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今回は、野田市関宿から利根川を越えて茨城県境町まで。東武野田線「川間駅」から朝日バスで前回のバス停へ。
「関宿」は「利根川」、「江戸川」歩きで立ち寄ったところです。
「日光東往還」道は、「関宿台町」まで「流山街道」とほぼ重なるように進みます。
前方は「法珠花橋」。
ところで、「法珠花」とは?
江戸時代以来、江戸川では帆掛舟が往来し舟運が発展。部の宿舎が建っている西宝珠花は、荷物の揚げ下ろし・船宿・呉服問屋などで栄えました。江戸から川をのぼってやって来た舟頭たちはここで休憩を取りがてら船の帆を干したのでしょう。
帆を干す場という呼び名がいつしか転訛し、ほうしゅばな、宝珠花という地名になったという説があります。
参考:『宝珠花今昔』庄和高校歴史地理部/『地名を歩く 36』讀賣新聞2007年5月12日(土曜日)朝刊
さて、地名の由来はもう一説あります。
江戸初期に江戸川の開削により形成された下総台地。その北側の台地を宝珠花支台と呼びます。東に江戸川が流れ、(航空部ランウェイのすぐ横ですね)
西には縄文海進期の海成層を主体に海退期の土砂の堆積によって形成された中川低地が広がるこの台地はその地理的特徴が由来し、榜示(ほうじゅ)…地の境界の意 + はな…大地の先端の意 =ほうじゅばな/宝珠花 という地名が付いたという説もあるようです。
(この項、「明治大学体育会航空部」HPより)
※江戸川によって千葉県側、埼玉県側と二分され、東西に法珠花という地名があります。
「法珠花橋」の先で土手を下ります。
この付近で、江戸川河川敷で消失していた街道が復活します。
左手に江戸川土手。
右は木々に囲まれた家。
けっこう交通量が多い道を進みます。
※この先も「日光東往還」は今でも幹線道路のようです。
朝礼中のお店。
野田市立二川小学校の先から松並木が植えられています。
ちょっと弱々しい印象。
解説碑。
日光東街道の松並木について
・・・「日光東街道」は日光街道のバイパス的役割を果たしていました。「関宿街道」とか「久世街道」とかいろいろな呼び方をされてきましたが、文化二年(一八〇六)幕府道中奉行が編さんした「五街道其外分間見取延絵図」には「関宿通多功道」と記されており、これが幕府が定めた公式の街道名です。現在ではわずか残っている松の巨木が往時を物語っています。市の重要史跡ともいうべき「関宿通多功道」のいわれも又、松並木の松のように、失われることおそれ松の若木を補植し、改めて市の歴史を深く理解していただくことを願っています。 関宿ライオンズクラブ
ただ、二川小学校の樹木に比べ、車の排気ガスなどで、かなり弱っていつような木も見受けられたのが気になります。なんとか順調に生長してもらいたいものです。
「柏寺」バス停。
東葛飾病院。
カラー版マンホール。
諏訪橋。
→関宿城埋門案内。
この先は、
①左に進み、関宿城大手門に通じていた道(ただし、途中で江戸川土手で消滅)
②県道をそのまま進み、「工業団地入口」交差点から右折して行く道があります。
②の方を進むことにしました。
右折したところに解説板。
旧日光街道東往還関宿多功道
日光街道東往還関宿多功道は、本街道である日光街道の東側を通っている街道です。起点は江戸からで、松戸市・流山市・野田市を過ぎ、関宿を通り、茨城県の境町・結城市を過ぎ都と件の上三川町の多功までの道程です。多功からは雀宮に出て本街道に合流します。この多功道は、江戸からの日光社参参の折や参勤交代などに多くの大名たちが通った道でもあります。関宿多功道の名称は、関宿町に入ってから出るまでの名称で、それぞれの地域では別な名称があります。
※大きく長い赤の→が目立ちます。
この付近の今昔。
1880年代のよう左上に進む細道がお城への道? 2010年代のようす。○が分岐点。旧道は右へ。
この先、右奥に「関宿城埋め門」があります。
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