おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

地蔵橋。十思公園。・・・(「龍閑川」跡をたどる。その3。)

2014-02-04 22:09:59 | 河川痕跡
 昭和通りを渡ると、興味深い記念碑がありました。
「神田八丁堀跡」碑。

 明暦3年(1657)本所の振袖火事の大火ののちまず防火のために8丁(約870㍍)にわたる土手が築かれました。
 天和3年(1683)頃になると、土手のそばに広道(明地)ができました。
 その後、元禄4年(1691)頃になると、町人達が自ら費用を負担して明地に堀割を開削しました。これが神田八丁堀です。神田と日本橋の境となっていました。
 白銀町(しろがねちょう)堀とも呼ばれ、のち竜閑川と名づけられ千代田区と中央区の区界になっています。
 堀割は東京都千代田区合同庁舎(千代田区内神田2-1)の南側あたりの外堀(現在の日本橋川)から分かれて東北東に続いていました。
 東神田1丁目の所から南南東に向きをかえ、新堀(のちの浜町川)となって日本橋浜町で大川(隅田川)に注いでいました。
 のちには東神田1丁目の所から北北西に流れる水路も開かれて神田川ともつながっていました。

 この堀には西から竜閑橋、白旗橋、西仲之橋、今川橋、東仲之橋、地蔵橋、火除橋、九道橋、甚平衛橋、小出橋が架かっていましたが、終戦後に堀が埋め立てられた時に廃橋となりました。この標識が建っている辺りにはかつて地蔵橋が架かっていました。
 平成14年3月建替 千代田区教育委員会

 おそらくこの内容が史実に即したもののように思われます。

 年表風にまとめると(ここまでの沿道のいくつかの記念碑に記されている内容を加味して)、

・明暦3年(1657)明暦の大火(振袖火事)後、防火のためにこの地域のほぼ東西方向に8丁の土手が築かれる。(「火除橋」がその事情を示している)

・天和3年(1683)土手のそば(北側)に明地ができる。

・元禄4年(1691)明地を町人の費用負担で堀割を開削し、東北東に進み、東神田1丁目付近から南南東に向きを変え、隅田川につないだ。(その時尽力した人の名が、「今川」「甚兵衛」「小出」などの橋名になった)

・安政4年(1857)土手を崩して水路を埋め立てる。

・明治16年(1883)再び開削され防火用・雨水用とした。
 その際、東神田1丁目付近から北北西に水路を開き、神田川と結んだ。(「歴史的農業環境閲覧システム」1880年頃の地図を参照)

・その後、しだいに下水が流れ込み、ゴミ捨て場と化し、悪臭漂う不衛生な川になった。

・昭和20年(1945)?第二次大戦終了直後下水管を埋設して川を埋め立て、宅地化する事業が始まる。

・昭和25年(1950)埋め立て工事が完成する。(区界として旧堀割の一部を「竜閑新道」として整備する。)

 したがって、「浜町川」は「龍(竜)閑川」の一部ととらえる方が正しいと思われます。
 その後、東神田1丁目付近から南の水路は「中央区」に属し、地域に因んで「浜町川」と呼ばれるようになった、と。
 また、神田川から隅田川までの水路全体を「浜町川」とするのは正しくないようだ。東神田1丁目から神田川までは、「新堀」というべきか。

東に向かって進みます。
ビルとビルの間に、細い道が続く。
西を望む。左が中央区、右が千代田区。
所々に古いモルタルつくりの民家が残っている。


小伝馬町付近。正面の細道が「龍閑川」跡(「龍閑新道」)。左奥に「伝馬町牢屋敷」が広がっていた。


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 左中央の大きな空間を中心として広がる一帯が、「伝馬町牢屋敷」の跡地。空白になっているのは、なかなか跡地の土地利用が決まらなかったためのようだ。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、旧十思小学校、十思公園一帯にあたる。上方と右の明地は、当時、埋め立てられている「龍閑川」(「浜町川」)。
 「伝馬町牢屋敷」の周囲は堀で囲まれていたとのことで、「龍閑川」の水が利用されていた可能性もある。
「十思公園」(「震災復興52小公園」の一つ)。
「十思スクエア」(旧「十思小学校」当時の震災復興校舎を生かす)。

振り返って望む。

 まもなく「龍閑児童公園」へ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今川橋。今川焼き。地蔵橋児... | トップ | 龍閑児童公園。千代田区と中... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

河川痕跡」カテゴリの最新記事