6月11日(土)。晴れ。梅雨入りはしましたが、青空が広がりました。今回は、猿橋駅で下車し、笹子駅から乗車するという行程です。猿橋駅に9時前に着き、「猿橋」方向へ少し街道を戻り、コンビニで食料を調達、9時過ぎに出発。そして、県道から「笹子峠」に向かう山道の入口にある「新田下」バス停に15時過ぎに到着。約17㎞の道のり、約28,000歩でした。
猿橋駅で下車した人は数人。街道歩きの人間はいなさそうです。すれ違う人も稀で、結局、会話したのは、「オトリ鮎」にいたおじさん、途中立ち寄った食堂のおばさん、笹一酒造のお兄さん、そして小一時間待った「新田下」バス停での散歩中の親子連れだけ。
路線バスでは始発の「新田」から乗ったであろう3人連れの「山おばさん」グループでしたが、話はせず。
土日にもかかわらず、街道歩きの人たちは、ほとんど見かけません。「東海道」や「中山道」とは大違いです。考えてみたら、もう6日目だというのにこれまでもすれ違う同好の士・旅人も合計でわずか4,5人でした。「山登り」の方々はたくさんいますが。
「共謀罪」やら「モリ・カケ」問題、次々と指弾されているのもかかわらず、まったく無視して突っ走るアベ自公政権。
こうして相変わらず「街道歩き」にうつつを抜かすことへの後ろめたさを感じつつ。
(9:07)国道を左にカーブするところに「猿橋一里塚」跡の標柱。大きな石碑に隠れるように立っています。
行く先を望む。
右側が急に開けてきます。
旧道は「山梨中央自動車」のところを右折します。雄大な景色の向こうに「岩殿山」が。
土曜日のせいか、静かな道をゆっくり下っていきます。
庚申塚。
左の道を進むと、右下の「発電所」敷地に大きなタービンが据え付けられています。かつて使用されていたものでしょう。解説板がありますが、ここからでは判読、不能。
1907(明治40)年に東京電燈が山梨県北都留郡廣里村(当時)の駒橋に建設した「駒橋発電所」は、出力15000kWの、当時としては日本最大の水力発電所でした。東京(早稲田変電所)までの76㎞を55kVの特別高圧線で送電を行い、その後本格化する高電圧長距離送電の草分けとなりました。
当時の「駒橋発電所」は、有効落差104㍍、最大使用水量25.4立方メートル/秒でした。発電所にはEscher Wyss社(スイス)1904年製の横軸フランシス双輪単流形水車が6台(合計27000馬力、そのうちの1台は予備)稼働し、シーメンス社(ドイツ)製の3900KVA発電機6台(そのうちの1台は予備)で発電を行っていました。これらの竣工当時に設置されたフランシス水車と発電機は老朽化のため昭和20~30年代に撤去され、大容量のフランシス水車と発電機それぞれ1台で稼働しています。
日本で最初の水力発電所は、京都・蹴上の琵琶湖疎水を利用した「蹴上発電所」(1891(明治24)年11月送電開始)でした。東京では明治30年代になって増加する電力需要をまかなうため東京電燈(1886<明治19>年営業開始)によって火力発電所が増設されていきました。東京の市街地に設置されたこれら5カ所の火力発電所は消費地に隣接した近距離送電によるものでした。やがて日露戦争などの影響による産業政策で石炭が慢性的に不足するようになり火力発電では増加する電力需要に応じきれなくなりました。そのため東京電燈は、水力発電による東京への長距離送電を計画しました。長距離送電技術の研究と水利調査などを経て山梨県大月に「駒橋発電所」をつくり(1906<明治39>年1月着工、1909<明治42>年12月20日竣工)東京(早稲田変電所)へ初めて水力発電による長距離送電(76kmで当時は日本最長)を開始しました。山梨県大月に「駒橋発電所」が設置された理由は、桂川が山中湖を水源としており、豊富な湧水が安定して得られることや消費地に比較的近いこと、送電ルートが確保しやすかったことなどによります。
昭和30年代からの高度経済成長期には、東京では火力発電が主流となり、駒橋発電所からの長距離送電は廃止されます。現在は山梨県東部地域へ送電しています。
東京電燈「駒橋発電所」時代の発電所本館(煉瓦造)は取り壊され、発電室(煉瓦造)は改修されたため当時の姿を留めてはいません。
竣工当時は8本の水圧鉄管がありましたが、現在は2本となっています。
水圧鉄管3本分のアンカーブロックが残されています。
(「産業技術遺産探訪~東京電力 駒橋発電所」www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2002/koma/koma.htm」HPより)
※ 先ほど目にしたものは、旧・桂川電力公司 鹿留発電所フランシス水車(1912年フォイト製)のようです。
また、かつて「蹴上発電所」について掲載したことがあります。「インクライン」の時と東海道歩きの時と。
煉瓦造りの現役の発電所の建物。
導水管を越えたら、すぐ左の坂道に入ります。
「第五甲州街道踏切」。
振り返ると電車が通過中。
じきに「国道」に合流しますが、すぐ「横尾橋」バス停のところから右の道に入ります。
この辺り、旧道は鉄道建設、国道の開通、発電所建設などで寸断されています。
この旧道沿いが「駒橋宿」となります。
駒橋宿は、本陣、脇本陣がなく、旅籠4軒と、とても小さな宿でした。
「厄王大権現」。
振り返って望む。
再び国道に合流します。
その手前に旧家。
猿橋駅で下車した人は数人。街道歩きの人間はいなさそうです。すれ違う人も稀で、結局、会話したのは、「オトリ鮎」にいたおじさん、途中立ち寄った食堂のおばさん、笹一酒造のお兄さん、そして小一時間待った「新田下」バス停での散歩中の親子連れだけ。
路線バスでは始発の「新田」から乗ったであろう3人連れの「山おばさん」グループでしたが、話はせず。
土日にもかかわらず、街道歩きの人たちは、ほとんど見かけません。「東海道」や「中山道」とは大違いです。考えてみたら、もう6日目だというのにこれまでもすれ違う同好の士・旅人も合計でわずか4,5人でした。「山登り」の方々はたくさんいますが。
「共謀罪」やら「モリ・カケ」問題、次々と指弾されているのもかかわらず、まったく無視して突っ走るアベ自公政権。
こうして相変わらず「街道歩き」にうつつを抜かすことへの後ろめたさを感じつつ。
(9:07)国道を左にカーブするところに「猿橋一里塚」跡の標柱。大きな石碑に隠れるように立っています。
行く先を望む。
右側が急に開けてきます。
旧道は「山梨中央自動車」のところを右折します。雄大な景色の向こうに「岩殿山」が。
土曜日のせいか、静かな道をゆっくり下っていきます。
庚申塚。
左の道を進むと、右下の「発電所」敷地に大きなタービンが据え付けられています。かつて使用されていたものでしょう。解説板がありますが、ここからでは判読、不能。
1907(明治40)年に東京電燈が山梨県北都留郡廣里村(当時)の駒橋に建設した「駒橋発電所」は、出力15000kWの、当時としては日本最大の水力発電所でした。東京(早稲田変電所)までの76㎞を55kVの特別高圧線で送電を行い、その後本格化する高電圧長距離送電の草分けとなりました。
当時の「駒橋発電所」は、有効落差104㍍、最大使用水量25.4立方メートル/秒でした。発電所にはEscher Wyss社(スイス)1904年製の横軸フランシス双輪単流形水車が6台(合計27000馬力、そのうちの1台は予備)稼働し、シーメンス社(ドイツ)製の3900KVA発電機6台(そのうちの1台は予備)で発電を行っていました。これらの竣工当時に設置されたフランシス水車と発電機は老朽化のため昭和20~30年代に撤去され、大容量のフランシス水車と発電機それぞれ1台で稼働しています。
日本で最初の水力発電所は、京都・蹴上の琵琶湖疎水を利用した「蹴上発電所」(1891(明治24)年11月送電開始)でした。東京では明治30年代になって増加する電力需要をまかなうため東京電燈(1886<明治19>年営業開始)によって火力発電所が増設されていきました。東京の市街地に設置されたこれら5カ所の火力発電所は消費地に隣接した近距離送電によるものでした。やがて日露戦争などの影響による産業政策で石炭が慢性的に不足するようになり火力発電では増加する電力需要に応じきれなくなりました。そのため東京電燈は、水力発電による東京への長距離送電を計画しました。長距離送電技術の研究と水利調査などを経て山梨県大月に「駒橋発電所」をつくり(1906<明治39>年1月着工、1909<明治42>年12月20日竣工)東京(早稲田変電所)へ初めて水力発電による長距離送電(76kmで当時は日本最長)を開始しました。山梨県大月に「駒橋発電所」が設置された理由は、桂川が山中湖を水源としており、豊富な湧水が安定して得られることや消費地に比較的近いこと、送電ルートが確保しやすかったことなどによります。
昭和30年代からの高度経済成長期には、東京では火力発電が主流となり、駒橋発電所からの長距離送電は廃止されます。現在は山梨県東部地域へ送電しています。
東京電燈「駒橋発電所」時代の発電所本館(煉瓦造)は取り壊され、発電室(煉瓦造)は改修されたため当時の姿を留めてはいません。
竣工当時は8本の水圧鉄管がありましたが、現在は2本となっています。
水圧鉄管3本分のアンカーブロックが残されています。
(「産業技術遺産探訪~東京電力 駒橋発電所」www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2002/koma/koma.htm」HPより)
※ 先ほど目にしたものは、旧・桂川電力公司 鹿留発電所フランシス水車(1912年フォイト製)のようです。
また、かつて「蹴上発電所」について掲載したことがあります。「インクライン」の時と東海道歩きの時と。
煉瓦造りの現役の発電所の建物。
導水管を越えたら、すぐ左の坂道に入ります。
「第五甲州街道踏切」。
振り返ると電車が通過中。
じきに「国道」に合流しますが、すぐ「横尾橋」バス停のところから右の道に入ります。
この辺り、旧道は鉄道建設、国道の開通、発電所建設などで寸断されています。
この旧道沿いが「駒橋宿」となります。
駒橋宿は、本陣、脇本陣がなく、旅籠4軒と、とても小さな宿でした。
「厄王大権現」。
振り返って望む。
再び国道に合流します。
その手前に旧家。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます