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ガードをくぐると、両側をビルに囲まれた道になります。
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元禄4年(1691)この地、東西に掘割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀堀(しろがねぼり)、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上龍閑が平川と掘割の接点に住んでいたので竜閑川とよばれるようになった。
この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この掘割は、神田と日本橋の境界として11の橋梁がありこの地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり、「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。
昭和25年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、360年の歴史を閉じた。
平成元年一月吉日 鍛冶町一丁目町会
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南北の広い通りは「日本橋通り」。右は「昭和通り(その上が「首都高上野線」)」。
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今川橋が神田堀(別名神田八丁堀、龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~83)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架設されたのでその名が残りました。この橋は、日本橋から中山道に通じる重要な橋でもありました。
神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。
昭和25年(1950)龍閑川は埋め立てられ、300年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。
左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。
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おなじみの「今川焼」は、今川橋付近の店で売り出されたことによる命名、らしい。
「今川焼き」
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小麦粉、玉子、砂糖を水で溶いた生地を鉄や銅製の円形に窪んだ焼き型へ流し込み、餡を包埋して、高さの低い円筒形ないしは分厚い円盤状に焼成したものである。全国各地で同様な食品が様々に呼称され、固定や常設の店舗だけではなく神事や仏事に限らずいわゆる祭りの露天屋台で販売される場合も多く、日本人になじみ深い菓子である。
「今川焼き」の名称の由来に確たる史料はないが、今日主流とされる説に以下が挙げられる。
江戸時代中期の安永年間、江戸市内にかつて存在した竜閑川に当地の名主今川善右衛門が架橋した「今川橋」近隣の神田側に実在した神田西今川町や神田東今川町の店が、これらの焼き菓子を発売して高い評判を呼び、後に「今川焼き」が一般名詞化して広がったとされている。(以上「Wikipedia」参照)
ここが発祥の地であったとは知りませんでした。ただし、我が家の近所のお店は、「大判焼き」とか名付けています。各地でいろいろな呼び名があるようです。
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・明治16年に再び掘って防火用雨水用としたこと。
・戦前から下水より汚水が流れ込み悪臭を発散しゴミを捨てるため蚊やハエ等がわき衛生上宜しくなく川は無用のものとなったこと
・東京都は第二次世界大戦直後川底に下水管を埋設して戦災焼残土を以て埋め立て宅地をつくり復興を促進したこと
・昭和25年埋め立て工事が竣工し大事業(600間、幅7間、約4,800坪の埋め立て工事)が完成したこと。
・今回、地蔵橋際児童遊園の東北際に記念碑を建立したこと
・この埋立は実に千代田、中央両区の握手であって、昔は川今は竜閑新道を中心に土地の発展に尽くすこと
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ただ、どうも記念碑ごとに記されている内容に微妙な違いがありそう。はたして史実はどうか?
日光街道は、常盤橋門から浅草橋門の通りです。
なお、日光御成街道は、大手門から小川町・筋違橋のルートで、ここは通りません。
「東海道」を終えたので、年明けには「中山道」を歩いてみようかと資料集めをしているところです。ご指摘ありがとうございます。