おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

5月20日。「小満」。蚕。紅花。麦秋。らっきょう。アジ。衣替え。

2024-05-20 21:07:23 | 二十四節気

今日、5月20日は、二十四節気の第8番目「小満」。

東京地方。このところ、真夏日になったり、雨が降ったり止んだりと変化が激しく、すっきりしないお天気が続きます。「走り梅雨」でしょうか。しばらくすると、本格的な梅雨に入ります。

さて、「小満(しょうまん)」とは、あらゆる生命が満ち満ちていく時期のこと。

太陽の光を浴び、万物がすくすく成長していく季節です。

七十二侯では、

・初侯 5月21日〜5月26日頃

蚕起食桑 かいこおきてくわをはむ

蚕が、桑の葉をたくさん食べて成長する頃。人々の暮らしを支えていたため、「おかいこさま」と敬称をつけて呼ぶ地方もありました。

※ 養蚕の歴史は古く、紀元前15世紀頃に中国で始まり、その後、日本や遠くヨーロッパに伝わっていきました。絹織物は当時大変な貴重品であり、皇帝や国王などの権力者への献上品や、友好国への贈り物として用いられました。絹織物はその美しさから世界中の人々を魅了し、ペルシャや古代ローマの商人は海、山、砂漠などを越え、危険な目に遭いながらも絹織物を求めて中国までやってきました。交易路として彼らが通った道は、「シルクロード(絹の道)」として現在も知られています。(「農研機構」より)

・養蚕業が盛んだった頃は、群馬県、栃木県や埼玉県北部などでは桑畑を多く見かけましたが、中山道、日光街道など歩いている中では、まったく見かけることができませんでした。

伊勢崎市田島弥平旧宅主屋全景。

田島弥平旧宅は、田島弥平(文政5年(1822年)生、明治31年(1898年)没)による、近代養蚕法「清涼育(せいりょういく)」の開発と、ヤグラ(越屋根、天窓ともいう)付き総二階建ての近代養蚕農家建築の原点となった建物です。伊勢崎市境島村地区は、江戸時代中期から蚕種(さんしゅ=カイコの卵)製造の盛んな地域で、田島弥平家も有力な蚕種製造農家でした。 蚕の飼育は難しく、年によって収量の差が大きかったため、弥平は各地の養蚕方法を研究し、蚕の飼育には自然の通風が重要であると考え「清涼育」を大成し、安定した繭の生産に成功しました。 

また、「清涼育」に適した蚕室の工夫を行い、文久3年(1863年)には棟上に換気設備(ヤグラ)を備えた瓦屋根総二階建ての住居兼蚕室を建築しました。桁行き約25.38メートル、梁間約9.4メートルの大規模な建物で、1階を住居、2階を蚕室としました。 弥平は「清涼育」の普及のため明治5年(1872年)に『養蚕新論』を著し、ヤグラを付けた養蚕農家建築は、その後の近代養蚕農家建築の標準となりました。

幕末の横浜開港後、島村の蚕種製造農家は、当時微粒子病で養蚕に壊滅的な被害が出ていたヨーロッパ向けの蚕種輸出に積極的に取り組みました。

明治初期、生糸増産のために先進地の視察を行う際には、器械製糸は富岡製糸場に、養蚕技術は田島弥平に学ぶのがモデルコースでした。また、富岡製糸場の外国種などの試験飼育の要請に応え、繭品種の改良や統一運動に協力しました。

・次侯 5月27日〜5月31日頃

紅花栄 べにばなさかう

あたり一面に紅花が咲く頃。紅花は古代エジプト時代から染料として利用されていました。花びらの水に溶ける黄色の色素と、水に溶けない赤の色素から、紅色がつくられます。

ベニバナ(紅花、学名:Carthamus tinctorius)

 キク科ベニバナ属の一年草または越年草。雅称を末摘花(すえつむはな)余計な注:「源氏物語」に異様な赤鼻の女性を主人公にした「末摘花」という挿話がある)ともいう。紅色染料や食用油の原料として栽培される。
 エジプト原産といわれ、古くから世界各地で栽培されている。日本にはシルクロードを経て4 - 5世紀ごろに渡来したといわれている(6世紀伝来説もあり)。古くは和名を「くれのあい(呉藍)」といい、中国伝来の染料との意味。
 高さは1m。花期は6 - 7月で、枝先に頭状花をつける。花は、はじめ鮮やかな黄色で、徐々に赤くなる。
 日本では、平安時代に千葉県長南町で盛んに栽培され、江戸時代中期以降は現在の山形県最上地方や埼玉県桶川市、上尾市周辺で盛んに栽培された。しかし、明治時代以降、中国産の紅花が盛んに輸入され次いで化学的に合成可能なアニリン染料が普及したことから、こうした紅花生産は急速に衰退した。現在では紅花染めや観光用などにわずかに栽培されている。
 山形県ではベニバナが県花になっており、同県河北町には、「紅花資料館」がある。また、千葉県長南町も紅花を町花に指定し、月1回の紅花染め教室を開催している。
 紅花の花を摘んでから発酵・乾燥させたものが、紅色の染料や着色料(食品添加物、化粧品の口紅)の材料となる。
 ベニバナの花の色は黄色である。紅色にするには花を摘んですぐに水にさらして乾燥させる。これを何度も繰り返すと紅色になる。ベニバナの花の色素は水に溶けやすい黄色の色素サフロールイエロー99%と水に溶けにくい紅色の色素カルタミン1%が混在しており、水にさらすことによって分離するのである。
 紅花染めは、水にさらして乾燥させた花を水に含ませて餅つきと同じ方法で杵でついた後、丸餅の形にして乾燥させた状態の紅餅(べにもち)を灰汁の中に入れてかき混ぜた状態にしたのち、衣類を漬け込み(一次染め)水にさらす(灰汁はアルカリ性の液なので苦く、色もオレンジ色に仕上がる)。次に、紅餅入りの灰汁に烏梅(注:未熟な梅の果実を、薫製にしたもの)を少量加えたものに漬け込み(二次染め)水にさらす(烏梅はクエン酸の多い酸性の液体なので酸っぱく、色も赤みが加わってくる)。さらに、烏梅を少しずつ加えて配合を変えながら何度も染め上げて水にさらし乾燥させると完成する。このような手間をかけるのは、色が中に染み込みにくい特性を持つからである。

    (桶川市内)。

(以上「Wikipedia」参照)

 昭和57年には、紅花が山形県の花として定められ、山形県民に広く親しまれています。現在では、加工用品種の「もがみべにばな」や、切花用品種の「とげなし紅花」・「しろばな紅花」などが、山形県内の村山・置賜地方を中心に栽培されております。

(「」HPより)

・末侯 6月1日〜6月5日頃

麦秋至 むぎのときいたる

麦が熟し、たっぷりと金色の穂をつける頃。百穀が成熟する、麦にとっての「秋」です。この時期に穂を揺らしながら吹き渡る風を麦嵐、また降る雨を麦雨と呼びます。

(解説の項は「暦生活」HPより)

この麦畑が一面黄金色に染まったらさぞ見事でしょう。(写真は、一昨年5/3「日光東往還」歩きの時のもの)

佐賀市の麦秋の風景 

佐賀市は大和町以北の山間部と有明海まで続く佐賀平野からなっており、平野部では稲作だけでなく麦の生産も盛んに行われています。麦が実り、収穫期を迎えた初夏の季節のことを「麦秋」と言います。麦秋の季節には一面に黄金の麦畑が広がります。特に佐賀市の南部地域(川副町、東与賀町、久保田町、諸富町)は丘陵のない広大な麦畑が広がっており、吹いた風が麦を揺らし、風が見える爽やかな風景を見ることができます。

(この項、「佐賀市観光協会」HPより)

※ 「麦秋」といえば、映画「麥秋」。日本映画の名作と呼ばれている作品のひとつ。

 

1951年製作/124分/日本
配給:松竹
劇場公開日:1951年10月3日

監督:小津安二郎。撮影:厚田雄春。

ストーリー

間宮周吉は北鎌倉に住む老植物学者である。息子康一は医者で東京の某病院に通勤、娘紀子は丸ノ内の貿易会社の専務佐竹宗太郎の秘書である。佐竹の行きつけの築地の料亭「田むら」の娘アヤは紀子と学校時代からの親友で二人共未婚であるが、安田高子と高梨マリの級友二人はすでに結婚していて、四人が顔を合せると、未婚組と既婚組とに対立する。折から間宮家へは周吉の長兄茂吉が大和の本家より上京して来たが、紀子の結婚談が出る。同時に佐竹も自分の先輩の真鍋という男との縁談をすすめる。間宮家では、周吉夫婦をはじめ康一たちも佐竹からの話に乗り気になり、紀子も幾分その気になっているが、古くから間宮家の出入りである矢部たみの息子で、康一と同じ病院に勤めている謙吉が、急に秋田の病院へ転勤するときまったとき、謙吉こそ自分の結婚すべき相手だったことに気がつく。謙吉には亡き妻との間に光子という三才の遺児があり、恒産もないので、間宮家では四十歳ではあるが、初婚で、善通寺の名家の出である真鍋との結婚を希望するが、紀子のたっての希望を通してやることにする。紀子は秋田へ去り、周吉夫妻も大和の本家へ引きあげて行く。その大和はちょうどさわやかな麦秋であった。

(この項、「」HPより)

※ 「秋」を「とき」と読む。「危急存亡の秋」の「秋」も「とき」と読むことに注意。漢字も正しく書きましょう。

「危急存亡の秋」は、魏・蜀・呉の三国時代、魏との戦いに出征する蜀の諸葛孔明の『出師の表』にある言葉。「今天下三分して、益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり」に基づく。「秋」は、穀物を収穫する一年で最も重要な時期であることから、重大な時機を示す語。

今まさに自民党・公明党の連立政権と、立憲民主など野党との危急存亡の秋(とき)。

旬の食べ物としては、「らっきょう」、「アジ」。

・らっきょうの旬は5月頃から7月頃まで。6月頃が出荷の最盛期です。取り扱い量は約893トン。最も多いのは鳥取県産(約363トン)で全体の約41%を占めています。続いて鹿児島県産(約316トン:約35%)、茨城県産(約63.7トン:約7%)となっています。〈ただし、この数値は「東京都中央卸売市場」扱いに基づく。〉(「野菜ナビ」HPより)

・アジは1年を通して獲ることのできる魚であり、日本国内であればいつでも手に入れることができます。 ただ、アジの旬といわれる時期は春~夏にかけてです。 資料によって多少の違いはありますが、5月~8月程度に獲れるアジは質が良く、特に6月~7月のアジは非常に食味に優れます。

(「ふるさと納税」HPより)

そして、6月1日は、「衣替え」。

衣替えの習慣は、平安時代の宮中行事から始まった。中国の風習に倣って旧暦の4月1日および10月1日に夏服と冬服を着替えると定め、これを「更衣(こうい)」と呼んだ

しかし、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名も更衣と言い、後に天皇の寝所に奉仕する女官で女御(にょうご)に次ぐ者を指すようになったので、民間では更衣とは言わず衣替えと言うようになった。季節による取り替えは衣服以外についても、女房が手に持つ扇も冬は桧扇(ひおうぎ)、夏は蝙蝠(かわほり=紙と竹製の扇)と決められていた。

鎌倉時代になると、更衣は衣服だけでなく調度品までとり替えることを含むようになった。

江戸時代になると着物の種類が増え、江戸幕府は公式に年4回の衣替えでの出仕を制度化した。武家の制服は、旧暦の4月1日 -5月4日が袷(あわせ=裏地付きの着物)、5月5日 - 8月末日が帷子(かたびら=裏地なしの単仕立ての着物)、9月1日 -9月8日が袷、9月9日 - 翌年3月末日が綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた着物)とされ、一般庶民もこれに従った。

明治時代になると、明治政府は洋服を役人・軍人・警察官の制服に定め、夏服と冬服の衣替えの時期も制定した。

1873年(明治6年)1月1日より新暦(太陽暦)が採用され、太陽暦6月1日 -9月30日が夏服、10月1日 - 翌年5月31日が冬服と定められた。やがて、これが学生服に、次第に一般の人にも定着し、官公庁・企業・学校が毎年6月1日と10月1日に衣替えを行うようになった。(「Wikipedia」より)

かつてはこういう風に半ば制度化されていたため、特に制服のある学校では肌寒い日でも夏服、暑い日でも冬服と決められていた。(たしか、クーラーなどの冷暖房機器運転もそうなっていたような)。

一方で、昨今のように5月中に夏日となっても、冬服を着用させたり、クーラーも5月中は運転しないなど・・・。おかしな風習(風潮)もありました。

さすがにそれじゃ健康・活動にそぐわないと、5月、6月は夏服・冬服併用(9月・10月も同様)でも可にしたり、クーラーも運転可としているように、真夏のような東京地方の暑さの厳しさから、それも次第になし崩しになってきています。

熱中症が怖いですから。「衣替え」という言葉(風習)も死語になりつつある、ということでしょうか。

官民問わず、「クールビズ」がすっかり定着し、ノーネクタイが一般的になっています。

世の中も暑さ・寒さで一喜一憂。政財界も同様? 

次の二十四節気は、6月5日「芒種」。


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