「東北新幹線」。
農地が広がります。
「桶川市 環境センター」。
新幹線高架下。綾瀬川。
横手堤(左手)。
横手堤:赤堀川の水除堤と綾瀬川への導流堤を兼ねた旧堤防。横手堤を挟んで2本の農業排水路が流れていて、北側の排水路は赤堀川へ落ちる。南側の中堀は綾瀬川の源流となっている。
赤堀川。
北東側に広がる田畑。
新幹線高架脇を進みます。
遠くに「圏央道」。
新幹線と交差する「圏央道」。
桶川市マンホール。
市章と紅花のデザインの側溝の蓋。「べに花の郷 桶川市」。
朝日バス「五丁台」バス停で乗車。桶川駅まで戻ってきました。「桶川」は「中山道」の宿場町。中山道は、板橋宿から下諏訪宿まで歩きました。その先は、まだ。
中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて6番目の宿場。現在の埼玉県桶川市にあたる。
「桶川」の地名の由来については諸説ある。最も有力なのは「沖側(オキガワ)」説で、「オキ」を「広々とした田畑」の意とし、その「方向(ガワ)」である「沖側(オキ-ガワ)」が転訛したとするもの。他にも、湿地が多い土地柄で、東に芝川、南に鴨川の水源があることから、「川が起こる」意で「起き川(オキガワ)」とする説などがある。この地名「オケガワ」が初めて文献に現れるのは観応3年(1352年)、足利尊氏が家臣にあてた下文(くだし-ぶみ)であり、そこには「武藏国足立郡桶皮郷内菅谷村(むさし-の-くに あだち-ごおり おけがわ-の-ごう-ない すがや-むら)」とある。
日本橋から距離にして10里14町(約40.8 km)と、ちょうどそれは江戸を出立した旅人が1日で歩く道程(詳しくは「#中山道の行程」を参照)とおおよそ等しく、江戸方に一つ手前の上尾宿(9里16町、約37.1 km)とともに、宿場町として絶好の位置にあったと言える。また、この距離はフルマラソンともほぼ同じである。
桶川宿は寛永12年(1635年)に設置された。当初わずか58軒に過ぎなかった宿内家数は、「中山道もの」といわれた紅花等の染料や食用農作物の集散地となっていた天保14年(1843年)頃には347軒に達し、経済的にも文化的にも繁栄を見せている。本陣は1軒、脇本陣は2軒。府川家が世襲した敷地面積1,000坪余、建坪200坪に及ぶ本陣は、当時の建物の一部が個人宅として現存している。旅籠は36軒あり、当時の建物を残して今日ある「武村旅館」はその中の一軒であった。
加賀前田家を始めとする参勤交代の大名の多くが、桶川宿の府川本陣を定宿としていた。水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が足跡を残していることも知られている。また、文久元年11月13日(西暦1861年1月2日)には、皇女・和宮(親子内親王)が公武合体政策の一環で徳川将軍・家茂の御台所として降嫁すべく江戸へ下向の際、宿泊している。
(この項「Wikipedia」参照)
町並みが懐かしく、歩いてみます。
宿内のようす。旧中山道。
車が突っ込んだらしく、修復中だそうです。
。
「桶川宿本陣跡」。
ということで、「桶川宿」をほんのちょっと散策して帰りました。
駅前は、大規模な開発計画が出来ているようで、整地された空き地が目立ちます。
何年かすれば、駅前は大きく変貌することに。
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