喜八堂。
店先では若い職人さんが一生懸命煎餅を焼いています。いい香りが漂ってきます。
昭和2年(1927年)に東京神田創業以来、喜八堂(きはちどう)は、米の選定から生地作り、そして焼き上げと一貫したせんべい専門店です。
生地屋は煎餅の生地までを作り焼屋にそれを卸し、焼屋は生地屋の作った生地を焼き上げます。
喜八堂では全てを、米の選定から焼き上げまで、ひとつひとつの素材を吟味し、ひとつひとつの仕事に責任を持ち、選びぬかれた最高の素材たちを職人が手間ひまかけて仕上げます。
そこには誰のせいにも出来ないという責任と、お客様へ最高の商品をお届けすると言う夢があるからです。
喜八堂は創業以来、殆どの商品に保存料、着色料、添加物、化学調味料を使用しない理由があります。
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素材へのこだわり
素材の味、自然の味を大切にします。その為には原材料自体の味がとても大切です。ひとつひとつの素材を吟味します。 -
製法へのこだわり
天日干しから手焼きなど職人たちが素材の味を引き出すために時間をかけて製法にこだわっております。 (この項、「喜八堂」HPより)
「日本一せんべい処 喜八堂」は、銀座で創業の後、先々代から東京の向島で開業していたこともある、とか。その後、実家である関宿に店舗を移し、今や、東京駅八重洲口にも店を構え、全国展開しているお煎餅屋さんです。
ここでお汁粉を食べながら休憩。まさに「お休み処」でした。そしてお土産用にささやかですが、二品。
さて、もう少しで、今回の歩きも終了です。
「新宿(あらじゅく)」交差点。
「新宿」は「しんじゅく」と読んだり、「にいじゅく」と読んだり、ここのように「あらじゅく」と読んだりします。
野田市関宿総合公園。
「いちいのホール」。
平成15年6月6日、野田市と関宿町は合併し、新しい野田市が発足。
平成16年4月1日、旧関宿町役場庁舎を支所・図書館・コミュニティ会館・関根名人記念館などの入る複合施設「いちいのホール」としてオープンした。
※「いちい」は旧関宿町の木であった「イチイ」に由来。
※「関根名人」=将棋棋士。
千葉県東宝珠花(ひがしほうしゅばな)(現野田市)の生まれ。11歳で11世伊藤宗印名人に入門。棋界の不振時代に全国を行脚(あんぎゃ)、修行し、弟子の発掘に尽くした。1905年(明治38)8段、21年(大正10)13世名人となる。35年(昭和10)名人世襲制度を捨て、自ら引退して実力名人制を実施し、現代に続く新聞棋戦を確立した。親分肌で人間味にあふれ、対阪田三吉戦をはじめ棋道行脚に数多くの逸話を残す。後進の育成にも尽力し、門下には土居市太郎、金易二郎(こんやすじろう)、花田長太郎、木村義雄(よしお)など名棋士を出している。直門に限らず明治・大正生まれの棋士には彼に指導感化された者が多い。関根流の「春風のやうにさらりと指すべし」の名人戦講評、泰然とした正座対局、あふれる人情味は、大名人の風格があった。野田市東宝珠花に将棋の駒をかたどった墓碑がある。
[原田泰夫]『木村義雄他監修『日本将棋大系13』(1980・筑摩書房)』(「コトバンク」より)
後の日本将棋連盟に連なる直弟子としては土居市太郎や木村義雄を筆頭に8人を輩出している。また、その直弟子らも数多くのプロ棋士を輩出しており、孫弟子にも名伯楽として知られる高柳敏夫や花村元司がいるなど、現代の将棋界において関根門下の系譜が最大の数を誇る。タイトルホルダーも数多く輩出しており、名人経験者だけでも、実力制第一代名人となる木村以降、塚田正夫、中原誠、加藤一二三、羽生善治、森内俊之がいる。(「Wikipedia」より)
ようやく県道(流山街道)と旧道(左に入る道)との分岐点に到着。
左手の道を進む。
江戸川土手に向かいます。
かつての日光東往還の道は、沿道の集落ごと「江戸川」の河川敷になってしまっている。
1880年代のようす。渡し場から土手道に。 2010年代のようす。街道は江戸川の河川敷内に。
3月始め以来の江戸川土手。
「海から50.25㎞」。
前回の時は菜の花が満開でしたが、今回は・・・。
この先の県道のバス停から朝日バスで川間駅まで戻ります。次回はここまでバスで来ることに。
旧関宿町マンホール。
旧・関宿町の花「ボタン」(市の木は「イチイ」)をデザインしたもの。
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