そこで・・・。
以下の内容(鉄橋の構造その他)は、
「わが国最初の国産鉄の構造物 八幡橋(元弾正橋)」(財)建材試験センター 木村麗
によるところ、大です。
①弾正橋の命名の由来は。
『弾正橋(だんじょうばし)』 は、江戸城馬場先門と本所・深川方面を結ぶ重要な交通路(皇居の二重橋前から八丁堀方面に向う、現「鍛冶橋通り」)にあり、(中央区)京橋と八丁堀との間・楓川に架けられた橋。
橋の名の由来は、橋の東側(八丁堀側)に江戸時代初期に町奉行を勤めた島田弾正の屋敷があったことから。
橋が架けられたのは、江戸時代の初期、寛永年間 (1624~1643) と伝えられ、その頃の『弾正橋』(「元弾正橋」)は、現在の「鍛冶橋通り」よりも少し下流(南側。一説では、現在の『弾正橋』の50~60m下流)に架かっていた。
楓川は、江戸時代にこの近辺の土地が造成・整備され、その際に出来た人工の堀。日本橋川の兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し、京橋川・桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2kmの人口の堀。現在は首都高速都心環状線がその跡を通る。特に日本橋川から江戸市中に物資を運びやすい楓川周辺には商人や職人が多く住み、川岸には河岸や蔵が並び、経済の中心として栄えた。
なお、新馬橋より弾正橋までの部分は、楓川の跡を利用した高速道路なので、地上を通る道路の下を通る構造となっている。そのため、新場橋、久安橋、宝橋、松幡橋、弾正橋は残されている。また、永代通りに架かる千代田橋は、その上を高速道路が通っているにもかかわらず、欄干、橋柱などが当時のまま残され、海運橋は橋柱のみ保存されている。
②廃橋はいつの時点か。橋名は「旧」なのか「元」なのか。
大正2年(1913 年)、新しい弾正橋が現在の鍛冶橋通りにある位置に架けられたため、当初の弾正橋は「元弾正橋」と改称された。その後、大正12年(1923年)関東大震災後の帝都復興計画で、大正15 年(1926 年)に「鍛冶橋通り」が拡幅され、現在の弾正橋に架け替えられ、元弾正橋は廃橋となった。元弾正橋は、鍛冶橋通りにある現在の弾正橋より下流(南側)に位置したことから、道路の拡幅工事によって廃橋になった、と考えられる。ただ、①の一説(50~60㍍南側)だと違うようだが。いずれにせよ、いきさつからみて「旧弾正橋」と称したことはなく、「元」弾正橋と称するのが正しいようだ。(江戸期の「(木橋としての)弾正橋」→明治期の「元弾正橋」→大正期の「旧弾正橋」→「現弾正橋」という経過をたどった、と。)
③日本製の鉄を初めて使用したのか。
わが国の鉄骨構造の最初のものは、明治元年(1968 年)に、長崎市の中島川に架けられた銕橋(くろがねばし)通称「てつばし」、明治2年(1969 年)に横浜市にかけられた吉田橋で、いずれも橋長20m、錬鉄製で、材料・設計とも輸入品であった。そのため、わが国最初の国産鉄を用いた構造物は、明治11 年(1878 年)に製作された元弾正橋といわれている。
なお、どこの製鉄所(例えば釜石などにはあったが)で作られたかは不明なようで、当時ではまだ満足な反射炉もないため、鉄鉱石からではなく、伝統的な製鉄法(たたら)で、砂鉄から製造したとも考えられる、とのこと。
また、八幡橋(元弾正橋)の引張材の留付けには、現在、ナットが用いられているが、このナットの形状は、当時のものではないようにも見受けられる。
江東区に保管されている、昭和4 年に現在の地に移設された際の震災復興橋梁図面「八幡橋 一般構造圖、橋台構造圖、縦横断面圖。江東区昭和3 年4 月」によると、補修工事等の際に、ナットは交換された可能性もある、とのこと。
八幡橋(元弾正橋)が架けられた頃、例えば、同志社クラーク記念館では推定明治25年製のボルト・ナットを、唐招提寺では明治期の修復において類似のボルト・ナットを使用されていたことが発見されたりしている。いずれも輸入錬鉄鋼材のようである。
八幡橋(元弾正橋)が当時からナット形式であったか明確ではないが、ナット形式の場合、引張材の錬鉄やナットは輸入のものである可能性も考えられる。(上記資料による)
④工部省赤羽製作所はどこにあったのか。
八幡橋(元弾正橋)を製作した赤羽製作所は、現在の東京都港区三田一丁目付近にあった、工部省管轄の官営工場の一つ。明治4年に工部省内に開設された製鉄寮に製鉄所が創られ、明治6年に製作寮に移り「赤羽製作所」が設置された。明治10年に工作局が置かれると、これに属し赤羽工作分局となった。元弾正橋の他、「高橋」(深川)や「浅草橋」(どちらも当時の橋は、現存していない)も製作している。当初の様子は、以下の記事から伺える。
「工部省製鐵所 赤羽に建設 竿鐵・平鐵も出来る (明治四年九月 新聞雑誌一三)」
今般東京芝赤羽元久留米藩邸ニ於テ、工部省製鐵所ヲ設ケラルルヨシ、竿鐵、平鐵等ノ如キ我邦ニテ未ダ見ザル品モ容易ク得ルニ至ルベシ、其器械衆目ヲ驚カス機關ナリト云。」
⑤今ある鉄橋では最古に属するとは。
現存する最古の鉄橋は、大阪・心斎橋らしい。「心斎橋」は、もともと長堀川に架かっていた橋。それまであった木橋が1873年(明治6年)、本木昌造の設計によって鉄橋に生まれ変わった。ただし、ドイツ製で、大阪で2番目、日本で5番目の鉄橋だった。廃橋後、いくつかの場所に移設されたが、鶴見緑地公園の緑地西橋として現存し、日本現存最古の鉄橋と言われている、とのこと。すると、「元弾正橋」は、現存する道路橋としては2番目に古いものとなるらしい。
⑥ウィップル形トラス橋とは。
ボーストリング形ともいう。ウイップル形トラス橋は、米国人スクワイアー・ウイップル氏の特許が基本となっている。
⑦鋳鉄、錬鉄の違いとは。
銑鉄(鋳鉄)は融けやすいので鋳造により各種の構造物の製造に用いられた。しかし、脆くて大きな橋などの材料としては用いることができなかった。
銑鉄の炭素含有量を減らすことができれば純鉄に近い炭素量の少ない鉄ができる。炭素が抜けると、鉄の融点は上昇し粘りけが強くなる。 高温の「反射炉」の側面から取り出したものが錬鉄。初期の錬鉄は純度の低いものであったが、反射炉の構造と規模が改良されて、純度の高い物が得られるようになった。
錬鉄の赤熱塊を蒸気動力で圧延して錬鉄材を作り構造材が作られた。1889年完成のパリのエッフェル塔は錬鉄製であり、当時の橋、鉄道レールなども錬鉄製のものが多かった。現在は、より強度があって、加工もしやすい鋼鉄に。
「元弾正橋」については、アーチ部には鋳鉄(ちゅうてつ) 製の5本の直材を繋ぎ、その他の引張材には錬鉄(れんてつ) が使われた、鋳錬混合の橋で、明治・大正期に数多く架設される 「錬鉄トラス橋」 の基となる橋であった。近代橋梁史上や技術史上においても非常に価値の高い橋である。
⑧今の「弾正橋」は。
現在の『弾正橋』 は、大正15年(1926年)、「鍛冶橋通り」 の拡幅開通に伴って架設されたもので、関東大震災の復興事業による橋梁の一つ。その時に、「元弾正橋」は、廃橋となった。
その後、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)に、「楓川」が埋め立てられ、その跡に首都高速道路が開通したため、その上を通るように架けられている。それに合わせて、橋の両側(北・南)に公園が設置されるなどの改修工事、さらに、平成 5年(1993)には再整備された。
「楓川弾正橋公園」。
北側の公園には 『元弾正橋』のモニュメントや川筋のモニュメントが設けられ、現在は、サラリーマンなどの喫煙スペースに。
小さなモニュメント。元の橋を縮尺してあるように見える(橋のたもとの記念碑では「象徴的に復元」とある)。
遠景。
「弾正橋」。
橋上の首都高。
⑨「元弾正橋」の架橋時と現在の構造上の相違は。
架橋時:橋長 8 間2 尺(約15.2㍍)、橋幅 5 間(約9.1㍍)。
現在:橋長 15.2㍍、橋幅2㍍。
長さは変わらないが、幅が狭くなっている。これも、資料によってもともと(元)弾正橋として架橋されたときから橋幅は2㍍だった、という説もあるが、現在の実際の幅から考えてみて、かつてはもっと幅が広かったと考えるのが、妥当ではないか。
なお、現在の「元弾正橋」は、赤く塗られているが(「富岡八幡宮」との関連あり?)、架橋当時は何色だったのか? モニュメントでは黒っぽい色をしているが。
「廃橋となった元弾正橋は、東京市最古の鉄橋を記念するため、昭和4 年(1929 年)深川区(現江東区)油堀川支川に移し、再用された(昭和3 年12 月3 日起工、昭和4 年5 月1 日竣工)。富岡八幡宮の東隣であるため、橋名は八幡橋と改められた。この時、橋幅は2m ほどに狭まり、床版の前面打換えが行なわれたとの記録がある。」(上記資料より)
⑩「三ツ橋」とは。
かつて、北東から楓川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差しており、この交差点に近い楓川に弾正橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、この三橋を三つ橋と総称していた、とある。江戸名所図会にも「三ツ橋」として紹介されており、『弾正橋』(楓川)、『白魚橋』(京橋川)、『真福寺橋』(三十間堀) は、三橋合わせて 俗に『三ツ橋』 と呼ばれ、その眺めのよさから江戸の名所の一つとなっていたようだ。
現在、これらの川は全て埋め立てられ、これらの橋もすべて廃橋になり、現在は『弾正橋』 だけが残っている。
「楓川」跡の首都高。「弾正橋」。
「弾正橋」にあった標識。「白魚橋駐車場」とある。「白魚橋」は駐車場名として残っている。
一ツ所に橋を三所架せし故にしか呼べり。北八町堀より本材木町八丁目へ渡るを弾正橋と呼び、(寛永の頃今の松屋町の角に、島田弾正少弼やしきありし故といふ。)本材木町より白魚屋鋪(やしき)へ渡るを牛の草橋(注:後の白魚橋)といふ。又白魚屋鋪より南八町堀へ架する橋を、真福寺橋と号くるなり。
記念碑にある「三ツ橋」の図。江戸期。
「八幡堀緑道公園」内にある「東京名所図会(正しくは「新撰東京名所図会」か?)。左奥に見える橋が鉄橋になった「弾正橋」。手前の橋は、「白魚橋」。ここでは、二つの橋しか描かれていない。
それよりも前・明治中期のようす。四方に橋が架かっているように見える。
⑪「八幡橋」の下の緑道は
『元弾正橋』 が移設された江東区の 「富岡八幡宮」 の東隣には、当時は「油堀川支川(八幡堀)」 が流れており、当初はれっきとした堀に架かる橋であった。昭和51年(1976 年)には堀も埋め立てられ、「八幡堀緑道公園」となり、『八幡橋』 は緑道公園を跨ぐ歩行者専用橋となっている。
「油堀川」(下之橋から木場に至る運河。元禄年間に掘られた運河で物資の運搬が盛んだった。現在の佐賀町、福住町の両岸には特に油問屋が多く、緑橋の南西には油商人会所もあり、油堀河岸とか油堀と称された)は、昭和50年(1975年)に埋め立てられ、そのあとに首都高速9号深川線が建設された。「油堀川支川(八幡堀)」は、「富岡八幡」「深川不動」「深川公園」を取り囲むように流れていた。
「油堀川」埋め立て後の首都高深川線。
「八幡堀緑道公園」のようす。
公園の入り口付近にある旧大島川(大横川)に架かっていた橋「新田(にった)橋」。
説明板。
かつて、この付近は水路が縦横に走っていた。埋め立てられて橋なども消失したが、まだまだその痕跡は多くあるようだ。
明治中期のようす。中央付近が「富岡八幡宮」。周囲の堀が「油堀川支川(八幡堀)」。この少し南側は海岸線だった。
⑫芭蕉の句について
「三ツ橋」。弾正橋の橋のたもとにある記念碑と同じ絵柄。左が「真福寺橋」中央奥が「牛の草橋(白魚橋)」手前が「弾正橋」。
『江戸名所図会』(三ツ橋)の挿絵に『風羅袖日記』「八町堀にて」として載っている芭蕉の句。
『風羅袖日記』 八丁堀にて
菊の花さくや石屋の石の間
芭蕉
(きくのはな さくやいしやの いしのあい)
元禄6年秋の作。
注:江戸時代、「八丁堀」付近には石屋が多かった。船での運搬に便利だったためである。
寛政11年(1799年)10月発刊。
文化元年(1804年)、『芭蕉袖日記』として再刊。860句余りが収録されているが、そのうち存疑95句、誤伝21句、とのこと。この句を芭蕉が作ったことは、間違いないらしい。
素綾自序
其いつ歟、芭蕉袖日記といへる発句集を師より伝はりて、陀袋にこめをきし事年あり。其句数七百五十有余なりし、予また十余り九とせばかり前の頃、牛路鯨浜にさすらひて、蕉翁のツエを曳れしふる道をしたひ、都鄙に間々書おかれたる色紙、短冊の句々を写し得て、武蔵野、野ざらし、鹿島、よし野、更料(科)、奥の細道等の紀行に洩たるを加へ、都て八百六十余句とはなれりける。
以下の内容(鉄橋の構造その他)は、
「わが国最初の国産鉄の構造物 八幡橋(元弾正橋)」(財)建材試験センター 木村麗
によるところ、大です。
①弾正橋の命名の由来は。
『弾正橋(だんじょうばし)』 は、江戸城馬場先門と本所・深川方面を結ぶ重要な交通路(皇居の二重橋前から八丁堀方面に向う、現「鍛冶橋通り」)にあり、(中央区)京橋と八丁堀との間・楓川に架けられた橋。
橋の名の由来は、橋の東側(八丁堀側)に江戸時代初期に町奉行を勤めた島田弾正の屋敷があったことから。
橋が架けられたのは、江戸時代の初期、寛永年間 (1624~1643) と伝えられ、その頃の『弾正橋』(「元弾正橋」)は、現在の「鍛冶橋通り」よりも少し下流(南側。一説では、現在の『弾正橋』の50~60m下流)に架かっていた。
楓川は、江戸時代にこの近辺の土地が造成・整備され、その際に出来た人工の堀。日本橋川の兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し、京橋川・桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2kmの人口の堀。現在は首都高速都心環状線がその跡を通る。特に日本橋川から江戸市中に物資を運びやすい楓川周辺には商人や職人が多く住み、川岸には河岸や蔵が並び、経済の中心として栄えた。
なお、新馬橋より弾正橋までの部分は、楓川の跡を利用した高速道路なので、地上を通る道路の下を通る構造となっている。そのため、新場橋、久安橋、宝橋、松幡橋、弾正橋は残されている。また、永代通りに架かる千代田橋は、その上を高速道路が通っているにもかかわらず、欄干、橋柱などが当時のまま残され、海運橋は橋柱のみ保存されている。
②廃橋はいつの時点か。橋名は「旧」なのか「元」なのか。
大正2年(1913 年)、新しい弾正橋が現在の鍛冶橋通りにある位置に架けられたため、当初の弾正橋は「元弾正橋」と改称された。その後、大正12年(1923年)関東大震災後の帝都復興計画で、大正15 年(1926 年)に「鍛冶橋通り」が拡幅され、現在の弾正橋に架け替えられ、元弾正橋は廃橋となった。元弾正橋は、鍛冶橋通りにある現在の弾正橋より下流(南側)に位置したことから、道路の拡幅工事によって廃橋になった、と考えられる。ただ、①の一説(50~60㍍南側)だと違うようだが。いずれにせよ、いきさつからみて「旧弾正橋」と称したことはなく、「元」弾正橋と称するのが正しいようだ。(江戸期の「(木橋としての)弾正橋」→明治期の「元弾正橋」→大正期の「旧弾正橋」→「現弾正橋」という経過をたどった、と。)
③日本製の鉄を初めて使用したのか。
わが国の鉄骨構造の最初のものは、明治元年(1968 年)に、長崎市の中島川に架けられた銕橋(くろがねばし)通称「てつばし」、明治2年(1969 年)に横浜市にかけられた吉田橋で、いずれも橋長20m、錬鉄製で、材料・設計とも輸入品であった。そのため、わが国最初の国産鉄を用いた構造物は、明治11 年(1878 年)に製作された元弾正橋といわれている。
なお、どこの製鉄所(例えば釜石などにはあったが)で作られたかは不明なようで、当時ではまだ満足な反射炉もないため、鉄鉱石からではなく、伝統的な製鉄法(たたら)で、砂鉄から製造したとも考えられる、とのこと。
また、八幡橋(元弾正橋)の引張材の留付けには、現在、ナットが用いられているが、このナットの形状は、当時のものではないようにも見受けられる。
江東区に保管されている、昭和4 年に現在の地に移設された際の震災復興橋梁図面「八幡橋 一般構造圖、橋台構造圖、縦横断面圖。江東区昭和3 年4 月」によると、補修工事等の際に、ナットは交換された可能性もある、とのこと。
八幡橋(元弾正橋)が架けられた頃、例えば、同志社クラーク記念館では推定明治25年製のボルト・ナットを、唐招提寺では明治期の修復において類似のボルト・ナットを使用されていたことが発見されたりしている。いずれも輸入錬鉄鋼材のようである。
八幡橋(元弾正橋)が当時からナット形式であったか明確ではないが、ナット形式の場合、引張材の錬鉄やナットは輸入のものである可能性も考えられる。(上記資料による)
④工部省赤羽製作所はどこにあったのか。
八幡橋(元弾正橋)を製作した赤羽製作所は、現在の東京都港区三田一丁目付近にあった、工部省管轄の官営工場の一つ。明治4年に工部省内に開設された製鉄寮に製鉄所が創られ、明治6年に製作寮に移り「赤羽製作所」が設置された。明治10年に工作局が置かれると、これに属し赤羽工作分局となった。元弾正橋の他、「高橋」(深川)や「浅草橋」(どちらも当時の橋は、現存していない)も製作している。当初の様子は、以下の記事から伺える。
「工部省製鐵所 赤羽に建設 竿鐵・平鐵も出来る (明治四年九月 新聞雑誌一三)」
今般東京芝赤羽元久留米藩邸ニ於テ、工部省製鐵所ヲ設ケラルルヨシ、竿鐵、平鐵等ノ如キ我邦ニテ未ダ見ザル品モ容易ク得ルニ至ルベシ、其器械衆目ヲ驚カス機關ナリト云。」
⑤今ある鉄橋では最古に属するとは。
現存する最古の鉄橋は、大阪・心斎橋らしい。「心斎橋」は、もともと長堀川に架かっていた橋。それまであった木橋が1873年(明治6年)、本木昌造の設計によって鉄橋に生まれ変わった。ただし、ドイツ製で、大阪で2番目、日本で5番目の鉄橋だった。廃橋後、いくつかの場所に移設されたが、鶴見緑地公園の緑地西橋として現存し、日本現存最古の鉄橋と言われている、とのこと。すると、「元弾正橋」は、現存する道路橋としては2番目に古いものとなるらしい。
⑥ウィップル形トラス橋とは。
ボーストリング形ともいう。ウイップル形トラス橋は、米国人スクワイアー・ウイップル氏の特許が基本となっている。
⑦鋳鉄、錬鉄の違いとは。
銑鉄(鋳鉄)は融けやすいので鋳造により各種の構造物の製造に用いられた。しかし、脆くて大きな橋などの材料としては用いることができなかった。
銑鉄の炭素含有量を減らすことができれば純鉄に近い炭素量の少ない鉄ができる。炭素が抜けると、鉄の融点は上昇し粘りけが強くなる。 高温の「反射炉」の側面から取り出したものが錬鉄。初期の錬鉄は純度の低いものであったが、反射炉の構造と規模が改良されて、純度の高い物が得られるようになった。
錬鉄の赤熱塊を蒸気動力で圧延して錬鉄材を作り構造材が作られた。1889年完成のパリのエッフェル塔は錬鉄製であり、当時の橋、鉄道レールなども錬鉄製のものが多かった。現在は、より強度があって、加工もしやすい鋼鉄に。
「元弾正橋」については、アーチ部には鋳鉄(ちゅうてつ) 製の5本の直材を繋ぎ、その他の引張材には錬鉄(れんてつ) が使われた、鋳錬混合の橋で、明治・大正期に数多く架設される 「錬鉄トラス橋」 の基となる橋であった。近代橋梁史上や技術史上においても非常に価値の高い橋である。
⑧今の「弾正橋」は。
現在の『弾正橋』 は、大正15年(1926年)、「鍛冶橋通り」 の拡幅開通に伴って架設されたもので、関東大震災の復興事業による橋梁の一つ。その時に、「元弾正橋」は、廃橋となった。
その後、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)に、「楓川」が埋め立てられ、その跡に首都高速道路が開通したため、その上を通るように架けられている。それに合わせて、橋の両側(北・南)に公園が設置されるなどの改修工事、さらに、平成 5年(1993)には再整備された。
「楓川弾正橋公園」。
北側の公園には 『元弾正橋』のモニュメントや川筋のモニュメントが設けられ、現在は、サラリーマンなどの喫煙スペースに。
小さなモニュメント。元の橋を縮尺してあるように見える(橋のたもとの記念碑では「象徴的に復元」とある)。
遠景。
「弾正橋」。
橋上の首都高。
⑨「元弾正橋」の架橋時と現在の構造上の相違は。
架橋時:橋長 8 間2 尺(約15.2㍍)、橋幅 5 間(約9.1㍍)。
現在:橋長 15.2㍍、橋幅2㍍。
長さは変わらないが、幅が狭くなっている。これも、資料によってもともと(元)弾正橋として架橋されたときから橋幅は2㍍だった、という説もあるが、現在の実際の幅から考えてみて、かつてはもっと幅が広かったと考えるのが、妥当ではないか。
なお、現在の「元弾正橋」は、赤く塗られているが(「富岡八幡宮」との関連あり?)、架橋当時は何色だったのか? モニュメントでは黒っぽい色をしているが。
「廃橋となった元弾正橋は、東京市最古の鉄橋を記念するため、昭和4 年(1929 年)深川区(現江東区)油堀川支川に移し、再用された(昭和3 年12 月3 日起工、昭和4 年5 月1 日竣工)。富岡八幡宮の東隣であるため、橋名は八幡橋と改められた。この時、橋幅は2m ほどに狭まり、床版の前面打換えが行なわれたとの記録がある。」(上記資料より)
⑩「三ツ橋」とは。
かつて、北東から楓川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差しており、この交差点に近い楓川に弾正橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、この三橋を三つ橋と総称していた、とある。江戸名所図会にも「三ツ橋」として紹介されており、『弾正橋』(楓川)、『白魚橋』(京橋川)、『真福寺橋』(三十間堀) は、三橋合わせて 俗に『三ツ橋』 と呼ばれ、その眺めのよさから江戸の名所の一つとなっていたようだ。
現在、これらの川は全て埋め立てられ、これらの橋もすべて廃橋になり、現在は『弾正橋』 だけが残っている。
「楓川」跡の首都高。「弾正橋」。
「弾正橋」にあった標識。「白魚橋駐車場」とある。「白魚橋」は駐車場名として残っている。
一ツ所に橋を三所架せし故にしか呼べり。北八町堀より本材木町八丁目へ渡るを弾正橋と呼び、(寛永の頃今の松屋町の角に、島田弾正少弼やしきありし故といふ。)本材木町より白魚屋鋪(やしき)へ渡るを牛の草橋(注:後の白魚橋)といふ。又白魚屋鋪より南八町堀へ架する橋を、真福寺橋と号くるなり。
記念碑にある「三ツ橋」の図。江戸期。
「八幡堀緑道公園」内にある「東京名所図会(正しくは「新撰東京名所図会」か?)。左奥に見える橋が鉄橋になった「弾正橋」。手前の橋は、「白魚橋」。ここでは、二つの橋しか描かれていない。
それよりも前・明治中期のようす。四方に橋が架かっているように見える。
⑪「八幡橋」の下の緑道は
『元弾正橋』 が移設された江東区の 「富岡八幡宮」 の東隣には、当時は「油堀川支川(八幡堀)」 が流れており、当初はれっきとした堀に架かる橋であった。昭和51年(1976 年)には堀も埋め立てられ、「八幡堀緑道公園」となり、『八幡橋』 は緑道公園を跨ぐ歩行者専用橋となっている。
「油堀川」(下之橋から木場に至る運河。元禄年間に掘られた運河で物資の運搬が盛んだった。現在の佐賀町、福住町の両岸には特に油問屋が多く、緑橋の南西には油商人会所もあり、油堀河岸とか油堀と称された)は、昭和50年(1975年)に埋め立てられ、そのあとに首都高速9号深川線が建設された。「油堀川支川(八幡堀)」は、「富岡八幡」「深川不動」「深川公園」を取り囲むように流れていた。
「油堀川」埋め立て後の首都高深川線。
「八幡堀緑道公園」のようす。
公園の入り口付近にある旧大島川(大横川)に架かっていた橋「新田(にった)橋」。
説明板。
かつて、この付近は水路が縦横に走っていた。埋め立てられて橋なども消失したが、まだまだその痕跡は多くあるようだ。
明治中期のようす。中央付近が「富岡八幡宮」。周囲の堀が「油堀川支川(八幡堀)」。この少し南側は海岸線だった。
⑫芭蕉の句について
「三ツ橋」。弾正橋の橋のたもとにある記念碑と同じ絵柄。左が「真福寺橋」中央奥が「牛の草橋(白魚橋)」手前が「弾正橋」。
『江戸名所図会』(三ツ橋)の挿絵に『風羅袖日記』「八町堀にて」として載っている芭蕉の句。
『風羅袖日記』 八丁堀にて
菊の花さくや石屋の石の間
芭蕉
(きくのはな さくやいしやの いしのあい)
元禄6年秋の作。
注:江戸時代、「八丁堀」付近には石屋が多かった。船での運搬に便利だったためである。
寛政11年(1799年)10月発刊。
文化元年(1804年)、『芭蕉袖日記』として再刊。860句余りが収録されているが、そのうち存疑95句、誤伝21句、とのこと。この句を芭蕉が作ったことは、間違いないらしい。
素綾自序
其いつ歟、芭蕉袖日記といへる発句集を師より伝はりて、陀袋にこめをきし事年あり。其句数七百五十有余なりし、予また十余り九とせばかり前の頃、牛路鯨浜にさすらひて、蕉翁のツエを曳れしふる道をしたひ、都鄙に間々書おかれたる色紙、短冊の句々を写し得て、武蔵野、野ざらし、鹿島、よし野、更料(科)、奥の細道等の紀行に洩たるを加へ、都て八百六十余句とはなれりける。
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