とても由緒ある橋。そのせいか、説明用のプレートがいくつも存在。
その1。
橋の東詰めにある「説明版」。
国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(八幡橋)
富岡一-一九―富岡二-七
昭和五二年六月二七日指定
八幡橋は、明治十一年東京府の依頼により、工部省赤羽製作所が製作した長さ十五・二メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正二年(一九一三)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は昭和四年(一九二九)五月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製の鋳錬鉄混合の橋であり、かつ独特の構造手法で施工している。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。
江東区教育委員会
その2。
八幡堀緑道公園にある「説明版」。
(重複する部分は避けて)
八幡橋は東京市で最初に架けられた鉄橋である。(・・・)現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また菊の紋章のある橋としても有名である。(・・・)独特の構造手法を用いて施工してあり、技術史の上でも価値の高い橋である。
その3。
人力車をモチーフにしたブロンズ像にある「説明版」。上部に「東京名所図会」の絵柄が刻まれている。
八幡橋は明治11年(1789年)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
現在の中央区宝町3丁目付近に位置します。弾正橋は馬場先門から本所深川とを結ぶ重要街路の一つで文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。
しかし昭和4年(1929年)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
この東京名所図会(三ツ橋の現況)には明治34年(1901年)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。弾正橋、白魚橋、真福寺橋とをあわせて三ッ橋と呼ばれ、古くから人々に親しまれていました。
その4。
米国土木学会からの「土木学会栄誉賞」記念碑の銘文。
八幡橋は明治11年(1878)我が国において最初に日本製の鉄を使って造られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋になっています。橋の形(ウィップル形トラス)は、米国人スクワイアー・ウィップル(SQUIRE・WHIPPLE)氏の特許が基本となっています。
ウィップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建造物「八幡橋」の優れた製作技術に対して平成元年(1989)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。
このように記念碑があって、それぞれ興味深い表現がありました。大枠では相違点はありませんが、それでもいくつかの疑問・興味がわき出てきました。
①弾正橋の命名の由来は。
②廃橋はいつの時点か。橋名は「旧」なのか「元」なのか。
③「三ツ橋」とは。
④日本製の鉄を初めて使用したのか。
⑤工部省赤羽製作所はどこにあったのか。
⑥現鉄橋では最古に属するとは。
⑦ウィップル形トラス橋とは。
⑧鋳鉄、錬鉄の違いとは。
⑨今の「弾正橋」は。
⑩元の橋と現在の橋との構造上の違いは。
⑪「八幡橋」の下にはかつて堀があった。・・・
けっこう気になる点が出てきました。
朱塗りの橋。現在は歩道橋として利用。菊の紋が見える。
東側。階段が付けられ、人の通行のみ。
近所の小学校。「区立数矢小学校」の下校風景。校名は、江戸時代、この地にあった三十三間堂での弓術競技「通し矢」(通称「大矢数」)に由来している(「矢数」ではなくて「数矢」とひっくりかえっているのが、おもしろい)。
大勢の子ども達が渡っていく。
橋の下からのようす。
いささか無骨な印象が、またいい風情。
緑道公園の南側から望む。
その1。
橋の東詰めにある「説明版」。
国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(八幡橋)
富岡一-一九―富岡二-七
昭和五二年六月二七日指定
八幡橋は、明治十一年東京府の依頼により、工部省赤羽製作所が製作した長さ十五・二メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正二年(一九一三)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は昭和四年(一九二九)五月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製の鋳錬鉄混合の橋であり、かつ独特の構造手法で施工している。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。
江東区教育委員会
その2。
八幡堀緑道公園にある「説明版」。
(重複する部分は避けて)
八幡橋は東京市で最初に架けられた鉄橋である。(・・・)現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また菊の紋章のある橋としても有名である。(・・・)独特の構造手法を用いて施工してあり、技術史の上でも価値の高い橋である。
その3。
人力車をモチーフにしたブロンズ像にある「説明版」。上部に「東京名所図会」の絵柄が刻まれている。
八幡橋は明治11年(1789年)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
現在の中央区宝町3丁目付近に位置します。弾正橋は馬場先門から本所深川とを結ぶ重要街路の一つで文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。
しかし昭和4年(1929年)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
この東京名所図会(三ツ橋の現況)には明治34年(1901年)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。弾正橋、白魚橋、真福寺橋とをあわせて三ッ橋と呼ばれ、古くから人々に親しまれていました。
その4。
米国土木学会からの「土木学会栄誉賞」記念碑の銘文。
八幡橋は明治11年(1878)我が国において最初に日本製の鉄を使って造られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋になっています。橋の形(ウィップル形トラス)は、米国人スクワイアー・ウィップル(SQUIRE・WHIPPLE)氏の特許が基本となっています。
ウィップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建造物「八幡橋」の優れた製作技術に対して平成元年(1989)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。
このように記念碑があって、それぞれ興味深い表現がありました。大枠では相違点はありませんが、それでもいくつかの疑問・興味がわき出てきました。
①弾正橋の命名の由来は。
②廃橋はいつの時点か。橋名は「旧」なのか「元」なのか。
③「三ツ橋」とは。
④日本製の鉄を初めて使用したのか。
⑤工部省赤羽製作所はどこにあったのか。
⑥現鉄橋では最古に属するとは。
⑦ウィップル形トラス橋とは。
⑧鋳鉄、錬鉄の違いとは。
⑨今の「弾正橋」は。
⑩元の橋と現在の橋との構造上の違いは。
⑪「八幡橋」の下にはかつて堀があった。・・・
けっこう気になる点が出てきました。
朱塗りの橋。現在は歩道橋として利用。菊の紋が見える。
東側。階段が付けられ、人の通行のみ。
近所の小学校。「区立数矢小学校」の下校風景。校名は、江戸時代、この地にあった三十三間堂での弓術競技「通し矢」(通称「大矢数」)に由来している(「矢数」ではなくて「数矢」とひっくりかえっているのが、おもしろい)。
大勢の子ども達が渡っていく。
橋の下からのようす。
いささか無骨な印象が、またいい風情。
緑道公園の南側から望む。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます