道に迷いましたが、「柴山伏越(ふせこし)」にようやく近づきます。
左に「柴山伏越」。
正面には「常福寺」。
「柴山伏越」。
元荒川と見沼代用水の交差地点で、元荒川の川底を見沼代用水が抜け出る構造になっています。これは、流体を低い所に落とし、元の高さまで押し上げる連通管の理論を応用したものです。この伏越は、享保12年(1727)に井沢弥惣兵衛為永によって「紀州流」という土木技術でおこなわれました。当初、伏越地点では伏越と掛渡井(元荒川の上を樋によって通水する)がおこなわれ、舟運にも利用されていました。
令和元年、見沼代用水は「世界かんがい施設遺産」に選ばれました。(「白岡市観光協会」HPより)
見沼代用水(みぬまだいようすい)は、埼玉県にある灌漑農業用水。江戸時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために武蔵国に普請した。灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用水路であった。現在の埼玉県行田市付近の利根川から取水され、東縁代用水路は東京都足立区、西縁見沼代用水路は埼玉県川口市に至る。埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている。疏水百選にも選定され、かんがい施設遺産に登録されている。
「見沼代用水路の概要」
「見沼代用水」概念図。
「見沼代用水」(北東方向)。
柴山伏越
見沼代用水路は、享保12年(1727)徳川吉宗が勘定吟味役格井沢弥惣兵衛に命じ、県南東部(大宮台 た見沼溜井を干拓させたとき、代わりに水源を利根川に求めて掘った用水路であり、もとの見沼に代わる用水路といことで見沼代用水路と命名された。水路延長は約60キロメートルで、受益面積約17,000ヘクタールにも及ぶ大用水路である。
井沢弥惣兵衛は紀州(現和歌山県地方)の人で、土木技術にすぐれ、この用水路の工事は、着工から完成まで約6ヶ月で完工している。当初の設計にほとんど狂いがなかったといわれたほどで、いかにすぐれた土木技術を駆使して進められた工事であったかがわかる。
同用水路が元荒川と交差するこの場所では、元荒川の川床を木製の樋管を使用してサイフォンで通すという大工事を行った。これが柴山伏越である。
現在は、河川の改修が行われ、以前より川幅も3分の1と狭くなったが、これまで、修繕や伏替工事などが20数回行われ、現在見られるような構造になった。
設置当時:荒川の川底のさらに下、平地から5.4mの地下にトンネルを掘って木で樋を造り、その中に用水を通して、元荒川の下をサイホン式にくぐらせている。 設置当初の伏越は、長さ約47m、内幅約4.2m、高さ約1.2m。
※伏越(ふせこし・ふせごし)
用水施設や排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川法の適用を受ける河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの。
用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い。武蔵国見沼代用水(埼玉県)の「柴山伏越」や二十箇用水(大阪府)の「久左衛門樋」など、歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)
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この付近の今昔。
(現在)「柴山伏越」。近代化されている。
(1880年代)「見沼用水」と表示されている。
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