
 古河城は、古河公方の御座所であった中世、そして、将軍家の日光社参における御泊城となった近世というように、歴史上、公方様の城というべき特殊な性格を帯びた存在であった。
 殊に、室町時代の古河城は、政治・軍事面の重要性から、鎌倉公方の北関東における拠点と位置付けられており、15世紀半ばになると、「享徳の乱」を契機に、鎌倉から古河へ移座した足利成氏の居城として整備されていく。そして、初代成氏以降、古河城は、古河公方足利氏の五代130年にわたる根城として、波乱に富む関東戦国史に欠くことのできない存在となる。
 江戸期以降は、幕府大老の土井利勝、堀田正俊を筆頭に、閣老級の譜代大名たちが城主となり、近世城郭としての整備が進められ、南北1800㍍、東西550㍍という関東有数の巨大城郭に変貌した。
 明治6年の廃城令と同43年に開始された渡良瀬川改修工事によって終焉を迎えた古河城であるが、現在も出城跡(歴史博物館)や獅子ヶ崎に土塁や水堀を含む遺構を確認することができる。

 駅前に来ると、大きな万葉歌碑と解説板があります。
    
                万葉古河の歌について
 万葉集は日本現存最古の歌集で、8世紀中頃に成立した。全20巻からなり、長歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・短歌など4536首の歌を収録し、万葉仮名で書かれている。
 そにうち巻14には東歌として238首が収録されている。東歌はすべて作者不詳で、労働・土俗・性愛の表現に特徴があり、東国の方言的要素を含んでいる。また地名を含む歌が多いのが特徴である。
 その中に相聞歌として古河(許我)の地名を含む歌が二首載っている。

・まくらがの 許我の渡りの からかじの
        音高しもな 寝なへ児ゆえに
(まくらがの古河の渡りのからかじの音が高いように 
     高い噂が立ったなぁ あの子と共寝をしたわけではないのに)

・逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの
        許我こぐ船に 君も逢はぬかも
(あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう まくらがの
     古河を漕ぐ渡し舟であなたにお逢いできないものかなぁ)
※まくらが…「許我」にかかる枕詞

 この二つの歌は、おそらく民謡のように語り歌い継がれたものであろう。いずれにしても、歌の内容から渡し場であった様子がうかがえ、この古河の地が古くからひらけ、渡良瀬川などの河川や沼を交通路として利用し、河川交通の要所として発展していたことをうかがわせる。
 ここに建つ「万葉古河の歌碑」は、昭和60年(1985)4月に万葉歌碑建設実行委員会(代表 渡辺武夫氏)を中心に、たくさんのかたがたの浄財によって建設されたもので、書は大久保翠洞氏(古河市出身の篆刻家)の揮毫である。

(14:46)古河駅。「古河」は茨城県です、念のため。

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