この作品での「三島(由紀夫)賞」受賞会見の実に不機嫌な振舞い・演技・本音? そうした下世話な情報に惑わされてはなりません、この方を見くびってはいけないということですわ。もちろん、この(純・文学)作品はそうした「下(しも)々」のお話を軽く越えているお話しなんだから。
このお話の舞台は、昭和16年(1941年)、大日本帝国の首都・東京。太平洋戦争(当時の言い方では「大東亜戦争」)勃発直前頃のお話のようね。
主人公は二朗という童貞のお坊ちゃん。東京帝大法科の受験を控えた旧制高校生ね。一方、「伯爵夫人」。元娼婦らしいのね、ホントウかどうかわからないけどスパイ? かも。で、その道に長けているプロなのね。
他の登場人物も多士済々、なかなかなものよ、二朗くんの従妹の蓬子なんか、婚約者がいるのにその未熟な肉体・性を二朗にさらすのね、どこまで本気なのか、茶化しているのかわからないけど。
そんなことだけにお話しはとどまらないのが、この方のお作法。読者を煙に巻くのは手慣れたものよね。
次々に飛び出す謎かけ的な固有名詞。「平岡」が「三島由紀夫」だ、くらいはすぐ分かったけれど、戦前の聖林スターの名前も映画のシーンなんかちっとも存じ上げないわ。
もう一方じゃ「武器よさらば」ってゲイリークーパーの映画、私だって知ってるわよ。それを題名は憶えておりません、などと伯爵夫人に平気で言わせるし。でも、「前田山の張り手」なんて知らなかったわ。こんな風にペダンティックなのはちょっといやらしいわよね。
そうそう、外国の都市名なんかは、すべて漢字表記。最初だけ仮名を振ってあるけど、その後は漢字のみ、あれ! 何と読むんだっけ? まったくわずらわしいわよね。
さて、伯爵夫人の口からは、いきなり「青くせい魔羅」「あたいの熟れたまんこ」(あら、恥ずかしい! )などという単語が爆撃のように飛び出す始末。
つい意図せず(「伯爵夫人」の意図に反してかな?)白濁したあれを発射しちゃった二朗を責めて、啖呵を切る場面なんか、作者自身が一番楽しんでいる雰囲気よね。小説な作法としていかがなものかしら、とは思うけどさ。
二朗の「おみお玉」(美称の接頭語が三つも用いられている。「おみおつけ」と同じよね。)と尊称された(内心はバカにしている)男根さまが、硬式ボールに直撃されて損傷。「百戦錬磨」の女たちの手でためつすがめつ丁寧に介抱されるわね。でも、けっこう立派な一物のよう、彼のナニは。そこで、ますます女性陣はほれぼれとしつつかわいがって、いいおもちゃになるわけなのね。玉と棒とをうまく使い分けながら・・・。
二朗たち男の間では「M」と呼び合っている男性性器を「おちんちん」などと何度も気楽に呼ぶ女性たち。でも、やっぱり「玉」=「弾」にこだわっているのね、当然「射」にも。
で、繰り広げられるのは、性(セックス)と戦争にまつわる物語なわけよ。
二朗を幼少の頃から世話している「小春」という女性も二朗(の何)を手玉に取っての活躍なんかも面白し、スパイ物のようなお話しだと思わせている・・・。
作者お得意の、同じような場面、表現が飛び出し、読者を煙に巻くのがこの方らしい小説作法なのね。
そうそう。今もある、「ドロステ・ココア」の缶(の図柄)が立派な小道具として登場するわ。
(「Amazon」より)
尼僧が手にしている盆の上のココア缶にも同じ角張った白いコルネット姿の尼僧が描かれているので、この図柄はひとまわりずつ小さくなりながらどこまでも切れ目なく続くかと思われがちです。ところが、それは無に向けての無限連鎖ではない。なぜなら、あの尼僧が見すえているものは、・・・戦争以外の何ものでもないと伯爵夫人はいう。(P78)
あの尼僧姿のキャサリンがこちらを見ているかぎり、いつどこで戦争が起きてもおかしくない。二朗さん、おわかりになるかしら、今のお話。(p85)
絵柄の、白衣と緋色は反転させると、日の丸になっちゃうわ。ということは、かなり意図的な用い方だわ。なるほど、どこまでも続く、繰り返されるってわけね、戦争は。
そして「蝶々夫人」として、そのモデルとなったアイルランド人女性と共に軍人のお相手をしたときの一部始終を語るのよね。その挿話はなかなか興味深かったわ。でも、その話、本当かしらね?
しかし、またしても伯爵夫人の前でお洩らしちゃうのよね。伯爵夫人にせせら笑われる二朗くんですわ。まったく童貞野郎はって、あら、はしたない言い方でしたわね。
そう、このお話、「敏感」な貴方ならすぐおわかりでしょう、Hなお話に見立て、そして「大東亜」戦争にまつわる物語に仕立てているけど、実は・・・。
ポルノグラフィーの装いは、手の込んだつくりかたよね。
きっと、このお話、今のわがまま童貞風(「高貴な」「氏素性」といってもたかが知れている)のアベ何とかさんへの面当てですわ。「蓮」(ハチ)の一差しをかませてみせたようよ、元東大総長閣下が。
これって、ちょっと勝手読みしすぎたかしら。
わたくしども女にとって、殿方のあれが所詮は「あんなもの」でしかないことぐらい、女をご存じない二朗さんにもそろそろご理解いただけてもいいと本気で思っております。
・・・「あんなもの」は長かろうが太かろうが、いったん出すべきものを出してしまえばあとはあえなく無条件降伏といった按配で、勝つのはいつだって「熟れたまんこ」の方。女からみれば、殿方の事後のあれほどみじめな喪失感によく耐えられるものだと、驚嘆するほかないという意味のことを伯爵夫人はまくしたてる。
(p139)
いったん反発はしてみた二朗に執拗に迫ってくるのね、伯爵夫人は。そして、戦争さなかの過去のすったもんだを話し始めるのよね。
「戦争」と「愛欲ごっこ」は似たり寄ったり、その果ても。もちろん「ごっこ」ではすまされないけどね、戦争は。
結局、あれこれあったあげくに小春も蓬子も去り、伯爵夫人なしの生活が始まったとつぶやく二朗くん。
ふと「夕刊」に目をやると、「帝國・米英に宣戦を布告す」の文字が一面に躍っている。ああ、やっぱり。二朗は、儀式的と思えるほどゆっくりとした身振りでココア缶の包みを開け、そのひとつをしっかりと手にとり、何度も見たことがある図柄を改めて正面から凝視してみる。すると、謎めいた微笑を浮かべてこちらに視線を向けている角張った白いコルネット姿の尼僧の背後に、真っ赤な陰毛を燃えあがらせながら世界を凝視している「蝶々夫人」がすけて見え、音としては響かぬ声で、戦争、戦争と寡黙に口にしているような気がしてならない。(p199)
自ら経験をしたこともない「戦争」をもてあそぶ殿方たち、ご自身に当てはめて、よ~くお考えあそばせ。
すっかり年老いた旦那が寝ている横で、こっそり一気に読みましたわ。
では、おやすみなさいませ。
う~ん、でも、なかなか寝付かれない、やっぱり罪な小説だわ。・・・
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