おやじのつぶやき

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都営新宿線「一之江駅」~京葉線「舞浜駅」。その2。当代島・猫実。堀江の渡し・浦安の渡し。(「江戸川」を歩く。第5回目。)

2022-04-12 20:49:23 | 江戸川を歩く

          こちら側は、市川市。建物は、「市川市島尻自治会館」。「島尻」という表現に注目!

その先、水門脇の周辺案内図。ここは、浦安市に。

                          「当代島」という地名が記されている。

※「当代島」

鎌倉時代に田中十兵衛がここを開墾したことにより、住みついた住民が当代(自分たちが生まれ育った時代)にできた島であるので「当代島」と名付けたと言われている。また、昔ここに灯台があったからという説もある。

(「Wikipedia」より)

旧当代島水門。

南には「猫実(ねこざね)」という地名があります。

鎌倉時代に、大津波で大きな被害を受けた集落の人達が豊受神社付近に堤防を築き、その上に大きな松の木を植え、この松に根を波浪が越さないように願い、「根越さね」と言われた。それが「猫実」と称されるようになったと言われる

・・・

1889年(明治22年)3月1日には隣接する東葛飾郡当代島村、堀江村と合併し、猫実は浦安村の大字となる。浦安村発足時には浦安村役場が置かれていたが1895年(明治28年)に堀江へ移転。

浦安村となった2年後の1891年(明治24年)時点の戸数は426戸、人口は2,250人で、船が286隻存在した。1898年(明治31年)には海苔の養殖が開始される1909年(明治42年)には浦安村の町制施行により浦安町の大字となる。1960年(昭和35年)頃からは地域内で地盤沈下が発生したことにより自然排水が困難となり、猫実と当代島にかけて浦安北部土地改良区を設立、土地改良を始める。

また、1969年(昭和44年)には営団地下鉄東西線が開通し、大字猫実(現在の北栄一丁目)に浦安駅が設置され、2年後の1971年(昭和46年)には漁業権を全面放棄し、約350年もの間漁業を中心としていた歴史に幕を閉じることとなる。

同地に海岸部の埋立事業が積極的に行われるようになり、1964年(昭和39年)には町役場が地域内に移転。69年ぶりに行政の中心地となる。1981年(昭和56年)4月1日には浦安町の市制により浦安市の大字となり、同年10月1日には住居表示を施行。大字猫実は猫実一丁目~猫実五丁目、北栄一・三・四丁目となる。

(この項、「Wikipedia」参照)

この地域の変遷(住宅地・都市化)はめまぐるしいものがあります。

妙見島の工場群。

両岸とも、江戸川の水運を活かしています。

「浦安橋」が遠くに。  

船宿が並ぶ。釣り船や屋形船の船宿です。 

「浦安橋」。

          この先が「妙見島」の南端。  

渡し場跡」解説板。 

江戸末期から明治初期にかけて、旧江戸川対岸の堀江飛地(現江戸川区南葛西)の農地耕作のため、「堀江の渡し」が内田平次郎によってはじめられました。待合所は、堀江4丁目69番地地先(現境川水門堀江側)にありました。

その後、この渡しは廃止され、そのかわりにこの場所に待合所ができ、ここから対岸の東長島(現江戸川区東葛西)を往復する「浦安の渡し」が開かれました。所要時間は20から30分ほどかかったといわれています。町が営業権を所有していましたが、明治43年(1910)から希望者を募って、入札で渡し船を請け負わせました。渡し船は、主に伝馬船を使っていました。大きさは、長さ3間(約5.4㍍)、幅1間半(約2.7㍍)くらいで、昭和初期の渡し賃は、大人2銭、子供1銭、自転車3銭、小車4銭であったといいます。(当時のアンパン一つの値段が3から5銭くらい)

昭和15年(1940)の浦安橋の開通により、対岸へは徒歩や自転車で渡れるようになっため、渡し船はその役目を終えました。

                                                                                          

1880年代のようす。妙見島を回り込んでいたか。         2010年代のようす。東西線。境川水門。

対岸・妙見島南端。

振り返る。

 


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