おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「上信電鉄・上信線」その2。フリー乗車券。南高崎。佐野のわたし。「佐野橋」。謡曲「鉢の木」。烏(からす)川。根小屋(ねごや)。(関東ローカル私鉄の旅。その6。)

2023-08-31 19:32:19 | ローカル鉄道の旅

駅名一覧。

             「上州富岡」、「下仁田」が主要駅。

フリー乗車券。割引率は低い。

いろんな形式の電車。

             

「南高崎」。

ホームの先端から出入り。

田園が広がります。

      

高架は、「上越新幹線」。

「佐野のわたし」。

駅名の由来は当駅にほど近い場所を流れる烏川にかつて渡し船があったことによる。

渡し船はなくなったが、現在でも「佐野橋」が架けられ「渡し」の役割を担っている。しかし、佐野橋は洪水時に橋げたが流される流れ橋である。

2019年令和元年)10月12日には令和元年東日本台風(台風19号)に伴う河川増水の影響で橋桁部分および橋脚4基が流失したことにより通行不能となったが、約8300万円をかけて復旧工事を終え、翌2020年7月22日から利用を再開した

「佐野橋」。

     (この項、「Wikipedia」より)

烏川を挟んで群馬県高崎市の上佐野町側と同市佐野窪町側を結ぶ橋長113 ・幅員2.3 mの木橋で、洪水の際に橋桁部分が流失することを考慮した流れ橋として設計されている。橋脚はH鋼製で11本(12径間)を有し、その上に木製の橋桁が載る構造である。市は現在の場所に橋が架けられた時期ははっきりしないとしている。

橋がある辺りにはかつて舟を並べて板を渡した舟橋が架かっており、橋を渡って逢瀬を重ねていた男女が親に橋板を外されたことで川に転落して命を落としたという伝承がある。この「佐野の舟橋」は芸術芸能の世界においては度々題材となって全国に知られる歴史を持つ

万葉集東歌)において「かみつけの佐野の舟橋とりはなし親はさくれど吾わはさかるがへ」と詠まれて「佐野の舟橋」は悲恋の舞台として知られるようになった。歌枕として西行藤原定家といった著名な歌人の題材になり、能楽の演目のひとつである謡曲船橋」もこの物語を題材とした。 

江戸時代には絵画「諸国名橋奇覧」シリーズにおいて葛飾北斎が舟橋を題材として「かうつけ佐野ふなはしの古づ」を描いている。

周辺には、謡曲「鉢木」の舞台である「常世神社」や藤原定家をまつる「定家神社」が存在する。

上記のように、「鉢(の)木」は、ここ「佐野」が舞台となっています。

※栃木県(下野国)佐野市という説もある。

謡曲「鉢の木」

鎌倉時代中期。大雪が降る中、鎌倉を目指す一人の旅僧が、上野国(こうずけのくに)佐野を訪れます。旅僧は雪のため先に進むことができず、道中にあった家を尋ね、主人の妻に宿泊を請います。やがて帰宅した主人の佐野源左衛門尉常世(さののげんざえもんのじょうつねよ)はその頼みを聞きますが、貧苦のために宿を貸すことはできないと一度は断ります。しかしその後、妻の助言もあり、去った旅僧を追いかけ、一晩家に泊めることにします。寒さが厳しくなってきたため、常世は大切にしていた梅と桜と松の三本の鉢の木を火にくべて、旅僧をもてなします。旅僧が常世に名前を尋ねると、名乗るほどの者ではないとしつつも、やがて旅僧に名を告げ、さらには親族に領地を横領されたために零落した身を述べます。それでも鎌倉で事変などあれば誰よりも先に駆けつけるつもりであることを旅僧に語ります。翌朝、お互いは名残を惜しみながらも旅僧は常世のもとを後にします。

それから日のたったある日、鎌倉の北条時頼は関東八州の武士に召集をかけます。召集を聞きつけた常世は、みすぼらしい出で立ちながら、鎌倉へと駆けつけます。一方、時頼は部下の二階堂に、ちぎれた甲冑を着て、錆びた薙刀を持ち、痩せた馬を連れている武士を探し出して、自分の前に参上させるように申しつけます。二階堂はさらに従者に言いつけて、そのみすぼらしい武士、すなわち常世を見つけ出します。

常世が参上すると、以前家に泊めた旅僧が実は時頼であったことに気が付きます。今回の召集は、時頼が常世の言葉に偽りがないかを確かめるためのものだったのです。時頼は実際に鎌倉にやってきた常世を称賛して、横領された土地の回復を約束し、三本の鉢の木のお礼に、梅、桜、松加賀国田庄、越中国井庄、上野国井田庄の領土)にちなんだ三ヶ所の庄を与えます。常世は喜んで上野国へと帰って行きます。

                 この項、「」HPより)

※この謡曲は、「いざ鎌倉」という、ことわざの由来となった。

烏(からす)川。

群馬県高崎市倉渕町の鼻曲山に源を発し、おおむね南東に流れる。高崎市下豊岡町付近で碓氷川、高崎市阿久津町付近で鏑川合流、さらに佐波郡玉村町と埼玉県児玉郡上里町の境界付近で神流川と合流する。そこから僅かの間、群馬県・埼玉県の県境を成し、利根川に合流する。 

「烏川」の由来

水源にある黒い岩が烏のくちばしに似ているからなど、次のように諸説あります。
・水源が、カラスのくちばしのような形の岩壁で「烏口」といわれるため
・日本武尊(ヤマトタケル)が東征の時にひどい日照りにあい、烏がこの水源に案内したから
・水源の地形が唐臼に似ており、カラウスがカラスに転化した
・烏を神使とする熊野信仰と関係がある
・川に空州(水のないところ)が多いから
・鵜や烏が群棲していたことによる 
                    

          

烏川を越えると、「根小屋(ねごや)」駅へ。

振り返る。

             下流に「佐野橋」。 

「根小屋(ねごや)」。

根小屋城

烏川鏑川に挟まれた丘陵帯のうち、北方向に張り出した丘陵の先端に位置する山城である。標高は180mほどで南北に280m、東西250mに広がる。また南の尾根続きの南東丘陵部には山名城が存在する。

築城は永禄11年(1568年)または同13年(1570年)とされる。永禄11年(1568年)に甲斐国武田信玄が駿河国・今川氏の領国への侵攻すると(駿河侵攻)、武田氏と相模国北条氏康との間で甲相同盟が崩壊する。これにより武田氏と後北条氏の領国が接する上野は係争地となり、武田氏は後北条氏への備えとして、山名城・鷹ノ巣(茶臼山城)の間に根小屋城を築城した。築城された当初は狼煙台としての機能が主であったという。

(この項、「Wikipedia」より)            

「高崎商科大学前」。

沿線は、けっこう史跡が多い地域です。


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