足かけ2年。「東海道53次」の旅も、いよいよ最終段階。11月10日(火)、11日(水)の2日間で京都・三条大橋までの旅となりました。日差しが長ければ、一日でも何とか行けるコースですが、せっかくですので、ゆっくりと(特に11日は)。
最終日の11日には、12時前にわざわざ東京から友人達がやって来て、ゴールの「三条大橋」で迎えてくれることになっています。照れくさいやら、何やらで・・・。
11月10日(火)。東京から6時30分の新幹線で京都、そして、9時20分過ぎに草津駅に到着。「駅そば」屋さんで腹ごしらえをしたり、コンビニに寄ったりして、9時50分頃、出発。
草津駅から旧東海道に戻るには、旧中山道を少し南に進みます。途中にある解説板。
草津歴史街道 中山道
中山道は木曽路とも呼ばれ、日本の脊梁中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも東海道に次ぐ幹線路であった。
その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を経由、碓氷峠に至り、浅間、蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御嶽、駒ヶ岳間の木曽谷を降り、美濃路を西進、関ヶ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。
草津には、笠川を経て渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の町並みを通過したのち、砂川(旧草津川)を越えて草津追分に至った。
なお、中山道分間延絵図によれば、渋川には梅木和中散出店・小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)ほかの社寺仏閣、名所が街道筋に存した。
草津市教育委員会
なかなか興味をひく内容です。今後、「中山道」を辿るときには、ここ「草津宿」に至るのはいつになることやら?
草津宿から最後の宿場町「大津」へ向かいます。
「立木神社」。
そのまま進むと、現在の「草津川」の橋を越えます。橋の手前、左手に京方見附跡の「黒門」解説板。。
黒門の由来
草津宿は、東海道と中山道が交わる宿場町であるため、宿場の入口は東海道の江戸方よりの入口と京方よりの入口および中山道よりの入口の三つの入口がありました。宿場町の入口には、一般に見付けと呼ばれる施設が設けられていました。見付には石垣や土塁が築かれ、さらに柵などを設ける場合もあったようです。
草津宿では、東海道の入口に 「坂口見付」、中山道の入口に 「札の辻見付(追分見付)」と呼ばれた見付がありました。
一方、東海道の京方の入口である宮町と矢倉村との境には、文化14年(1817)には黒門が設置されていて、宿内と宿外を限る施設として存在していたようです。しかし、この黒門は幕末期に草津宿役人を勤めた駒井興左衛門の記録に基づけば、もともとは六町目と宮町の境を流れる宮川に架けられた宮橋の南詰めにあった見附の石垣の上に建てられていたものですが、その後石垣が壊れたため、上記のとおり矢倉村境に移築されるにいたったようです。
ただ、この黒門の規模や形状については、詳細な記述がなく不明といわざるを得ませんが、見附と同様な、宿場町の保安的機能を有した門であったと考えられます。
また、付近に黒門川(俗称)が流れていましたが、旧草津川の抜本的な放水路計画により分断され、上流・下流で一部その姿を留めることとなりました。
現草津川。
天井川だった草津川の流路変更によって開削された川。通常の川になっています。
しかし、「天井川」のイメージは強く、右手にある「古川酒造」さんの代表的銘柄は「天井川」。
さらに進むと、右手に広重の浮世絵に描かれた「うばがもち(乳母が餅)」を売っていた旧店舗跡のお店が見えてきます。現在は「瓢泉堂」さん。
東海道五十三次之内 草津 名物立場 / 歌川 広重
「うば(が)もちや」は乳母が子を育てるために餅をつくって往来の人に売ったものが評判になった店である。馬子や駕籠の出入りがたくさんあり、交通の様子がよく描かれている。また、草津は東海道と中山道との分岐点で大変賑わった。駕籠かきの動く様子と旅人が店先で一服している静の部分が対象的である。
(「知足美術館」HPより)
広重の描いた方向から。
「大正期のようす」。(「同」より)
広重の絵にある「道標」が写っています。「旧東海道」沿いにあった「うばやもちや」の旧店舗付近のようです。
現在のようす。
うばがもちの由来
「うばがもち」は永禄年間(1558~1569)に生まれた。近江源氏佐々木義賢は時の信長に滅ぼされたが、そのなかに3歳になる曽孫もいた。義賢は臨終の際、乳母・福井とのに後事を託す。郷里草津に帰ったとのは、餅をつくっては売り、養育の資とした。そして誰いうことなくついた餅の名前が「姥(乳母)が餅」―。
慶長年間(1596~1614)にはこんな話がある。徳川幕府誕生のころ、家康は大坂の役に赴くが、当時84歳のその乳母が餅を献じた。家康は「これが姥が餅か」と問いつつ、その誠実な生き方を称え、流竹葉金並びに御親筆「養老亭」の三字額を授けた。
また蕪村をはじめ、近松門左衛門、広重、北斎らも競うように「姥が餅」を取り上げ、浄瑠璃や浮世絵、東海道名所図会に登場、その評判はたちまち全国に広まり、草津名物としてすっかり定着「した。
・・・
永禄年間より数えて四百有余年の時を超え、いつの時代も忘れられない味わいが、このお菓子の歴史を築き、今もなお草津名物として脈々と息づいています。また、風雅で独特の姿は往時、姥が幼君に奉じた乳房を表したものでございます。
・・・
「うばがもち」は、草津駅前店で売っていましたので、お土産として買いました。乳母の乳房を思わせるように上にポチンと白あんが乗り、さらに餡の中にはお餅が入っていて、なかなかの美味。
なお、道標には「右やばせ道 是より廿五丁 大津へ船わたし」と刻まれています。
ここから25丁(2.5㎞)行くと、「矢橋舟着場」で、大津まで湖上1里の近道。下の解説文にもあるように、「急がば廻れ」の語源になっているそうです。
店頭にある広重の絵と「矢倉立場」の解説。
矢倉立場
東海道53次のうち、52番目の宿場・草津宿南に続く矢倉村。立場とは宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、、矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があった。
此の地に、そのうばがもちがあり、歌川広重の浮世絵や「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。
また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る「矢橋の渡し」の渡し場である矢橋湊へと続く矢橋道が分岐していた。浮世絵などにも描かれた道標が今も軒先に建っている。旅人は、俗謡に「瀬田に廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津に渡るかを思案した。
そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で「急がば廻れ」の語源となったところでもある。
武士のやばせの舟は早くとも 急がば廻れ瀬田の長橋 (醒酔笑)と詠まれ、近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりの方が着実であることから、成果を急ぐなら、遠回りでも着実な方法をとる方が着実な方法をとる方がよいことを指南したものであることを指南したものである。
(「今昔マップ」より)
↓が分岐点。○が「矢橋の渡し」
現在。
隣の駐車場には、
昭和30年代のようすが紹介されている。
相変わらず登場します。
しばらく進んで、「国道1号線」を横断します。その先の小さな公園には、「野路一里塚」跡碑があります。
野路一里塚
関ヶ原の合戦で、天下を手中にした徳川家康は、慶長6年に東海道、慶長7年には中山道に対する伝馬徴発令を発布するなど、いち早く江戸を中心とする交通、運輸網の整備を進めた。慶長9年(1604)には引き続き東海道、中山道、北陸道の街道沿いに一里塚を築造した。一里塚は江戸日本橋を起点とした一里ごとに旅の里程の目安として設けられた塚で、その中央に榎などの樹木を植えたために、旅人の疲れを癒す格好の場ともなった。
東海道分間延絵図(文化3年作成)には、ここ野路の北川の北方の街道の両側にも、長い松並木とともに一里塚が描かれているが、その木立は天保14年作成の東海道宿村大概帳や元禄3年刊行の東海道分間絵図によれば、双方とも松であったことが明らかである。
草津市
《石碑銘文》
野路一里塚は、この石碑より北西に約30mの所と道路(旧東海道)を挟んだ北東約20mの所の二ヶ所あった。明治14年頃に官地が私有地に払い下げられ、消滅するにいたった。ここに野路一里塚の旧地を証するため、この石碑を建立する。
日本橋から119里目の一里塚。
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