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ところどころで「安政遠足」の立て札に導かれての歩き。
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ところで先達のレポートですと、この付近に廃車が捨てられているとか。が、気がつかずに通り過ぎてしまいました。それとも、すっかり片付けられたのか?
(12:36)
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明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所で、明治8年群馬県最初の「見回り方屯所」があった。これが交番の始まりである。
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遠くに「妙義山」が見え隠れしています。まだ群馬県。
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そろそろ1時近く、さすがにお腹が空いてきました。どこか適当なところで休憩を、と思いながら歩きます。
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山中茶屋の入口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。
鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。
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(13:10)林の中の広い空間に出ました。ここが「山中茶屋」跡。作業小屋らしきものがあります。
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山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で慶安年間(1648~)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。
寛文2年(1662)には13軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が二ヶ所あった。
明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。
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明治11年、明治天皇御巡幸の時、児童が25人いたので、25円の奨学金の下賜があった。供奉官から10円の寄付があった。
ここまで来ると、今は廃墟と化して誰も住んでいませんが、コンクリート製の下水溝や広い道路など生活の臭いがしてきます。道端の石に腰掛けて休憩。人っ子一人通らないところです。
と思いきや、メールが入っていました。下界とはまったく無縁の世界ではありません。その後には別の電話がかかってきました。実は、少しホッとした気分にもなりました。
(13:35)
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山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が山中坂で、この坂は「飯食い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので手前の山中茶屋で飯を喰って登った。
山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。
相変わらず静かで、鳥の囀りとどこからともな落ちる葉の音くらいです。足下はふかふかした枯れ葉が敷き詰められています。
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続いて、朽ち果てたバス。
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さらにその奥には廃墟となった「別荘(保養所)」。
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(13:46)
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ここには老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。
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太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代,武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。
笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている。
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万葉集第14 東歌中
詠人不知
兒持山若かへるでの
もみづまで
寝もと吾は思う
汝はあどか思う
(3494)
この歌にある「兒持山(児毛知山・子持山)」は、群馬・伊香保温泉近くの山で、こことは異なるようです。歌の意味は、
子持山の若いかえでの葉が、(秋になって)紅葉するまで、(あなたと)寝ていたいと私は思うが、あなたはどう思う?
注:「かへるで」=かえで。蛙の手の形をしているところから。「もみづ」=もみじ。紅葉。
山の名前に「子持ち」を懸け、寝ることで「子を持とう」ということで求婚している歌です。子持山付近での歌垣の世界の存在をうかがわせる歌です。
「歌垣(うたがき)」とは、特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う習俗。
古代の日本では、常陸・筑波山などで歌垣の風習が存在したことが『万葉集』などにも明らかです。歌垣は未婚男女の求婚の場という意味合いもあり、若い男女が集会し、一緒に飲食をしながら互いに歌を掛け合いながら一対一の関係になって、恋愛に発展していきます。もちろん、その場限りの恋愛もありえます。
語源は、「歌懸け」で、「歌(訴う)」の「懸け合い」に由来しています。
古代の言霊(ことだま)信仰の観点から、ことば(うた)を掛け合うことにより、言葉の霊力の強弱が試され、男女間の求愛関係もその強弱を通じて決定されることとなります。そうした掛け合いの面白さ、駆け引きの苦心など、後代には和歌(贈答歌)や連句などの世界にもつながっていきます。
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