おやじのつぶやき

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閘門橋

2012-06-09 20:45:54 | 歴史・痕跡
 閘門(lock)とは、舟運や洪水防止等を目的として、川の水位や流量を調節するための水門。現在では、通船用の水位調節水門を指すことが多いようです。都内東部には、扇橋閘門(小名木川と隅田川との水位調節)と荒川ロックゲート(旧中川と荒川との水位調節)があります。世界では、パナマ運河のものが有名(昨年行きました)。
 洪水防止用の水門と通船用の水門とは、構造形式が根本的に異なっています。
 この「閘門橋」の正式名は「弐郷半領猿又閘門」。古利根川(現.中川)と小合川(現.大場川、小合溜井)の流れを調整し、洪水を防止するための水門として、1910(明治43)年に建設されました。
 弐郷半(にごうはん)とは、現在の埼玉県吉川市、三郷市付近のこと。領(りょう)とは、利水や水防を目的として、鎌倉時代頃から自然的に発生した共同体。弐郷半領が、猿又(東京都の地名。現在水元猿町)に建設した閘門(水門)という意味。 
 この地域は、中川の氾濫常襲地であり、中川の水位が高くなると、その逆流水が大場川にも流れ込んできました。閘門(橋)は、それを防ぐための水門(逆流防止)です。江戸末期当初の猿又閘門は木造だったので腐朽が激しいうえに、洪水のたびに破壊され、頻繁に修繕を強いられていました。明治時代になり、当時の最先端の建材である煉瓦を使って改良されたのが、現在の「閘門橋」です。
 

 ・・・レンガ造アーチ橋としては唯一現存する貴重な橋です。江戸時代(宝永年間)、このあたりは古利根川(現在の中川)、小合川(現在の大場川)が入り込んだ複雑な地形をしており、古利根川の氾濫地域でした。この古利根川と小合川の逆流を防ぎ、水田の水源確保のため、さらに岩槻街道の流通路のため閘門と橋が造られたと言われています。現在の橋は、1910年(明治43年)弐郷半領用悪水路普通水利組合によって「弐郷半領猿又(さるがまた)閘門」として、煉瓦造りアーチ橋が造られました。その後、本橋は新大場川水門の完成により閘門としての役割は終え、また隣接する葛三橋に車道を譲り、歩行者道となりました。
 平成2年の改修で橋面上の修景が行われましたが、アーチ橋の部分は以前のままとなっています。また、風雨に耐え閘門の堰板を差し込んでいるブロンズ像が橋脚部に作られています。・・・(銘板の文による)

 ここでいう「葛三橋」は、葛飾区と三郷市を結ぶ橋、ということ。「東京に唯一残る煉瓦造アーチ橋」という表現には疑問があるという(「唯一」とあるが、他にも残されているそうです)。
右が小合溜井(水元公園側)。
「こうもんばし」。往時をしのばせる。
左の橋が「葛三橋」(岩槻街道)。
かなり激しい流れになっています。画面左・水元公園側から右・中川(大場川)。かなりの落差があります。
閘門橋の全景。水元公園側。おだやかな流れです。
煉瓦の壁面には8枚の石造りの銘板がはめ込まれ、右から左へ一文字毎に弐郷半領猿又閘門(にごうはんりょう さるがまた こうもん)と刻まれています。この銘板は猿又閘門の竣工当初からのもの。


岩槻街道。右手が水元公園。 

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