おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その2。下宮橋・板倉川。渡良瀬遊水池付近の今昔、目的・足尾銅山鉱毒対策。谷中湖・旧谷中村。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-15 15:27:55 | 歴史・痕跡

「下宮橋グラウンド」。

「旧谷中村・谷中湖 (渡良瀬貯水池)」案内板。湖のハート型になっています。

この付近の今昔(「歴史的農業環境閲覧システム」」より)

                            現在のようす。県境(破線)はかつての渡良瀬川の流路。

                            1880年代のようす。かつての渡良瀬川は激しく蛇行する。                            

「下宮橋」。板倉川に架かる。

     

                 

橋を渡り、土手に上がると、眼前に大きな「谷中湖」が。

                            「道と川百選 渡良瀬遊水池」。

遠くに筑波山。

             

                            男体山など日光連山。

谷中湖は、洪水調節・水道用水の安定供給等を目的に第1調節池内に建設された貯水池の通称です。
その規模は、面積約4.5平方キロメートル、総貯水容量2,640万立方メートルで、平成2年度よりダムとしての利用を開始しました。
また、周辺を含めた広大な空間は、スポーツやレクリエーションの場として親しまれており、現在までに約百万人の人々が訪れています。

(この項、「」HPより)

※「谷中湖」は、渡良瀬遊水池の中で、唯一、常時水を貯めている。湖の北東部は、葦が生い茂る遊水池などになっている。

台風・豪雨で大量に水量が増えると、一帯が水没します。

中央の「谷中湖」だけでなく、北東、下流一帯が水没している。

             

八ッ場ダムより水を貯めた渡良瀬遊水地の誕生秘話

 2019年は29個の台風が発生し、このうち5個が日本に上陸した。特に台風19号は、列島に甚大な被害をもたらした。国土交通省によると、豪雨で川の堤防が壊れる「決壊」は7県、71河川、140か所で発生。川の水が堤防を越える「越水」は16都県の延べ285河川で発生した。

 SNSなどでは「八ツ場ダムが首都圏を救った」という情報が拡散されたが、その貯水量は7500万立方メートル。

 だが、それ以上に水を貯めたのが渡良瀬遊水地だった。渡良瀬遊水地の貯水容量は東京ドーム140杯分に当たる約1億7000万立方メートル。今回の台風では過去最大となる約1億6000万立方メートルをため込んだ。

 日本最大の遊水池の面積は3300ヘクタール。東京都内を走る山の手線内の南半分(中央線以南)の面積にも匹敵する。・・・

(この項、「橋本淳司水 ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表2019/12/30(月) 12:00」より一部引用。

足尾銅山鉱毒事件

日本の公害の原点。古河市兵衛経営の足尾銅山から流出した重金属を含む鉱滓や酸性廃水によって,渡良瀬(わたらせ)川の中・下流,利根川下流域の10万ヘクタールに及ぶ農地が鉱毒被害をうけた。被害農民は田中正造とともに明治政府に対して足尾銅山の操業停止を訴え,東京へ押し出し(大挙請願運動)を行うなど,強力な鉱毒反対運動を展開,大きな社会問題となった。政府は刑事弾圧を加える一方(川俣事件),日露戦争中に鉱毒問題を治水問題にすりかえて運動を分断し,1907年(明治40)遊水池設置のため谷中(やなか)村民の家屋を強制破壊した。今も足尾には,約2000ヘクタールの禿げ山,旧谷中村(現,栃木市)周辺に3000ヘクタールもの湿地帯が広がり,鉱毒事件の生き証人となっている。

(「山川日本史辞典 改訂新版」より)

※「田中正造」、「川俣事件」は、後述します。

・・・足尾鉱毒事件の発生当時は、鉱毒対策が目的で設けられたのではなく、洪水防止が目的とされたが、1903年の大日本帝国政府の第二次鉱毒調査委員会が、足尾銅山の渡良瀬川下流部に遊水池を設置する案を提示したことを受けて造成されており、鉱毒対策目的であることは明白であった。

法令上は、国土交通省が管轄する河川の内部になっている。足尾鉱毒事件から100年以上経って鉱毒は減少し、主に治水と利水のための地域になっている。ただし、減少したのは上流から新たに流れてくる鉱毒の量であって、遊水地の土壌には2020年現在も銅などの重金属が多く含まれている。

面積は約3300haで羽田空港の2倍以上の広さがある。ゴルフ場が造成されている場所があったり、ごく一部に旧建設省の許可を得て圃場が行われた場所があったりするが、建物はなく、若干の道路と橋のみがある。

内部に第1調節池、第2調節池、第3調節池がある。渡良瀬川の西側が第1調節池である。第2調節池は巴波川の東で、第3調節池は渡良瀬川と巴波川の北側である。第1調節池はかつてお化け沼と呼ばれ、釣り人に親しまれたが、その後の造成により南側の一部がコンクリート張りの谷中湖になった。谷中湖を除く第1調節池の大部分と、第2・第3調節池は、増水時のみ貯水する構造で、平時から池としての実態があるのは、谷中湖のみである。

(この項、「Wikipedia」より)

この付近の今昔。

   

     谷中村は廃村になり、住宅や田畑は、すべて遊水池となった。(「今昔マップ」より)                            

※1 人の住まなくなった旧谷中村の跡地に土砂が堆積して葦(ヨシ)が自生するようになり、現在では遊水地の総面積の約半分(1,500ha)にヨシ原が広がっている。ヨシは、ヨシズなどの地場産業に利用されてきた。冬の間にヨシを刈り取ったのち、3月下旬に「ヨシ焼き」が行われる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

※2「ヨシ焼き」は、去年(2022年)3月5日。江戸川歩きの初日に黒煙を目撃しました。

利根川と江戸川の分岐点から。

午前8時半、遊水地の各所で一斉に火入れ。土手に並んだ見学者は、ヨシが春風にあおられ燃え上がる様子を写真に収めていた。 同会は「例年より早く燃えた。ドローンも使い、鎮火確認もスムーズにできた」とした。

       

(この項、「下野新聞チャンネル」HP。映像は「YouTube」より))

                         ※栃木市内でもそのときの灰が降ってきたようです。

※3 旧谷中村の中心部は、「谷中村史跡保全ゾーン」として、水塚(みづか・みつか)や史跡(役場跡・雷電神社跡・延命院跡・谷中墓地等)が保全されている。          


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