おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その2。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-06 18:56:49 | 日光千人同心街道
                             「行田史跡・観光案内図」。
                                



1880年代のようす。お城やお濠がそのまま残っています。右端の道が街道。



2010年代のようす。まったくの様変わり。再建されたお城と下方の池だけが残るのみ。(「水城(すいじょう)公園」として整備されたのは1964年。

 かつての忍城の周辺の外堀跡を整備した公園である。忍城が取り壊されたあと、外堀は忍沼と呼ばれていたが、北部から次第に埋め立てられ、行田市役所や市立体育館が建設された。そして現在、水面が残る南端部が1964年(昭和39年)4月、埼玉県内最初の都市計画公園である水城公園として開園した。広さは約10.3haである。
 水城公園の前身となる公園として成田公園(のち忍公園)が城跡周辺に所在していたが、これは明治政府が1873年(明治6年)に近代化路線の一環として、太政官公布で公園制度を発足させ整備したもので、さいたま市浦和区の調公園(当時は浦和公園偕楽園)に次いで埼玉県内で2番目の公園として、1875年(明治8年)に開園したものであった。当初の計画では陸上競技場や体育館などを園内に併設する予定であった。
 公園南側には忍・行田公民館と図書館があった。図書館は移転し跡地が駐車場となり、2017年に公民館もやや北側に新築移転し、2018年に南側駐車場の拡張工事が行われている。
 また、水城公園の広場には桜が200本植えられており、桜の名所にもなっている。外堀跡の水面にはホテイアオイの群落がある。
2018年には、旧忍町信用組合店舗だった洋館(市の文化財)が園内に移築された。
(以上「Wikipedia」参照)
   
     (写真は、「」HPより)

通りの左手にある「水城公園」にちょっと立ち寄ります。

(10:07)釣りを楽しむ人びと。

北西に大きく広がる公園のようです。

観光案内図。 

2年前に移築された「旧忍町信用組合店舗」。
 旧忍町信用組合店舗は、現在の埼玉県信用金庫(本部・熊谷市)の前身である忍町信用組合が1922(大正11)年、同市行田に開設した木造二階建てのコロニアル様式の洋館です。現在は、カフェとして営業中。

先を急ぐためにここまで。

 街道をしばらく行くと、左手にある木造2階建ての建物。昭和初期に荒井八郎商店の「足袋原料倉庫」として使用していたもので、現在は陶芸工房として利用されています。
 

(10:16)その先に「和牛懐石・彩々亭」。
「解説板」。
旧荒井八郎商店事務所兼住宅・大広間棟・洋館
 この3棟の建物は、いずれも「穂国足袋」などの商標で知られた荒井八郎商店の創業者荒井八郎氏が建設したもので、現在は和牛懐石「彩々亭」の店舗となっています。東手前の事務所兼住宅が昭和元年、中央の大広間棟が昭和7年、西奥の洋館が昭和10年に建設されたと伝えられています。
 荒井八郎氏は行田足袋被服工業組合理事長や全日本足袋工業組合連合会理事など足袋業界の要職を歴任するとともに、戦後参議院議員に当選するなど政治家としても活躍しました。・・・


かつて「足袋御殿」と呼ばれたお屋敷
 昭和の始め、足袋の産地として栄えていた行田。中でも荒井八郎氏は、一代で財を築き上げた足袋屋の名士で、彼が贅を尽くして建てた邸宅が「足袋御殿」と呼ばれました。これを料亭として復元させたのが彩々亭です。
 館内は趣のある廊下、アンティークなランプシェード、風変わりな襖や障子など随所に大正ロマンの雰囲気が漂う和洋折衷造り。
 また各室窓から覗く、かつて昭和天皇がご覧になられた庭園は、富士山の溶岩でつくられたという築山があり、その上からは滝が流れています。
 窓から眺めるだけでなく、よろしければこの緑あふれる庭園を散策してみてはいかがでしょうか。
・・・
(「」HPより)

                        


その先の交差点を左に曲がると、宿場の中心街に。左の路地に入ります。
 ここは「忍城佐間口」があった場所です。
 
 天正18年(1590)に石田三成らの軍勢が忍城を攻めた際、忍城主成田氏長の家臣正木丹波守利秀が「佐間口」の守りを固め、死闘を繰り広げたと伝えられます。
 この天神社付近がその「佐間口」にあたり、定かではありませんが、正木丹波守の屋敷がこの付近にあったという説もあります。
・・・

街道に合流すると左右に足袋蔵、見世蔵があります。

「足袋蔵」。 
 「ほうらい足袋」、「栄冠足袋」の商標で知られた奥貫忠吉商店が大正5年(1916)に棟上した二階建てと三階建ての足袋蔵です。敷地内には昭和5年(1930)棟上の住宅、明治43年(1910)棟上の足袋蔵(土蔵)等も残されています。現在住宅がカフェに、足袋蔵がギャラリー、パン屋、事務所に各々再活用されています。ギャラリーでは不定期ながら展覧会等が開催され、貴重なアート発信の場となっています。

 「大澤蔵」。
 行田で唯一の鉄筋コンクリート組煉瓦造2階建ての足袋蔵で、「花型足袋」の商標で知られる大澤商店が大正15年(1926)に竣工させたものです。間口4間半、奥行2間半の行田では珍しい袖蔵形式の蔵で、南隣には昭和3年(1928)竣工の木造二階建ての住宅が、後ろには明治時代末期建設の足袋蔵が続いています。いずれも当時の足袋商店の栄華を伝える貴重な近代化遺産です。 
                      


ここで、「行田と足袋」のお話

足袋蔵のまち行田
 利根川、荒川の二大河川に挟まれ肥沃(ひよく)な大地を有する行田。
綿や藍が栽培され藍染の綿布製造が始まり、これを原料に足袋づくりが始まりました。
 伝承によると、享保年間(1716年から1735年)に 忍藩主が藩士の婦女子に足袋づくりを奨励したといわれています。
 明治になりミシンが使われるようになると、足袋の生産量は増大。
 忍商業銀行や行田電燈株式会社が設立され、資金と電力供給が安定し、ミシンの電動化が進みました。
 以後、名実ともに行田の足袋は日本一に。
 靴下が普及した今でも足袋の生産は続けられ、新製品を国内外へ発信。「足袋と言えば行田」と親しまれています。
 (HPより)

足袋とは
 足袋のはじまりについては、いろいろな説があります。
 奈良時代の貴族は、布でできた指のまたわれのない「しとうず」というものを沓の下にはきました。これがのちに指のまたわれができて、足袋になったという説。
 また、革の「しとうず」をはいていた武士が、指のまたをわり、これが足袋になったという説等、さまざまな説があります。
 むかしの足袋は、足を袋状につつんで、くるぶしのところをひもで結ぶ紐足袋でした。材料は革でつくられていましたが、江戸時代、明暦の大火(1657)のあと、革の値段が高騰すると、廉価な木綿がつかわれるようになり、木綿足袋にかわりました。
 またコハゼは江戸の後半にはありましたが、明治になってからコハゼがけの足袋が主流になったといわれています。
 また「たび」という名前については諸説があり、足袋の形が鼻に似ているので「多鼻」から、という説や、旅に使うので「旅靴」がタビになったとい う説、昔の足袋底が1枚革の単皮だった為、「タンビ」が「タビ」に変わったという説などがあります。


(この項、「行田市郷土博物館」HPより)

注:「こはぜ」
 真鍮 (しんちゅう) ・角・象牙などでつくった爪形 (つめがた) の留め具。書物の帙 (ちつ)や足袋・脚絆などの合わせ目をとめるもの。(「広辞苑」)

HPより)

「足袋蔵のまち行田」。まだまだ見所満載の行田です。

TBSのドラマ「陸王」のロケ地にもなっているようです。

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