(12:33)「戸部通り」を進みます。
1880年代のようす。すでに西の丘が開けています。そこを「横浜道」は縫うように南下します。
2010年代のようす。中央の南北に通じる道が「野毛の切通し」。右手の海はすっかり港と陸との共存地域に。
足下には「横浜道」のロゴが。
「温故知新のみち」。
次第に坂道になります。
(12:47)右手は高台。
「紅葉坂」は港から南西に伸びる坂。
近くには開港に合わせて幕府が港の運上や治安、外交などのために設置した神奈川奉行所跡があります。
野毛の切通し
安政6(1859)年、東海道と開港場を陸路でつなぐ横浜道を通すために野毛の山が切り開かれ、この辺りは野毛の切通しと呼ばれ、直角に曲がって、野毛、吉田橋へと続く道になりました。開港場を目指して全国から集まる人々や物資が行き交い、輸入された様々な文物もまた切通しを通り全国に伝えられました。
現在の切通しは昭和3年(1928)に市電長者町線の整備の際に道幅を拡幅・切り下げしてできたもので、東側の石垣はその頃に築造されたものです。西側の野毛山住宅亀甲積擁壁(旧平沼専蔵別邸石積み擁壁及び煉瓦塀)(市認定歴史的建造物)と共に、往時の壮観を今に伝えています。
「野毛坂」バス停。
(12:52)「野毛坂」交差点を左折。右は野毛山公園・動物園などに通じる道。
ジャズが流れる街を東に進みます。
(12:56)左側にある小公園には、日本近代水道最古の水道管が展示されています。
明治20年(1887)日本最初の近代水道がイギリス人パーマーの指導により、ここ横浜の地に誕生しました。
相模川と道志川の合流点(現津久井町)に水源を求め、44㎞離れた野毛山貯水場に運ばれた水は、浄水され市内に給水されました。
この野毛坂の地下には、当時のイギリス製水道管が埋設されていて、今も働き続けています。
当時の水道管を利用して造られたこの記念碑は、パーマーを始め多くの先人たちの偉業を偲んで建立したものです。
人通りの多い賑やかな街並み。
「野毛こうじ」。
足下のタイル絵。
(13:03)「大岡川」に架かる「都橋」。初代の橋の名は「野毛橋」でしたが、後に架け替えられたときに「都橋」となったそうです。
1880年代のようす。すでに西の丘が開けています。そこを「横浜道」は縫うように南下します。
2010年代のようす。中央の南北に通じる道が「野毛の切通し」。右手の海はすっかり港と陸との共存地域に。
足下には「横浜道」のロゴが。
「温故知新のみち」。
次第に坂道になります。
(12:47)右手は高台。
「紅葉坂」は港から南西に伸びる坂。
近くには開港に合わせて幕府が港の運上や治安、外交などのために設置した神奈川奉行所跡があります。
野毛の切通し
安政6(1859)年、東海道と開港場を陸路でつなぐ横浜道を通すために野毛の山が切り開かれ、この辺りは野毛の切通しと呼ばれ、直角に曲がって、野毛、吉田橋へと続く道になりました。開港場を目指して全国から集まる人々や物資が行き交い、輸入された様々な文物もまた切通しを通り全国に伝えられました。
現在の切通しは昭和3年(1928)に市電長者町線の整備の際に道幅を拡幅・切り下げしてできたもので、東側の石垣はその頃に築造されたものです。西側の野毛山住宅亀甲積擁壁(旧平沼専蔵別邸石積み擁壁及び煉瓦塀)(市認定歴史的建造物)と共に、往時の壮観を今に伝えています。
「野毛坂」バス停。
(12:52)「野毛坂」交差点を左折。右は野毛山公園・動物園などに通じる道。
ジャズが流れる街を東に進みます。
(12:56)左側にある小公園には、日本近代水道最古の水道管が展示されています。
明治20年(1887)日本最初の近代水道がイギリス人パーマーの指導により、ここ横浜の地に誕生しました。
相模川と道志川の合流点(現津久井町)に水源を求め、44㎞離れた野毛山貯水場に運ばれた水は、浄水され市内に給水されました。
この野毛坂の地下には、当時のイギリス製水道管が埋設されていて、今も働き続けています。
当時の水道管を利用して造られたこの記念碑は、パーマーを始め多くの先人たちの偉業を偲んで建立したものです。
人通りの多い賑やかな街並み。
「野毛こうじ」。
足下のタイル絵。
(13:03)「大岡川」に架かる「都橋」。初代の橋の名は「野毛橋」でしたが、後に架け替えられたときに「都橋」となったそうです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます