宿内の通りは歩道など整備されています。
「筑池」交差点。
「水道道」という表示。
「水道道」探索も面白そうです。
日本初の近代水道は 横浜で明治20年開設
神奈川県は明治16年(1883)、香港政庁の英陸軍工兵少佐、H.S.パーマーが来日した際、彼と3か月の契約を結び、水道施設に関する調査、設計を依頼した。
その報告書に基ずき同18年工事が着工され、津久井郡三井村の道志川が相模川に合流する地点(海抜100m)に取水口を求め、そこから野毛山浄水場(海抜50m)にいたる43km余りの導水線路を2年間かけ、同20年9月に開通させた。
相模川が狭い山間を流れる上流部と川井接合井から野毛山に至る丘陵は起伏が多く、帷子川が曲がりくねり、地盤も悪く工事は難航した。
英グラスゴーから輸入した鋳鉄管は船で相模川から上流に運び上げるか、水道管を埋設する道路敷にトロッコを埋設して運搬されており、今でも随所にトロッコ跡が見られる(福泉寺入口付近、川井本町バス停付近、西川島公園など)。
給水開始の日には関内の吉田橋のほとりで、消火栓を使った放水試験がおこなわれ、筒先から勢いよく吹き上げる水に人々は驚嘆したものだ。
「川井本町」バス停付近。
(この項、「旭ガイドボランティアの会 村田啓輔」さんのHPより)
「(横浜)高島町まで10㎞」ポスト。
この先の「今宿」から左手に入っていきます。
すぐ左手に旧家の佇まい。
住宅街を進みます。旧道らしい道筋。
大きなおうちも目立つ。
路傍には「馬頭観音」や古仏が。
「国道16号線」に合流。
すぐ「鶴ヶ峰本町」交差点で左に入ります。
ここも左手に進む。横浜はけっこうアップダウン(坂道)の多いところ。
左手の「薬王寺」門前の「六ツ塚」。
おおよそ乱世には学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼備えた武将で今なお親み慕われている
その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は菅谷の館(現埼玉県比企郡)を6月19日発し鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ霊堂の前方帷子川を越えた彼方の台地(万騎が原)方面から突然攻め寄った、公は策にかかったとは知ったが、武士としてここに決戦を覚悟した、この時公の重臣らは一度菅谷の館に引き返し軍を整えて鎌倉方を待たるるよう進言したが、公は毅然としてしかすれば我に陰謀があったと無実が事実となり永久に汚名を着ると論した上、午の刻(正午より数時間にわたる激戦のはて愛甲三郎季隆の矢に当り遂に一族郎党134騎とともに玉砕した。時は元久2年6月22日(1205年今より768年前)公は42才、この地に主従一同と六ヶ所に葬り、代々伝えて六ツ塚と言う。
昭和48年6月22日 旭区役所 旭区観光協会
通りをはさんだところにも塚が設けられています。
元の道に戻り、上っていくと、「駕籠塚」の案内板。
「鶴ヶ峰浄水場」の脇右側に『遺跡 駕籠塚』の石柱と『畠山重忠古戦場跡-駕籠塚-』の標柱が立っていて、その奥に塚と説明碑があります。
元文二年六月二十二日畠山重忠公ハ岳父北條時政ノ策謀ニ因リ冤罪ヲ被ムル
北條義時大軍ヲモッテ之ヲ迎撃セントス
重忠公一族百三四士悉ク死ヲ決スルノ悲報秩父・菅谷ノ館ニ達ス
内室急遽北條ニ至ラントスルモ公既ニ戦死ス 悲嘆慟哭シ乗駕中殉ズ
駕籠塚ハ長永ク其ノ霊ヲ弔ウテ今日ニ至ル
重忠の内室「菊の前」が急いで駆けつけたが重忠の戦死の報を聞き、悲嘆慟哭し、駕籠の中で自害し、駕籠ごと埋葬された。その霊を弔うための塚という。
そこから南方を望む。
「鶴ヶ峰」周辺には、「畠山重忠公首塚」、「畠山重忠古戦場」など関連した史跡が多くあります。
「筑池」交差点。
「水道道」という表示。
「水道道」探索も面白そうです。
日本初の近代水道は 横浜で明治20年開設
神奈川県は明治16年(1883)、香港政庁の英陸軍工兵少佐、H.S.パーマーが来日した際、彼と3か月の契約を結び、水道施設に関する調査、設計を依頼した。
その報告書に基ずき同18年工事が着工され、津久井郡三井村の道志川が相模川に合流する地点(海抜100m)に取水口を求め、そこから野毛山浄水場(海抜50m)にいたる43km余りの導水線路を2年間かけ、同20年9月に開通させた。
相模川が狭い山間を流れる上流部と川井接合井から野毛山に至る丘陵は起伏が多く、帷子川が曲がりくねり、地盤も悪く工事は難航した。
英グラスゴーから輸入した鋳鉄管は船で相模川から上流に運び上げるか、水道管を埋設する道路敷にトロッコを埋設して運搬されており、今でも随所にトロッコ跡が見られる(福泉寺入口付近、川井本町バス停付近、西川島公園など)。
給水開始の日には関内の吉田橋のほとりで、消火栓を使った放水試験がおこなわれ、筒先から勢いよく吹き上げる水に人々は驚嘆したものだ。
「川井本町」バス停付近。
(この項、「旭ガイドボランティアの会 村田啓輔」さんのHPより)
「(横浜)高島町まで10㎞」ポスト。
この先の「今宿」から左手に入っていきます。
すぐ左手に旧家の佇まい。
住宅街を進みます。旧道らしい道筋。
大きなおうちも目立つ。
路傍には「馬頭観音」や古仏が。
「国道16号線」に合流。
すぐ「鶴ヶ峰本町」交差点で左に入ります。
ここも左手に進む。横浜はけっこうアップダウン(坂道)の多いところ。
左手の「薬王寺」門前の「六ツ塚」。
おおよそ乱世には学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼備えた武将で今なお親み慕われている
その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は菅谷の館(現埼玉県比企郡)を6月19日発し鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ霊堂の前方帷子川を越えた彼方の台地(万騎が原)方面から突然攻め寄った、公は策にかかったとは知ったが、武士としてここに決戦を覚悟した、この時公の重臣らは一度菅谷の館に引き返し軍を整えて鎌倉方を待たるるよう進言したが、公は毅然としてしかすれば我に陰謀があったと無実が事実となり永久に汚名を着ると論した上、午の刻(正午より数時間にわたる激戦のはて愛甲三郎季隆の矢に当り遂に一族郎党134騎とともに玉砕した。時は元久2年6月22日(1205年今より768年前)公は42才、この地に主従一同と六ヶ所に葬り、代々伝えて六ツ塚と言う。
昭和48年6月22日 旭区役所 旭区観光協会
通りをはさんだところにも塚が設けられています。
元の道に戻り、上っていくと、「駕籠塚」の案内板。
「鶴ヶ峰浄水場」の脇右側に『遺跡 駕籠塚』の石柱と『畠山重忠古戦場跡-駕籠塚-』の標柱が立っていて、その奥に塚と説明碑があります。
元文二年六月二十二日畠山重忠公ハ岳父北條時政ノ策謀ニ因リ冤罪ヲ被ムル
北條義時大軍ヲモッテ之ヲ迎撃セントス
重忠公一族百三四士悉ク死ヲ決スルノ悲報秩父・菅谷ノ館ニ達ス
内室急遽北條ニ至ラントスルモ公既ニ戦死ス 悲嘆慟哭シ乗駕中殉ズ
駕籠塚ハ長永ク其ノ霊ヲ弔ウテ今日ニ至ル
重忠の内室「菊の前」が急いで駆けつけたが重忠の戦死の報を聞き、悲嘆慟哭し、駕籠の中で自害し、駕籠ごと埋葬された。その霊を弔うための塚という。
そこから南方を望む。
「鶴ヶ峰」周辺には、「畠山重忠公首塚」、「畠山重忠古戦場」など関連した史跡が多くあります。
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