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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

牓示石。古東海道。千貫堤。瀬戸の染飯。上青島一里塚。・・・(藤枝駅から金谷駅まで。その1。)

2015-02-16 21:25:35 | 旧東海道

 今回は、藤枝~六合~島田~金谷と、ほぼJR東海道線に沿った旧道の旅。その間には、(越すに越されぬ)「大井川」。

 2月13日(金)。

 想像以上に西風が強い中での探索。晴れてはいますが、時々黒雲が通り過ぎ、雪もちらつくというコンディション。距離的にはそれほどではありませんが、思った以上に風に逆らって歩く、しんどさがあります。

遠くに「松並木」。

 JR「藤枝」駅に着いたのが、10時頃。3時前には「金谷」駅には着きそうですが。

 前回の「青木」交差点から出発。しばらく進むと、松並木が出てきます。この区間は、街道沿いにぽつん、ぽつんと松並木が登場する、らしい。

    
    「従是東田中領」。         「田中藩領牓示石蹟」。(注:「牓」は、「傍」、「榜」とも記す)

田中藩領牓示石蹟

 瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村で、藩境に境界を示す牓示石を立てた。
 この牓示石は一丈余(約三M)の石柱で、「従是(これより)東田中領」と書かれていた。 これと対になるのが市内鬼島の「従是西田中領」で、美濃国岩村藩領横内村との境界の法の川の所に立てられていたが、今は西益津中学校に移されている。
 牓示石は、田中城主本多正意(まさおき)が家臣の書家、藪崎彦八郎に命じて書かせたもので、その書の見事さは旅の文人を驚かせたという。
 上青島にも牓示石があった。

 平成10年5月  青島史蹟保存会 

 その先、道が少し左にカーブする手前、左手にあるのが、「鏡池堂六地蔵尊」。      
 この堂宇は昭和三十三年に昔の形を残して改築したもの。地蔵尊の周辺は時代の変遷により変化しているが、堂宇の位置は変わっていない、らしい。

「鏡池堂」から歩いてすぐ右側に古東海道の跡碑があります。

    

古東海道蹟

 昭和三十年代までは、こゝから西に瀬戸山の丘が続いていた。
 この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下りると内瀬戸のへ通じていた。
 この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。
 松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。
 古代は東海道が初倉から小川、更に初倉から前島へ通っていた。
 島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府を開いた翌年、源頼朝上洛の帰路が初めてであるといわれる。

 平成10年5月 青島史蹟保存会

 正面奥の細い道がそれらしい。

 その先の左側には今度は「東海道追分」碑があります。

    

東海道追分

 こゝには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。
 瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、東海道が六地蔵の所を通るようになったのは、開拓が進んでからである。
 当時、東海道はこの碑の所から東へ竜太寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋(五叉路)へ通っていた。
 東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼んだ。古道はその後も主要道路として、青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた。

 平成10年5月 青島史蹟保存会 

 この地点付近は、江戸時代からの東海道、中世の古東海道、旧東海道の三つの東海道の分岐点(追分)だった、ようです。

「追分」付近を振り返る。

再び松並木。

    

市指定文化財 千貫堤

 寛永12年(1635)田中城主となった水野監物忠善は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺裏山)まで約360米、高さ3.6米、巾29米の大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。

 昭和31年1月21日指定 藤枝市教育委員会

 昭和40年代の土地開発によって、藤五郎山をはじめ堤は取りのぞかれ、現在は石野家の南側に約40Mの堤がそのときのままの姿で残っているのみのようです。

左手奥の敷地付近。

わずかばかり盛り上がっているのが分かる。

南側。奥に見えるのが、「千貫堤瀬戸染飯伝承館」。



 先を急いでいたので、中に入らず。そのため、以下の内容をお借りしました。

藤枝宿の名物 「瀬戸の染飯」(せとのそめいい)

 「東海道」に面した瀬戸の茶屋(現在の藤枝市内瀬戸、上青島辺り)で古くから売られていたものです。
 文献によると、古くは戦国時代・天文22年(1553年)の紀行文『参詣道中日記』 に 「せとのそめいゝ」 が登場しています。
もち米を蒸した強飯(こわいい)を、くちなしの実で黄色に染めすりつぶした後、小判形などに薄くのばし乾かしたものです。

柏の葉にのせてあります

 くちなしは漢方薬として疲労回復の薬とされ、それを使ってつくられた染飯は、足腰の疲れをとる食べ物として、また携帯食として旅人に評判になったそうです。
 竹の皮と紙に包んで、一袋12文で売られていたそうです。1文20円くらいだそうですから、240円になるそうです。お手頃価格?
 染飯は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場。また、寛永4年(1792年)旅の道中、小林一茶もここで一句詠んでおり、人気の程がうかがえます。
 で、染飯ですが、なんと今でも買うことができるのです。藤枝駅から徒歩3分の駅前にある 「喜久屋」では、これを再現し販売しています。もち米をクチナシの実で黄色く染め蒸しあげたもので、普通のお弁当やお惣菜と同じように販売されているので、気軽に買うことができます。
頼めば竹の皮で包んでくれて、資料館で見たものとそっくりなパッケージにしてくれます。値段は300円。染飯が入った染飯弁当もあります。

(以上、HPより)

染飯を売る時の包み紙に押した版木が市の指定文化財として石野家に残っている、そうです。
 

「育生舎跡」。1874年(明治7)年にできた公立の学校。

「田中藩領牓示石蹟」。

 江戸幕府は細かく藩を区分して行政をしき、田中藩も他領と入り組んでいたゝめ、藩境を示す牓示石を立てた。
 田中藩上青島は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接し、また、この標石を立てた少し前、上青島村の一部が旗本日向銭太郎の所領となっている。
 この標石は一丈余(約3M)の石柱で「従是西田中領」と書いてあった。
 これと対になるのは、田中藩領細島村の西域と考えられる。
 市内には瀬戸新屋村と鬼島村に田中藩領の牓示石があった。

 平成10年5月 青島史蹟保存会 

 松並木が時々現れます。

「青島酒造」喜久酔。

松の古木の向こうに、田んぼと東海道線。

 しばらく進むと、「上青島一里塚跡」。日本橋から51番目。この付近には松並木が保存されています。
    


     

 昭和32年当時の松並木
 現在も残る松並木ですが、昭和30年代には江戸時代の街道を偲ばせる風景がよく残されていました。当時は、道路沿いの両側に松並木があり、土手の上に生えていました。

 発掘された一里塚
 昭和57年に発掘調査され、塚のかたちを表す円形の石積みがみつかりました。上青島の一里塚は江戸から51里(約200㎞)の地点にありました。市内にはほかに岡部(川原町)、鬼島、志太に一里塚がありました。

              
    少しばかり土盛りされた(削られてしまった)土手に生えている松並木。

 しばらく進むと、「国道1号線」に合流します。その交差点名が「一里塚」にちなんだ「一里山」。この先で、藤枝市から別れて島田市に入ります。

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