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「三原城・天主台跡」。
「史跡 小早川氏城跡 三原城跡」
小早川隆景は、兄の吉川元春とともに、おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させて瀬戸内海の水軍を掌握していた。
隆景は、天正年間毛利氏の広島築城と相前後して、沼田川河口の三原の小島をつないで城郭を築き、ここに移った。三原城は海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので、「浮城」とよばれていた。
「船入櫓」。
小早川氏の移封後も、福島氏・浅野氏の支城となっていたが、JR山陽本線および新幹線が本丸を貫き、今は天主台跡とそれをめぐる濠および船入櫓跡・中門跡などが残るのみである。
「鉄道開通後」。
(「Wikipedia」より)
先日、広島県三原市市内へお葬式のためにでかけました。
出棺を見送り、車で送ってもらい、JR「三原」駅まで。新幹線に乗るまで時間があったので、駅構内を歩いていると、
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案内板に誘われて駅の北側に向かいます。
かつての三原城本丸など一帯が「山陽本線」「山陽新幹線」の鉄道敷地になっています。手前が新幹線ホーム。奥が在来線。
(「
」HPより)
そのため、駅構内の階段を上ると、すぐそこが「三原城・天主台」跡。
国指定の史跡になっています。
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西北側。
高台だけに景観はすばらしい。
石碑「大游園」。
東北側。
東南側(JR線方向)。
ひとしきり天主台跡の園内を散策、いったんJR構内へ。
その途中の新幹線の壁にある標識。
「761K000M」
『駅探』では、「東京~三原 822.8km」となっていますが。
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「三原やっさ」。
毎年8月の第2日曜日を含む金・土・日の3日間、「三原やっさ祭り」が開催され、中国地方を代表する夏祭りとして約40万人の人出で賑わいます。
○「やっさ踊りの由来」
今から約450年前の永禄10年(1567年)、戦国時代の智将とうたわれた小早川隆景が、瀬戸内の水軍を統率するために、水・陸・交通の要地である備後の国・三原の湾内に浮かぶ小島をつないで海城を築きました。
やっさ踊りは、この築城を祝って老若男女を問わず三味線・太鼓・笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われ、それ以来、大衆のなかに祝いごとは "やっさ"に始まり"やっさ"に終わる習わしになったと伝えられています。
また、その歌詞は、時代とともに移り変わり、近郷の地唄・はやり唄なども大きく影響し、歌も身なりも変化し、踊り方も型にとらわれることなく、賑やかにはやしをとり入れて踊るようになり、はやしことばが「やっさ、やっさ」と声をかけられるところから、いつしかこの踊りを"やっさ踊り"と呼ぶようになりました。
全盛を極めて明治のはじめ頃は、子どもが踊りの先頭で白シャツに白鉢巻姿で、日の丸扇子を両手にもって踊り、その後に各組の踊り子が続いたものである。また当時の娘たちはみな三味線がひけたもので、毎年うら盆の3日間は町中を踊りまわり夜が明けるまで賑わっていました。
○「やっさ踊りの特徴」
足の踊りといわれ、動きのある踊りであるが、きまった踊りの型はなく、はやしのリズムにあわせ、各人各様におもしろく、気やすく踊れるところにあり、三味線、鉦・太鼓・笛・四つ竹など賑やかなはやしと歌声にあわせ、各人思い思いの所作で自由奔放に踊る様は、見ている者もそのおもしろさに我を忘れて踊りたくなるものです。
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(「
」HPより)
ところで、「毛利元就」といえば、「三矢の教え」と呼ばれる逸話が知られています。
晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。
この逸話に関する古い文献としては、江戸時代に編纂された「前橋旧蔵聞書」があり、死に際の元就が大勢の子どもたちを呼び集めて「1本の矢では簡単に折れるが、多数の矢を束ねると容易に折れないので、皆がよく心を一つにすれば毛利家が破られることはない」と教えたとされる。この話では、史実と合致して隆元や元春がその場に登場しないことから、このエピソードが三矢の教えの逸話へと変化して伝えられた可能性がある。
(この項、「Wikipedia」参照)
今度は構内の外に出てみます。
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小早川隆景は、兄の吉川元春とともに、おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させて瀬戸内海の水軍を掌握していた。
隆景は、天正年間毛利氏の広島築城と相前後して、沼田川河口の三原の小島をつないで城郭を築き、ここに移った。三原城は海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので、「浮城」とよばれていた。
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小早川氏の移封後も、福島氏・浅野氏の支城となっていたが、JR山陽本線および新幹線が本丸を貫き、今は天主台跡とそれをめぐる濠および船入櫓跡・中門跡などが残るのみである。
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先日、広島県三原市市内へお葬式のためにでかけました。
出棺を見送り、車で送ってもらい、JR「三原」駅まで。新幹線に乗るまで時間があったので、駅構内を歩いていると、
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案内板に誘われて駅の北側に向かいます。
かつての三原城本丸など一帯が「山陽本線」「山陽新幹線」の鉄道敷地になっています。手前が新幹線ホーム。奥が在来線。
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そのため、駅構内の階段を上ると、すぐそこが「三原城・天主台」跡。
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高台だけに景観はすばらしい。
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ひとしきり天主台跡の園内を散策、いったんJR構内へ。
その途中の新幹線の壁にある標識。
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『駅探』では、「東京~三原 822.8km」となっていますが。
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毎年8月の第2日曜日を含む金・土・日の3日間、「三原やっさ祭り」が開催され、中国地方を代表する夏祭りとして約40万人の人出で賑わいます。
○「やっさ踊りの由来」
今から約450年前の永禄10年(1567年)、戦国時代の智将とうたわれた小早川隆景が、瀬戸内の水軍を統率するために、水・陸・交通の要地である備後の国・三原の湾内に浮かぶ小島をつないで海城を築きました。
やっさ踊りは、この築城を祝って老若男女を問わず三味線・太鼓・笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われ、それ以来、大衆のなかに祝いごとは "やっさ"に始まり"やっさ"に終わる習わしになったと伝えられています。
また、その歌詞は、時代とともに移り変わり、近郷の地唄・はやり唄なども大きく影響し、歌も身なりも変化し、踊り方も型にとらわれることなく、賑やかにはやしをとり入れて踊るようになり、はやしことばが「やっさ、やっさ」と声をかけられるところから、いつしかこの踊りを"やっさ踊り"と呼ぶようになりました。
全盛を極めて明治のはじめ頃は、子どもが踊りの先頭で白シャツに白鉢巻姿で、日の丸扇子を両手にもって踊り、その後に各組の踊り子が続いたものである。また当時の娘たちはみな三味線がひけたもので、毎年うら盆の3日間は町中を踊りまわり夜が明けるまで賑わっていました。
○「やっさ踊りの特徴」
足の踊りといわれ、動きのある踊りであるが、きまった踊りの型はなく、はやしのリズムにあわせ、各人各様におもしろく、気やすく踊れるところにあり、三味線、鉦・太鼓・笛・四つ竹など賑やかなはやしと歌声にあわせ、各人思い思いの所作で自由奔放に踊る様は、見ている者もそのおもしろさに我を忘れて踊りたくなるものです。
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(「
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ところで、「毛利元就」といえば、「三矢の教え」と呼ばれる逸話が知られています。
晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。
この逸話に関する古い文献としては、江戸時代に編纂された「前橋旧蔵聞書」があり、死に際の元就が大勢の子どもたちを呼び集めて「1本の矢では簡単に折れるが、多数の矢を束ねると容易に折れないので、皆がよく心を一つにすれば毛利家が破られることはない」と教えたとされる。この話では、史実と合致して隆元や元春がその場に登場しないことから、このエピソードが三矢の教えの逸話へと変化して伝えられた可能性がある。
(この項、「Wikipedia」参照)
今度は構内の外に出てみます。
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